優劣をうたがう
街を歩いていると、若い女性が新聞のような物を配布していました。
一瞬見えた文字から宗教新聞と気づきました。
何が書かれているのか興味があり、一部いただき、
私に関心をもたれても応じることなく、一礼して立ち去りました。
一宗教。
ひと通り読み終え、それがもとは仏教から波及したものとしても疑問が残る。
法による「力」
大いなる導きの力。先見の力。救いの力。
それらの存在の「主張」が文面からみてとれます。
ものの受け止め方は人によりけりですが、
この「力」に対して傾倒するのは、正直違和感を覚えます。
神仏の力が強力であるがゆえ、普段は見られない特別が生じると聞いても、
その「特別」というものさえ疑ってしまうと言えばよいでしょうか。
私は、普段と特別の間には、はっきりとした線引きなどなく、
森羅万象、生きとし生けるものに神仏の響きがあり、
そこに優劣はないと考えています。
神仏のなかにいて、この世の理を弘法大師はこのように伝えています。
「物の興廃は必ず人による。 人の昇沈は定めて道にあり。」
必ず“人”による。
願いを成就するためには、まず自身が正しく努力する道が大切です。
人生には選択を迫られる時が幾度と訪れます。
この選択も自分の培ってきた経験値や思考力が試されたり、
頼りにする人からの助言や支援を必要としたりするものです。
その後、選んだ道を潔く生きることもまた、その人の強さや信念でしょう。
そして、感謝の心も、その人のなかに育っている人間力だと思います。
仏教は、結果を約束するものではありません。
この世の苦楽、喜び悲しみに寄り添い続けてくれるものと思います。
「結果」に支配されるのではなく、教えに照らし、心身に乱れあればととのえ、
いまを生きるための仏教でありたいものです。
小学生の頃に読んだ人気漫画に、
どんな願いも“ひとつだけ”叶えてくれる、神龍が現れるシーンがありました。
そんな龍が現実に目の前に現れたら、何を伝えますか。
瞬時にして迷う気がします。満足に気づかされるのかもしれない。
結果を「自在に操り創造」する『絶対的存在』とは、
人の迷いや恐怖心を生むものではないでしょうか。
仏の教えに、力の優劣を競うものさしはありません。
身近にある、安らかな身と心の教えです。
満ち足りていながら、不平不満を言っている自分があるとすれば、
そういう姿を見つめなおさせてくれるものと思います。
「ありがとう」「ごめんなさい」「おかげ」の心を生涯失わないための教え。
ある動画で見かけた、つきたてのお餅を提供する店のご主人が、
餅をつくまえに、目の前の蒸されたお米に向かって手をあわせる姿。
実に忘れてはならない、謙虚で温かな人の心でありました。
合掌
寺平 覚鑁上人像
ブンナよ、木からおりてこい。
好奇心ある長女(中1)の行動力には驚かされることがあります。
今年は演劇をやりたいと言いだし、
岡谷の劇団、「劇団ゆーれー@サーカス」を訪ねました。
毎年開催される岡谷市文化祭、「おかや演劇祭やりたいもんシアター」に
出演する常連の劇団です。
大人とこどもがともになりお芝居を創り上げている劇団です。
今年も11月29日から12月1日までカノラホールで開催されます。
当劇団に初めてお世話になったのは、娘が小1の時、
「ごめんね、雨ふらせちゃって。」
小さな役をいただき、お芝居の稽古に励んだ初体験でした。
その翌年、「龍の子太郎」にも出演。
主役、太郎を見事に演じたのは小学1年生の男の子でした。
激しい竜を演じた、主役のお母さんの演技は圧巻でした。
この時の演目、実はうちも家族で出演した思い出があります。
娘のお稽古について行った際に、お父さんも出ないかと声かけてもらい、
その場のノリで返事しました。お芝居に関心があったのは確かですが。
次の稽古には小1の息子も参加し、主役の子とは友達だったので、
こども同士、稽古から本番に至るまでよい経験ができたと思います。
最終的には妻、さらにはまだ2歳の娘までも出演することとなり、
いま振り返ると、二度とないだろう稀な体験と感情を家族共有したのだと思います。
コロナ禍を経て、しばらくぶりに劇団の活動を知った長女がお芝居がしたいと
言いだしてから、とんとんと話がすすみ、自分一人でお稽古に向かいました。
今回は「私ひとりで」という意思。何かに挑戦しようとする姿勢は幼い頃から変わらず、
そこには、自分をアップデートしていきたい思いが含まれているのかもしれません。
今回は朗読劇。
「ブンナよ、木からおりてこい。」
演劇祭には様々な手法で10団体が出演予定。
劇団ゆーれー@サーカスが出演するのは、
11月30日(土)の午前11時から12時です。
(全公演入場無料)
そして、とても楽しみなお知らせがもうひとつ。
12月に\劇団ゆーれー@サーカス/が真福寺にも来てくださいます。
12月真福寺日曜仏教会
「お寺で朗読劇」
12月22日(日)午後3時
朗読劇 ブンナよ、木からおりてこい。
入場無料、申込不要です。
どなたもご参加いただけますので、いまからご予定ください。
こども向けになっている絵本も、背景には大人にこそ伝えたい真実がある。
「生きるとは、生きているとは。」
お寺を会場にぜひ味わってほしいという思いがあります。
合掌
明星院様ご来山
10月29日、
宇都宮市より真言宗智山派龍池山明星院の御一行がおまいり下さいました。
初日は山梨の寺院、二日目に諏訪岡谷の寺院、神社を巡り、
諏訪の温泉宿でご宿泊されました。
僧侶の先輩であるご住職には、京都本山時代にとてもお世話になり、
一年ほど前、お檀家様と諏訪に行きたいと考えを聞かせてもらった時から、
心待ちにしておりました。
昼食を近くの松川さんでお取りになられたあとご来山され、
さっそくに本堂でご法楽をあげて下さいました。
私からお寺の紹介を少しばかり。本堂、観音堂それぞれお話し、
みなさんには内陣仏様のお近くまでおまいりをしていただきました。
おまいりのあとは限られた時間でしたが喉潤し体を休めていただき、
