10月日曜仏教会のご案内-当日雨天中止となりました。
雨天により中止となりました。
次回、春5月にみなさんとのおまいりを楽しみに待ちます。
秋の寺平を歩く~祖師まいり~
10月5日(日)
14:00東雲閣出発
14:15寺平参道登り口
14:35祖師覚鑁上人像おまいり
15:30東雲閣解散
(お寺から同乗を希望の方:13:40出発)
事前申込・参加無料
(申込:070‐4195‐8939)
寺の発祥地、寺平を歩きます。
山道が祖師像前に至ると、辺りの「気」が変わることに気づきます。
秋を楽しみながらおまいりください。
花咲くころに
9月に入ってもなお続いた30度を超える暑さが、お彼岸を迎えるころ、
やっと肌に涼しさを感じるようになりました。
暑さ寒さも彼岸まで。
昔の人の感性から生まれた言葉は本当に的を得ていると思います。
秋のお彼岸が近づくと、不思議と彼岸花が土から伸びてきます。
遠くからでも目に入る赤い花は、秋が深まりゆくことの知らせであるとともに、
お彼岸におられるご先祖様たちを思わせてもくれます。
奥ゆかしく咲くこの花を見て、自然の営みの神秘性を感じずにはいられません。
名の通り、お彼岸のころに咲くこの花には、花言葉がいくつもあります。
私が一番好きなのは、「また会う日を楽しみに」。
亡き人と重ねる言葉であったとしたら、どう捉えてよいものでしょうか。
悲しみの時期を乗り越えて、やっと日常を取り戻し、やがて心には
平穏が訪れ、かつての悲しみは遠のいていくでしょう。
人にとって時間とは、事を忘れさせていくためのものでもありますよね。
忘れゆくことは罪なことではないのです。
悲しみや痛みを、いつまでも同じ重さで胸に抱えていくことなどできません。
愛別離苦を乗り越えて日常を取り戻せたのは、
きっと流れる時間の働きに、「必要なだけ」忘れさせてもらえたからであって、
自分の意思で忘れていったわけではないのですね。
いままでも、これからも、人は時間という妙薬にどれほど救われるのでしょう。
しかし、時間というものにはいたずらな一面があり、悲しみ痛みを忘れ、
随分と時が過ぎたころに、なぜかふと「寂しさ」だけが蘇ることがあります。
いつまでも、この時期には必ず姿を見せてくれる彼岸花。
いまを生きる人たちを大地とともに支え、見守ってくれているご先祖さまの、
慈悲の声を表す赤い花なのではないでしょうか。
「寂しくないかい。」
私たちも、この花の咲き乱れるころに、ご先祖様を訪ねてみるのです。
息をととのえ心静かに手を合わせ、いまの命を照らしてもらう。
生きるとは、なかなか大変なことですね。大先輩。
ありがとう。また会う日を楽しみに。
日が沈む西の空が輝いている。
合掌
(追記)
御礼。
先日の秋彼岸境内清掃には多くの方にご協力いただきました。
和気あいあいとして汗を流す皆さんのお姿に、胸熱くなりました。
お彼岸前に寺に足を運び一緒にお経を唱え、境内を見渡して
綺麗にしてくださり、とても善き回向になったことでしょう。
また会う日を楽しみに。
お墓のこれから
地方で墓終いの件数が増えています。
この地域はどのお寺さんと話しても、同じ状況のようです。
お墓に限らず、仏壇、位牌も同じです。
(新聞を見ると庭終いなんてものも目にしますね。)
いままで維持管理し守ってこれたものが、将来叶わなくなることを見越してのこと。
お墓の聖地区画は永代使用権をもって利用されていますが、これを継承できる人が
いなくなれば、いずれ無縁墓となってしまうのです。
こどもがいない。こどもの住居が遠方。こどもがいるがで独身である。
さらにはこども夫婦の間にこどもができないことを理由とする方もおいでです。
いつかは継承が途絶えてしまうことを懸念して、いまのうちにお石塔を撤去し、
区画をもとの状態に戻して使用権を管理者に返還するというのが墓終いです。
この時点で決めてなくてはならないことは、ご遺骨をどうするのかという点です。
・供養して守っていただける親族(要承認)があるところに改葬。
・お寺の永代供養墓(夫婦墓もある)ならびに納骨堂
・行政が扱う霊園の永代供養墓
・樹木葬
・分骨
(永代供養墓には個別、合祀など、他にも選択肢がございます。)
墓終いをお考えになる方は、皆等しく継承が容易ではないことを感じています。