お寺をあとにされました。
一時間ほど過ごしていただきましたが、あっという間だったように思います。
お檀家様をお連れし、遠くから訪ねていただけることは大変に嬉しく、
また皆さまのご様子から関心ごとを感じ取れるよい機会にもなります。
隣の熊野神社境内の御柱を眺めてもいましたね。
ありがたいことに、夜、お宿でのお食事の席にも呼んでいただき、
あらためてご住職、お檀家様方とゆっくりお話するひとときが叶いました。
ご住職はそのお人柄から人望厚く、絆やご縁というものを大切にしておられ、
毎年のようにお檀家様をつどい、全国各地の法縁を訪ねておいでです。
お檀家様が聞かせてくださったお話のなかの一言が印象に残ります。
「住職がいろんなところに連れてってくれる。」
自ら歩み寄り、リーダーシップを発揮する住職。
寺離れの加速などと言われているこの時代に求められる、
ひとつの理想の姿だと思います。
前の日は山梨のお宿で、深夜にお檀家様が具合を悪くし、
救急搬送先の病院にご入院されたそうです。
お供したご住職はほとんど睡眠をとれていなかったはずですが、
この日、お疲れの様子など微塵もなく。
そういえば、京都時代にも疲れている顔をほとんど見たことがない・・・。
みなさんとともにあり、頼れるご住職は、私と同じ歳、年男。
そして4男1女の父でもある。
最終の三日目は安曇野、松代へと向かわれました。
ご一行の道中の安全と入院中の檀家様の回復を祈念し、
このたびのご来山の御礼を申し上げます。
京都時代共通の思い出の「真澄」を、諏訪で酌み交わせたことにもありがとう。
合掌
仲間
随分と久しぶりに息子のサッカーの試合を観戦しました。
様子を見て、小さかった体が逞しい体つきに成長していることに気づきました。
もう6年生。
1年の終わりから辞めずに通い続け、息子は何を得たのかな、
などと考えておりました。
試合のない時間に仲間と楽しそうにしている姿が真っ先に目に留まり、
この仲間が親しく付き合ってくれたおかげでここまで来れたのだと感じ、
得たこととしてまず先に浮かぶのは、チームの仲間だろうと思いました。
ペナルティーで試合に出られないことがあります。
今回も彼がベンチにいる姿を見ました。
理由など聞きません。本人がその理由を理解していればよいのですから。
ですが、本人から私に話してくれました。
仲間のなくしたサッカー道具を一緒に探してあげていたら、
試合前アップの集合時間に遅れたと。
私は思っていることがあります。
団体行動の基本中の基本は時間を守ること。
自分の都合よりも、みんなを優先すべきだということ。
このことに対し、言い訳はしてはならない。
もっとも正解に近い行動の判断は、まず時間に向かい、そこで指導者に
自分たちの状況を伝え、指示を仰ぐことと私は考えます。
団体行動ですから、ルールは守るべきもの。
私も大人になったいまなら、このことを理解し、おそらくそう判断できます。
ですが、私は嬉しかったのです。
仲間の探しものに付き合ってあげたことが。
仲間ひとりをその場において行かなかった息子の優しさが。
人としては、こちらが正解なのかもしれない、とも思うのです。
私だったら、仲間をおいて集合場所に向かったかもしれない。
息子は私とは違う。優しく育ってくれていると感じたのです。
やはり、彼にとって、サッカーを続けて得たことは仲間なのでしょう。
さて、これからは、「世の渡り方」を覚えなくてはなりません。
優しさやいい人ばかりでいてもいけない。
世渡りしていくには、集団には集団の流れがあり、
個の意思を抑えてそれに乗ることも大切。
ケース・バイ・ケース。つまり、今度は探しものをしたい仲間を説得して、
ともに集合場所に向かう行動がとれるようにならなくてはいけません。
自由時間、入ってはいけない敷地にネットを超えて侵入し注意を受けていました。
これも、仲間が蹴り誤って入れてしまったボールを取りに行ってあげたのです。
同じ年頃の自分を振り返ると、私は理由なく遊び心でルールを破るような子でした。
たくさん人に迷惑をかけ、たくさん人に謝りながら体だけ大きくなったような人間です。
指導者の方が言っていました。
ふざけて遊んでいるメンバーのなかには、必ず息子がいると。
やはり、迷惑をかけているのかなと思いながら、どこか微笑ましい。
私と違って、彼には優しさを感じるから。
体が大きくなっただけじゃなく、仲間思いに成長してくれたのは、
きっと、チームの仲間が親しくしてくれたおかげなのだろうと思います。
低学年の頃のサッカー嫌々時期を超え、なんとかいまに至るのは、
チームが息子を仲間として受け入れてくれたからだと思います。
願わくば、この先に中学校へと進む過程で、自分に対しても、仲間のなかでも、
厳しさや忍耐、そして礼節も必要であることを知ってほしい。
小学校残りのチーム生活、大切な仲間ととも何事も全力でぶつかり、
たくさんの思い出を残してほしいと思います。
合掌
追記
よろしければご笑覧下さい。
5年時のサッカー日記(2023)
リスペクト~褒める~ - 真言宗智山派青龍山真福寺 (okaya-shinpukuji.jp)
3年時のサッカー日記(2021)
心のゆとり
先月、ある福祉施設にて講話の機会をいただきました。
内容は、感謝についてふれてほしいとのことでした。
冒頭、感謝って難しくないですか、という問いかけから始まりました。
なぜ難しいと思うのかというと、
感謝という言葉の意味するところは誰もが理解していると思うのですが、
「感謝する」とは何かと考えてみると、分からないでいる自分がいたからです。
寺の仕事に就くと、よく感謝という言葉にふれる。なんら不自然に感じたこともない。
しかし、正直に言うと、私は、感謝しなさいとか、感謝しようと言われると、
それが必要であることを重々承知のうえでも、自分が悩み苦しみある時に
素直にできることではないよなぁ、と考えている人間です。
感謝とは、自然と自分の内側から湧き出るものであってほしいと。
このたび、感謝とは行為というより「心の習慣」というお話をさせていただきました。
感謝の心は、人の幸福感と結びついています。
ただし、幸せは、成るのではなく「有る」ものであって、
気づくもの、見つけるものと私は考えます。
つまり、心の在り方って、とても大切なのですね。
心は、いつか言葉になり、
言葉はいつか行動になり、
行動はいつか習慣となり、
その習慣はやがてその人の人格となり、
運命、人生となる。
10月はじめの今年の彼岸花
以前、こんなお話を聞いたことがあります。
朝、起きた時に、
今日もちゃんと目覚めることができた。今日も自分が生きることに感謝だ、と。
素直でない私は、こう反応してしまう。
今日苦しみを抱えている人たちにとって、その幕開けに感謝などできるものか、と。
このことを仏教に照らして考えてみたことがありました。
諸行は無常なり。
ものごとは常に移り変わり、形あるものはいつか失われてゆく。
「今日という日、いまという時の流れは二度と戻ることはない。」
そう考えてみたら、心の受け止め方が違ったのです。
ある成功者が感謝日記というものを付けるようになったそうです。
毎日、就寝前にその日ありがたかったこと、嬉しかったことを一行でも綴っていく。
はじめは成功体験やいただいたご恩へのお礼だったり、家族や自分を中心としたことが
続いたそうだが、次第に「心のアンテナ」は高く立ち上がってゆく。
職場に交わされる気持ちのよい挨拶、周囲の人の笑顔、立ち寄った店の店員の気配り。
さらには、出かける時に雨が止んだこと、出かけ先で見かけた花々、毎日あたりまえに
時間にピタリとホームに停まる列車にまで。
いままで特別記憶に留めなかったことまで心に残るようになる。
やがて、そのアンテナは自分のマイナス面も「有難いこととして」キャッチしていく。
苦手としていた方からのきつい指摘。自身の些細なミス。
つまり、以前の価値観で、良い、悪いを区別することがなくなったそうです。
何冊にもなった「感謝日記」は、その人の心の栄養となります。
心はいつか言葉になる。
「ありがとう」の言葉の力は、人を磨き、励まし、守ると気づき、欠かせぬものとなり、
日々の生き方が変わっていったのです。
蓮の「種」は、そのまま土に埋めても水に沈めても芽が出るものではありません。
種に「傷」をつけて、水に沈めて発芽するのです。
傷をつけたことで「目覚め」が生じる。
やがてそのことを傷とは呼ばなくなるでしょう。
それを人に重ね、同じことが言える気がしている。
過去の傷、悩み苦しみや失敗が己を育ててくれたことがある。
振り返ってみて、そう思う。
傷を受けた時から、おそらくそれを癒す、目に見えないご縁や力が働いてくれ、
そうやっていまに至るのかなとも。
諸行無常、傷は傷のままではない。いまは、いつか過去のものとなる。
遥か昔にお釈迦さまは、この世は美しいと仰られたそうです。
それは、生きていることが素晴らしい、ともとれるお言葉ではないですか。
今日を生きるということ自体が感謝ではないでしょうか。
二度と戻ることのない今日を生きることはとても尊いことであり、
また、等しく戻らない時のなかにいる周囲の人たちにも、今日を生きてもらうこと。
そんな今日を、人が争っていてはいけませんね。
境内に香る金木犀
最後に感謝という言葉の意味についてふれました。
それは、ありがとう、そしてごめんなさいも含まれるものであると。
姿かたちでいうと、私には合掌の姿が思い浮かびます。
心は言葉となり、行動となり、習慣となる。
二度と戻らない一日の「心の習慣」は、豊かな人生に欠かせぬものでしょう。
心のアンテナ、今日はなにをどうキャッチしていますか。
一言でいうと、感謝とは、心のゆとりだと思います。
合掌
秋へ
風に、はっきりと季節変わりを感じられるようになりました。
とても暑かった夏が過ぎてからも、長く残暑が続き体が堪えていたせいか、
なおさら、この涼しさが心地よいです。
これから秋が深まってゆくことを風が知らせてくれます。
お彼岸になり、境内では彼岸花がひとつふたつと姿を見せ始め、
赤く咲いた花が目に留まるようになりました。
お中日の日、檀信徒様の協力をいただき、境内清掃をしました。
ほぼ毎日、朝から欠かさず掃除はしているので、景観を美しく保つことに対して
おろそかにしたつもりはないですが、それでも後回しにしてしまう箇所があります。
昨秋から一年間手つかずにした本堂裏側の柵の整備を男性皆さまに頼りました。
女性の方は、経年劣化した参道石畳の継ぎ目にしつこく生えてくる草を
綺麗に取り除いて下さいました。
ご協力いただけることは有難いことですし、つどって奉仕作業につとめることは、
コミュニケーションの機会にもなり、皆さまにとって到彼岸の徳積みともなります。
貴重なお時間、お力添えをありがとうございました。
寺周辺、寺有地の草刈り作業はもうしばらく続きますが、境内の木々はこれから
枯れた葉を落としていき、辺りからは徐々に緑が減っていきます。
この夏も大いに楽しませてくれた美しい蓮の花は、いまはすっかり枯れ、
わびさびといいますか、趣のある姿に変じています。
客殿玄関では秋の風物詩、鈴虫の鳴き声が響いています。
その時の状態により鳴き声は変わるそうで、食事を与え大切に観察しています。
長くはない命です。行き交う人を癒す声を9月のうちは聞かせてくれるでしょうか。
今年は13の器で蓮を育てました。
花だけでなく、大きく立派な緑の葉がたくさん茂りましたが、すでにその色は褪せ、
多くは枯れていきました。
参道に並べていた蓮は、すべて本堂下に移しました。
これから葉が枯れてしまえば、茎を水面から少し残したあたりでカットします。
秋の終わりには、水を張った状態でシートを被せて冬を越す支度です。
暑さ寒さも彼岸まで、という先人の残した言葉には納得させられます。
お彼岸過ぎれば秋が進み、急に気温が下がり上着が必要になります。