お墓を継承するということは、維持管理を必要とするという認識ですので、
管理者へ納める維持管理料(公共部分)、使用聖地区画および石塔の美化の心得、
供養の心得、これらをもってお墓を守るということになります。
先々この継承が途絶えてしまう、あるいは維持管理が負担となってしまうことを見越し、
いま、頼れるお寺や地域の方々と縁があるうちに代々のお墓を終う手続きを済ませたい、
つぎの世代に任せてしまえば、その負担はさらに増してしまうはずとお考えです。
多くは残される人たちが抱える面倒を慮ってのことでしょう。
なかには、こどもが遠くないところに世帯をもっていらっしゃっていても、
「負担をかけたくない」の一心でお墓終い、仏壇(ご尊像・位牌等の整理)終いの他、
生前戒名を受けようとする方もいました。
いまの時代、生前において出家戒名を授かることは、とても徳高いことのはずですが、
実は理由はそこにはなく、「自分の位牌を作っておきたい」というお考えからでした。
自分亡きあと、こどもにかかる負担や面倒をなくしたいという思いに他なりません。
お寺としては、生前戒名を授かる意味、意義、徳というものを本人に知っていただき、
ご理解を得る必要がありました。
そのうえで納得し、立ち止まってもらったのです。
先の人に負担をかけないということは、
終うだけではなく、先に用意しておくということもあるんだなと感心した一件です。
僧侶は、日常会話でお墓終いや永代供養のことを尋ねられることは少なくありません。
なかにはお墓を終うことから改葬、方向性をご自分でお決めの方がいらっしゃいますが、
離れて暮らすこどもには相談したことがない、相談せずに決めたいと言うのです。
内容だけに、日々忙しくするこどもたちに向けて話すことさえ負担と感じておいでです。
理由はそればかりではなく、日頃疎遠になっていることなど様々あると思います。
本当に難しいですね。
いまも、こどもからお年寄りまでご家族そろってお墓まいりをする姿が見られる一方で、
深刻な問題を抱えていらっしゃる方々がとても多いのが現実です。
それでも、亡きあとのことは家族と話し、共有したうえで進めてほしいと願っています。
あとに残されるこどもたちの、本当の気持ちはわからないからです。
負担を避けるのか、向き合うのか、いまは「芽生えていない感情」もありますから。
墓終いが済むと、その聖地(使用権利)は管理者のもとに戻ります。
その「空き区画」を放っておけば草を伸ばし、お隣の聖地、さらには霊園全体の景観を
乱してしまいますので、お寺で年に幾度も空き区画の草刈りをします。
聖地分譲が進んだ時代は終わりを迎え、この手入れの量が増えていくのを実感します。
作業していてどこか寂しくなりますね。
これが移り変わりの姿であって、先の覚悟が必要です。
お墓や仏壇終いが進む背景にある心理や置かれる状況がいくつも存在するなかに、
ご供養(または祈り)の行為、その意識自体が薄れているという実態があります。
供養の必要性を感じなくなったと言い換えることができますね。
現代において、家族内に精神のバトンがつながっていかないのは仕方のないことですが、
この仕方のない部分に、泥臭くお寺が働きかけ続けること、僧侶の姿勢が必要です。
お寺は受け皿を整えてご負担を解くことと、精神の大切さを語り続けていくこと、
形にして「見える部分と見えない部分」、ふたつはまさに両輪です。
今年のお寺のモミジアオイは、次からつぎへとたくさんの花が咲き続けています。
しかし多くの花をつけた翌年に、花がつかなくなることがあるそうです。
観音堂のそばのシャクナゲは5、6年前にたくさんの花を咲かせましたが、
それから何年ものあいだ、花が一輪も咲いていません。
理由のひとつに、栄養が回らず弱っている、あるいは病気していることがあげられます。
弱っている時、必要に駆られて精一杯の花をつけ、明るく咲き誇ることがあるそうです。
どこか人とも似ているなと思います。
見えるところはたくさんの花々。
脆く弱り切った部分は見えていないことがあるのですね。
合掌
2025年9月の「言葉の力」

道を正す転機には
苦い体験が生ずる
受け入れ難い変化があり
耳に痛い忠告もある