近年、お寺では落ち葉の始末に追われては、あっという間に冬支度という印象。
短い諏訪の秋ではありますが、楽しむ視点、日々観察を忘れずにいたいものです。
話題が逸れますが、
海の向こうのメジャーリーガー、大谷翔平選手は、いま季節に例えるとなんだろう。
当然、秋や冬ではない。
秋冬に重ねた鍛錬と蓄えた知識が春に芽を出し、見えぬところで頑丈な根を張っている。
その後は栄養吸収を怠ることを知らない。
太くまっすぐに成長する幹は堂々たるもので、濃い緑の葉を茂らせて健康そのもの。
それに加えて、柳のようなしなやかさだってある。
陽の光を人一倍浴びて、なお栄養を吸収し続け、吠えるかの如く新鮮な酸素を
周囲に広く送り続けている。
まさにエネルギーが満ちている時。
そう、季節は夏。真夏にまぶしく聳え立つ、希望の大樹のようです。
真福寺の蓮は、今年56の花が咲きました。
大谷選手には、ぜひ56まで本塁打数を伸ばしてほしいなぁ。
合掌
信心灯る巡礼
関東より、諏訪三十三観音まいりの方々がお越しになりました。
四日かけて巡礼し、その最終日、27番から結願までのおまいりでした。
当山は結願寺のひとつ前にあたる、32番札所。
ご一行のお堂までの足の運び、読経のお姿を拝見し、
随分と元気なご様子とお見受けしました。
そこで、皆さんお疲れを感じませんね、とお伝え申し上げたところ、
苦笑され、一斉に首を横に振りました。
そう、巡礼はとにかく疲れるんですよね。
訪ねる一ヶ寺一ヶ寺でめぐりあう仏さま、美しいお庭、寺の気、
また住職をはじめとする寺族とのご縁のなかで、笑顔になり、
励まされ、癒され、気持ちが奮い立ってゆくものです。
自身、巡礼、お遍路から随分と遠のいてしまいました。
四国八十八ヶ所霊場を一人で歩き遍路したのが、平成15年の春。
県内の方々の西国三十三観音巡礼に先達として同行したのはその年の夏。
しかし、途中、私が秋から京都本山に奉職することになり、そのお役目は最後まで
果たすことができませんでした。
本山奉職時も修行僧とともに四国霊場を巡礼させていただきました。
その最後の機会が平成19年の冬。
以来、霊場巡礼の機会は一度もございません。
今年、岡谷の目上のご住職様が、お檀家様を連れ、自ら車を運転して
四国霊場を巡ったとお聞きし、感銘を受けました。
私もまた、皆さんと一緒に巡礼に出向きたい思いがあります。
巡礼に興味関心のある方は、行きたいのだけど、日常でなかなか機会がないと
口を揃えて仰います。
つまりは、これを計画して皆さんをつどい、お連れするのは寺の使命です。
僧侶が先頭に立ち、非日常へと導くのです。
家を離れ、一日朝から夕まで寺をつないでゆく巡礼は、普通の旅とは違い、
己と向き合い、己を知ろうとする心身修行の一面があります。
そして、巡った先での様々な出会いによって多くの喜びにも恵まれます。
その喜びとは、日常では得難い、行の疲れを忘れさせてくれるものだったりするのです。
巡礼を成満した時の感動は、傷を癒し、心を満たし、生きる力を与えてくれます。
信心が「灯る」瞬間があるのが巡礼。
一日を終えた夜は、同行の仲間と胸の内を語らうのも醍醐味のひとつでしょう。
そして、幾度となくいまの有難さに気づき、生きている実感をいただきながら、
おまいりの声や背中はおのずと力強さを増してゆきます。
合掌
諏訪三十三観音霊場 第32番 真福寺観音堂
本尊 聖観世音菩薩
ほとけさまにふれる
異常なほど暑かった夏も終わりを迎えています。
残暑厳しい毎日、朝から蝉が騒がしく鳴いています。
まだ夏は終わらないぞ、と叫んでいるかのようです。
見上げると、鳥が蝉を捕えようと必死に逃げる蝉を追いかけています。
まるで強制的に夏を終わらせようとしているかのようです。
自然界の営みは「完璧」、真理そのものとも言われますが、
その大いなる営みのなかに、自然の一部である生き物たち、人間も含めて
「不完全」な者たちが今日も本能を働かせています。
煩悩の世界から自然界を眺め、その美しさに何度心洗われたことでしょう。
8月21日、毎月恒例の写経体験会が行われ、皆さん、お暑いなか
熱心に足をお運びいただき、般若心経の写経を心静かに勤めました。
真福寺での写経会で大切にお伝えしていること。
丁寧にすすめていくことはもちろんですが、完璧な写経、
美しい文字がゴールではありません。
写経は心の鏡。
移りゆく心が文字に映ります。
筆をとりながら、自分の揺れる心とも向き合うことが大切。
心揺れることなく書き進められたのなら、それは喜びや自信ともなりましょう。
どちらも写経の醍醐味といえます。
今日の写経と明日の写経はまた違うわけで、この時間と道のりが味わい深いのです。
金子みすずさんの詩を紹介します。
わたしがさびしいときに よその人は知らないの
わたしがさびしいときに お友だちはわらうの
わたしがさびしいときに お母さんはやさしいの
わたしがさびしいときに ほとけさまはさびしいの
共感するほとけさまが表されています。
気持ちに寄り添ってくださるほとけさまの慈悲深さ。
これは写経の功徳と似ています。
経文が自分を受け止めてくださる。
写経の道のりにおいて、経文を目で追い、指で触れる行いそのものが自分を支え、
安心や励みにつながるのです。
写経を通じて、皆それぞれの思いでほとけさまにふれる。
真福寺の写経はそれを伝えたくて開かれ、皆さまから大切に奉納されています。
晴れの日は晴れなりに。
雨雪の日もそれなりに。
来月の写経は蝉の声を聞くこともないでしょう。
合掌
写経体験会は毎月21日(弘法大師ご縁日)朝9時より
奉納料:500円
つなぐご利益
四万八千日観音まいりが行われました。
8月10日。
この日におまいりし、観音様のご縁をいただくと48,000日に相当するご利益があると
古来から伝わる観音信仰です。
年数に換算すると138年。次世代までも届くご利益ということになります。
いま、私たちが安心して日常をおくれているのは、あたりまえのことではありません。
これらは遠い昔の人々が味わってきた苦労と、生活に根付いていた
深い祈りのおかげが今日に働いていると思いませんか。
昔の方は、朝な夕なに手を合わせて祈っておられたのです。
いま、失いたくないものを思い浮かべ、指折り数えてみて下さい。
そこにあげたものすべては、自分がすでに有難く持ち得ているものです。
いくつ数えたことでしょう。これは大変なご利益なのです。
さて、私たちはどれだけ長く生きても100年。
48,000日の功徳を感じるにはどうすべきか。
それは「仏に学び、仏をまねる」ことだと思います。
まずは「合掌」の姿。
これは、もっとも速やかにご利益を得る心の姿勢と言われています。
むやみに争いを選択しないこと。分け合い、寄り添う気持ちをもつこと。
よき道に導くには、人は一度立ち止まり合掌するところから思考することが
大切だと思います。
なぜ合掌がよいのか。
理由は、人には仏性が具わるとされていること。
ゆえに仏と同じ姿をすることは、本来、人には心地よいものなのです。
心の支えとなり、さらには人の輪を支えてもくれるでしょう。
仏道は私生活のなかにあります。
日常に合掌の機会はありますでしょうか。
私たちがその姿勢を大切にすることで、それをまねる次の世代がいる。
このバトンがつながって、初めて確かな功徳を知ることができるのではないでしょうか。
次世代までも届くご利益。
これは、いまを生きる私たちが仏さまから学んでこそ得られると思います。
学び、まねて、それが深い祈りとなっていきます。
合掌
本山の昼寝
総本山智積院に奉職の頃、先生方に古くから本山に伝わる金言を教わりました。
「本山の昼寝」
智積院では寝ているだけでも勉強になるということの例えだそうです。
その理由はいくつもあるのでしょう。
日常に法を見聞きでき、唯一の大法にも触れられる。
身近に常に先生方が居られ、教えを請うことができる。
各地からいろんな人がつどうので、多くご縁に恵まれる。
などでしょうか。
このたび、長女と長男が、京都本山で開催された、真言宗智山派寺院の
子弟がつどう、「寺院子弟講習会」に初めて参加しました。
きっと、こどもにもこの金言は通じるはずだと。
二泊三日の講習会でご本山にお世話になりました。
全国からつどうお寺の子たちと出会い、先生方からお経、作法、文化などを学びました。
起床から就寝まで規律正しい団体生活、二人は大丈夫だったのだろうか。
多少心配しておりましたが、迎えにいった最終日、その心配は喜びに変わりました。
閉講式のあと、こども同士がまた来年ね、と声を掛け合っているんです。
新しい仲間にめぐり会えて、とにかく楽しかったようです。
なにより、明らかな変化を感じたのは、
こどもが数珠やお経の読み方、私の着る法衣にも興味を持ち始めていたこと。
息子とは、毎週日曜日に一緒にお経を唱える時間をもつようにしているのですが、
突然、自分が経頭役をやりたいと言ってきたこと。
そして、もっとも感心したことは、過ごしてきた本山の生活を誇らしげに
話していたことです。親として、これが一番嬉しく思いました。
お寺のこどもは、いつしか、自分は他の家庭とは生活環境が違うんだと、
多少なりとも思い始めてしまうことがあります。
気持ちを共感しあえる友達もいないので、心のどこかに差別が生じてしまうのです。
今回の本山生活で、自分たちにはこんなにたくさんの仲間がいると知れたことが、
自己肯定に大きく影響したのだと思います。
思いを分かり合える仲間が出来た喜びは格別だったのかもしれません。
学生時の私はこの講習会に参加したことがないのですが、
本山での僧堂生活を送った経験から、そのこどもの気持ちを想像することができます。
このたび、多くのこどもに寄り添い、丁寧にご指導くださった先生方には
心より感謝申し上げます。
さて、この講習会の参加資格は小学4年生から中学3年生。
長女はあと2回、長男は3回参加できます。
もし、来年も参加を選択するのであれば、次は積極的に視野を広め、
仲間と切磋琢磨し、よいコミュニケーションを図ってきてほしいと期待します。
こどもは親の知らない道で、悩み、考え、出会い、成長しています。
こどもには旅をさせよ、という言葉には納得させられますし、
本山の昼寝という金言にも、きっとそうなんだと思っています。
合掌
ほとけさまのこえ
梅雨時期から境内の草の伸びは一段と増し、毎日の作務でも
草取りが追いつきません。
お寺の裏側、人目につかない所などは後手後手に。
皆さんが立ち寄られる場所は、大きくなる前には取ってしまうことを心がけています。
しかし、一度綺麗にしても、この時期はまたすぐに伸びます。
抜かれても抜かれても、踏まれても踏まれても。
平成時代の野球選手に、その不屈の精神力と体躯の強さから、
その人を表す雑草魂という言葉がありましたね。
お寺での日々には、よい気づきや学びがあります。
広い境内の草取りを日課とする生活を続けていて、とめどなく生えてくる草を、
強い意志を持つ者に重ねて見ることはありません。
私にとって、それは紛れもなく「煩悩」です。
取っても取っても、均しても均しても、けして無くなることはない。
いくらでも生えてくる草、これはまさに煩悩をもつ私の内側の姿ですね。
煩悩が無くならないとわかっていても、これを放っておいてはいけない。
だから、よくよく向き合いながら、摘み取っていく作業が人には必要なのです。
やがて庭が綺麗になれば心は晴れる。
煩悩即菩提、という言葉にもなるほどなと思います。
その繰り返しです。ここに人生の縮図があると気づかされます。
境内の草取りに学んでいると、あちこちから蓮の開花の知らせが届きます。
お寺から「はすの輪」を広げてくれた皆様方からの嬉しいメッセージです。
送って下さる写真を見て、私も嬉しくなります。
皆さんの育てている蓮は葉も色濃く立派に成長し、美しい花を咲かせています。
迷い苦しみ、煩悩のなかに在りながら、それに染まることなく水面から姿を現し、
それらを大切な栄養として浄化させて花開く。
蓮の花は、仏教の花。悟りの象徴ですね。
雑草に学び、
高貴な蓮に学び、
人に学び、山に学び、見上げた空にも学ぶ。
神や仏を様々に感じとることができます。
ほとけさまの声が聞こえない。
それはきっと、その姿かたちを想像しているからです。
例えば、仏像のお姿であるとか。
神仏は、かたちのないものではないでしょうか。
鬼も然り。
かたちないものが、様々なかたちや事象となって私たちの前に現れる。
そしてかたちあるものたちが、かたちないものに還っていく。
それは、計り知れず大きなエネルギーであり、またとても微細な存在でもある。
私たちは人智及ばないことのなかに今日も生活を営んでいます。
ただ、確かなことは、「五大に響き」あり。
仏の説法はありとあらゆるところに遍満しています。
蓮の知らせを届けて下さる皆さま、ありがとうございます。
合掌
真福寺境内の蓮(7/18 艶陽天と白蓮)
利他の精神
6月、まだ朝の早い時間に寺平周辺の様子を見ると、かなり草が伸びていたため、
そろそろ綺麗にしなくてはと思ったその日は、普段と違い周辺に変に気配があり、
それは野生動物によるものと感じて警戒心を高めました。
翌日、小熊が発見されたと放送が流れ、そこからそう遠くはない場所と知りました。
あくまで偶然なのですが、この辺りは無防備に近づいてはいけないと感じたことは
事実でありまして、しばらく寺平へのおまいりは遠慮していました。
ただ、周辺の草が伸び荒れてしまうことは気がかりでおりました。
7月上旬、梅雨はまだ明けず連日30度を超える暑さが続きます。
檀徒のおひとりが寺平の草刈りを一緒にして下さることになったのです。
このご厚意に甘えさせていただき、久しぶりに寺平に入りました。
当初、登り口周辺の作業のみと考えていたのですが、山道も刈ろうと言って下さり、
祖師覚鑁上人像までの道をすべて整備して下さいました。
足場も悪く、なかなかの重労働であったと思いますが、快くかつ軽快に作業をすすめる
お姿に驚かされてしまいました。
休憩をとりながらお話を聞かせてもらうと、お年は70半ばですが、
体力はいまも十分あるとおっしゃいます。
とにかく健康、丈夫な体であることが有難いと感じているそうです。
食事は三食しっかりと摂る、早寝早起きを心がけ、十分な睡眠も摂る。
時間を作っては、自らすすんでいくつもの場所に足を運んでは作業し、
安全や景観の維持に取り組んで下さっている。
早起きして仕事をするので、食事もしっかり摂れるそうです。
そのあとに続いたお言葉に、私は胸を打たれました。
「大切にしていることは一日一善」
一日一善。
昔、学校でもどこでもよく聞かされた言葉です。
ですが、最近は聞かなくなったし、口にする人もいなくなったように思います。
これも時代の変化なのでしょうか。
お檀家様がごく自然と口にされた言葉には、説得力はもちろんですが、
その言葉の力強さというよりは、そこに厚い「人情」を感じました。
そして、私が胸打たれたのは、おそらくそのスピリッツ。
利他の精神。
丈夫な体に生んでもらえたから、人のためにもお手伝いしたい。
それに作業した足跡を振り返ってみれば、気持ちいいじゃないか、と
笑顔で話される。
徳の高い方だと感じます。
寺平の空の下、大変清々しい気持ちになりました。
昔々、お釈迦さまはこうおっしゃられたそうです。
「善を成すのを急ぎなさい。善を成すのにのろのろしていたら、
心は悪を楽しむようになります。」
人は善よりも、意識した悪意に加えて「無意識の悪行」をいくつも重ねています。
だから、日々お経のお勤めは「懴悔の文」から始まります。
逆に、無意識の善は難しい。
やはり、善は意識しないと成せるものではないと思うし、
身についていかないとも思います。
私なんか、善がすぐに身から離れてしまう。
しかしながら、善行を喜ぶ心は、まことに自然なこと。
それは人の深いところには仏性があるからだと考えています。
お檀家様のように、心身が両輪の如くしてお健やかであることは、
大事とわかっていても、なかなか得難いのです。
なぜか。これも昔にはよく聞いた言葉だ。
「修行が足りん!」
そんな私が、聖地寺平が綺麗になりひと安心。
あらためておまいりをさせてもらおうと思います。
鈴に代えて、錫杖の音を山に響かせながら。
合掌
夏のおくり火に向けて
戦後まもない昭和26年に始まった、岡谷の夏の風物詩「とうろう流し」を
岡谷市仏教会が継承し、盆供養『諏訪湖おくり火』を執り行います。
8月16日送り盆の夜に、岡谷湖畔公園に足を運んでいただき、
法要において香を手向け、諏訪湖畔を灯す大きなおくり火をみつめながら、
亡きご家族、ご先祖さま、大切な人を偲ぶひとときとなります。
この日に向けて、ご供養の事前受付が市内各寺院で始まっております。
ご縁のある寺院にて、下記内容につきお申し込み下さい。
◇とうろう供養
市内の小中高生たちが絵入れしてくれた灯ろうの一面に、僧侶が故人のご戒名などを
心を込めて筆入れいたします。
夜の会場を灯し、諸精霊を優しく導く約200基の灯ろうとなります。
ぜひ、当日お越しの際には、会場に故人の灯ろうを見つけてあげて下さい。
(ご志納:5,000円)
◇木札とうみょう
木札に僧侶が故人のご戒名などを筆入れし、法要のなかで湖畔のおくり火に投じます。
この木札によって火はより大きくなり、皆様のお心も癒す荘厳なおくり火となります。
(ご志納:1,000円)
◇手紙とうろう・・・当日会場受付
真白い灯ろうに、故人へのメッセージや絵を自由にお書きいただけます。
当日の受付にて皆様のお気持ちを「送る言葉」に添え、会場を灯して下さい。
(ご志納:2,500円)
特にご新盆を迎える皆様方にとっては、お寂しいひと夏を迎えることとお察しします。
どうぞ、お誘いあわせて法要に出向き、多くのとうろうと湖畔のおくり火に手を合わせ、
安らげるご浄土に向かわれる御霊にご供養を捧げていただきたく存じます。
また、岡谷花火まつりが同時開催されており、上空には花火が打ち上げられます。
この日の夜空は、特別なものとしてその目に映ることでしょう。
一筋の涙が心を洗ってくれることもございます。
ご遺族の皆様にとってもお心の安らぐひとときとなることを願っております。
この日の会場、法要においてご供養をお考えの方がいらっしゃいましたら、
真福寺までお問い合わせ下さい。
連絡先:070-4195-8939(真福寺)
なお、当山ではすでに35基のとうろうを預かっており、
夏休みの「寺子屋」に参加する小中学生が絵付けをする予定となっています。
この他に、有志で絵付けをしたいとご興味の方がいらっしゃれば、ぜひ、ご連絡下さい。
7月中、いつでもお寺にて、ゆっくりと絵を描いてお過ごし下されば幸いです。
私も絵を描くことが好きなので、一緒にどうですか。
岡谷市仏教会が盆供養を継承し、湖畔公園にて法要を営むのは今年が3回目です。
新たな岡谷の夏の風物詩として、先の世代までも末永く心に残る行事となりますよう、
お心添えいただきながら、温かく見守って下さいますようお願い申し上げます。
合掌
TUBOMI
蓮育は苗の植え替えが大変ですが、丁寧に植えてしまえば、
その後はそれほど手がかかるものではありません。
5月の終わり頃から10日に一度わずかな追肥をします。
7月に入れば一週間に一度。やはりわずかな量を。
6月も半ばになると気温が一気にあがり、アオコが発生するなど水が濁ります。
水のなかに手を入れて、余計に生えてしまった草などと一緒に取り除き、
水環境の手入れは愛情を込めて。
同時に、この頃に成長の早い種類は花芽が出てきて、
蕾の成長が進むと、水の減りも増すのです。
暑い日、いつの間にか水がわずかになっているなんてことが結構あります。
なので、夏場は朝の涼しいうちに水を足すことを気に留めておきます。
また、メダカを放しておくと、水中に生息する蚊の幼虫ボウフラを食べてくれます。
蚊の発生を防いでくれますし、よく観察しているとメダカの子にも出会えます。
夏の暑さとともに花の蕾はぐんぐんと伸びていき、葉を超えていき、
やがて大きく膨らんだ蕾は、人の合掌や祈る姿にも見えます。
実際に、密教の合掌の種類には未敷蓮華合掌(みぶれんげがっしょう)と
いうものがあります。
少しだけ、指先を開くようにするのが特徴です。
「仏性を有しながら、まだ迷いを払えずにいる姿」
見方を変えれば、これから花開こうとしている姿。
嗚呼、水がどんどん減っていくのがわかる気がする・・・。
世の中の才能を開花させた人たちには、
例外なく多くの迷い、苦労があったのですね。
そして、どれほどのご縁を栄養として吸収してきたことか。
祈り―
泥の中から、花芽を伸ばしたならば、
願いと可能性を秘めて、その蕾を膨らましたならば、
きっと開花してほしい。
2024北海道日本ハムファイターズ、
背番号29を応援しています。
遠く信州、岡谷の田舎より。
合掌
6/18岡谷川岸に縁あるドラフト1位ルーキー 1軍マウンドデビューの朝
夏休みこども寺子屋の参加受付を始めます。
今年のこども寺子屋は7月29日(月)の開催です。
朝9時から夕方の4時30分まで。
昨年は10回目を記念して、初のお泊り寺子屋を実施したところ、
大変な盛り上がりとなり、地域のお寺の環境がこども育成に適して、
今後、その可能性を十分に発揮できることを感じました。
また、一番楽しんでいたのは自分だったような気もします。
こどもの頃の合宿などを思い出し、いまも残る童心が灯ったのかもしれません。
毎年夏休みに開く、真福寺こども寺子屋。
第1回目に参加した6年生は既に成人していて、大学でいうと4回生。
ご法事で会った時は、あまりに大人びていて驚きました。
法事でご家族と一緒にお経を唱えた際、つい、小学校の頃に参加した寺子屋で
読んだお経の記憶はあるのかなぁ、と気になったりもしました。
1年から6年まで、毎年欠かさず参加したこどもは、これまでに4人。
今年、もう2人がこれに加わる予定です。
また、中学生サポーターとして3年間手伝ってくれた子も1人います。
私は寺にこどもたちを迎え、よい夏休みの思い出を残してあげたいという
気持ちは毎年変わりありませんが、一緒に過ごしてきて実感することは、
毎回大人の自分に反省が残り、随分と学ばせてもらっているということです。
育ち盛りのこどもたちには、何を残してあげられているのかな。
正直気になっているところでもあります。
こどもたちの記憶の片隅に寺子屋の記憶が残り、将来、何かのきっかけで
大切なことを大切なシーンで思い出してもらえるような、そんな取り組みを
して、自分もわかりやすい姿勢で示したいと思っています。
令和元年の寺子屋で、「希望の樹」という巨大手形アートを制作しました。
大きな木の絵に、こどもたちそれぞれの手形を様々な色で押して「花」に見立て、
そこに一人ひとり、「願い」を書き入れました。
大広間に飾られたその樹は、しばらくの間飾り、6年後の寺子屋を終えたら外すことを
その年のこどもたちには伝えました。
1年生だった子たちはもう6年生。
当時の願いごとを読むと、微笑ましい気持ちになります。
6年はあっという間ですね。そして、こどもの成長スピードは本当に早いと感じます。
希望の樹が飾られた翌年にコロナウィルスが蔓延し、
こどもたちは長いことコロナ禍の生活を余儀なくされました。
生活の変化にもよく順応し、大人の作ったルールをよく守り、
禍を確かに乗り越えたのはこどもたちです。
そして、新たな生活様式に生まれたシステムを体験するなかで、
きっと将来に役立つ知識を身につけてくれたのもこどもたちです。
今年の寺子屋が終わりましたら、こどもたちのこの先の飛躍と、
心身健康を願い、希望の樹を取り外したいと思います。
さて、今回は第11回目の寺子屋。
寺で過ごした体験がこどもの心身成長の一助となるようにと願い、
企画して始めた教化活動です。
心新たに、身を正してこどもたちを迎えようと思っております。
子は宝。子は大人の鏡。
こどもをよく観察して一日をともに過ごし、
こどもたち以上に自分に「気づき」がほしいという思いです。
そして、ひとつでも、将来に芽を出すだろうよき種を撒いてあげたい。
合掌
☆お申込みは、新着情報の申込チラシをダウンロードし、
用紙をお寺まで届けてくださいますようお願いします。
☆食事の支度などお手伝いをして下さる親御さん、
そして進行をサポートする有志の中学生、
今年もどうぞお力を貸して下さい。連絡お待ちしております。
野に咲く花のように
いま、川岸の高尾霊園は一帯がマーガレットの花畑のようです。
初夏の花が墓地を飾ってくれています。
お寺の境内は蓮の葉が成長し始めました。
これからは追肥を行い、葉がぐんと大きく伸びていく様子に期待を膨らませ、
今年も夏本番を迎える頃、美しい蓮の花に出会えることが楽しみです。
仏教では、教えのなかに例えで花をあげます。
花の因となるものがなければ、花(果)には出会えません。
どなたもがご存じの「因果」の真です。
仏教はこれを戒めとすべく、善因善果、悪因悪果の理を伝えています。
より深く見つめてみると、そこにはいくつもの「縁」が働いています。
縁とは、自覚できるものばかりではなく、その多くは自覚のない、
一分一秒無数の働きが交わっています。
「因×縁=果」
因なるものに縁が働いて、果が生じます。
さて、こどもたちは、教育の一環で花を育てる機会を与えられます。
種を撒いても水をあげないと育たない。命にふれる体験。
花に水をかけるだけでは育たない。
まずはよい土が必要であって、そこにしっかりと根が張ること。
水をあげて湿った土から、根が水分を吸い上げてくれる。
大切な部分は土のなかにあり見えない。これは想像の体験。
日を浴びてすくすくと成長する花があれば、日陰を好む花もある。
命を育てることは、なかなか容易ではないと知る。
花観察を通しての縁とは何か。
人の手でいうと、水やりや肥料、そして温度管理もそのひとつでしょう。
これらは命に対する「愛情」というご縁です。
つまり、こどもたちは命にふれ、愛情を育んでいるわけです。
さらに、花を人に例え、人に対する思いやりの心に結び付けていきます。
では、咲かなかった花とどう向き合うか。
私たちは生きていれば、多くの失敗を重ねます。
しかし、結果だけを見て一喜一憂してはならない。
過去にこう教わったことがあります。
ひとつの失敗を自ら失敗と決めつけ手放してしまえば、それは本当の失敗となる。
なぜ事がうまく運ばなかったのかを考えて整理し、後悔ではなく反省することで、
その体験は「財産」になる、と。
失敗ひとつも、自分次第でその後の成果につなげることができ、
いつか過去の失敗を振り返り、あれは良縁だったと思える時が来るのです。
未来が過去を変える、という価値観が存在するのはそのためです。
花も人も共通しています。大切な縁の部分は見えず、また捉えにくい。
失敗と成功だけで良し悪しを計らず、経験そのものが財産となれば、
それを縁として、きっと先々にかたちとなりつながっていくのでしょう。
花にまなぶ。
いまを生きているということは、常にご縁を授かっているということ。
日本のご先祖は「おかげ」という存在に気づき、日常それに手を合わせてきました。
まさに美徳であると感じます。
時代が移り変わっても、人が三密(行い・言葉・意識)を健やかにして、
よいご縁をつなぐことはとても尊いと思えます。
数限りないご縁が命を支えてくれていて、
生きていれば不思議なめぐり合わせにも出会います。
そこに咲く花のように、生きていればこそ。
合掌
指導脳にふれる
6月の日曜仏教会は、青葉法話の会を開催します。
若者を中心にメッセージを発信する場としていて、今年が第4回目。
参道の地蔵菩薩
6月9日(日)午後2時より。
今回は塩尻市在住、トランポリン教室TORAJAMを塩尻市と下諏訪町で運営し、
こどもの運動指導に携わる、百瀬圭さんをお招きします。
なぜ、百瀬さんのお話を聴きたいのか。
トランポリンのこと、その普及のことだけではないんです。
百瀬さんの心に秘めた想いが私たちの心に響き、きっと日常を照らしてくれる。
その確信のようなものが私にはあります。
魅力的な人との出会いは、道の先を明るく灯してくれる。
そんな心温まるような喜びがあります。
初めて百瀬さんの指導の姿を拝見した時、その魅力は直感で私に伝わりました。
まずはご挨拶して、お話を聞かせてほしい。
すぐにそれが叶いました。お寺に奥様とお子さんと一緒にお越し下さったのです。
実は、私の妻とこどもたちは、3年以上前に百瀬さんと出会っています。
大雪の日のキャンプを終えて、駅に向かい歩いていこうとしたところ、
偶然百瀬さんが声をかけて下さり、駅まで車で送って下さったそうです。
「トランポリン教室を始めようと思っているんです。」
この時の百瀬さんは、まだTORAJAMを始める前だったのですね。
私の小学校1年生の娘が、下諏訪教室でお世話になっていまして、
これもご縁だと思っています。
私は、人に話し伝える、また観ること見られることが寺の仕事の根底にあります。
法務や行事、そのすべてがそういうものだと思っています。
たとえば、毎年このお寺では、こどもたちの夏休みに寺子屋を開催し、
今年は第11回目を迎えます。
大げさにいうと、私一人で30人程のこどもたちと向き合う。
1対30。
伝えたいことを、どう伝えるべきか。
個に接する時、全体と接してまとまって動こうとする時。
言葉の選択、強弱、緩急、間の取り方。
態度、表情、身振り。
そして熱量。
こどもたちにとって、私のどんな姿勢が明るい導きとなるのか。
毎回、反省と課題が残ります。
寺子屋を終えたあとの片付け作業がもっとも疲れる時間なのですが、
同時に、寝るまで頭のなかでは一日の振り返りと反省を行っています。
妻にも必ず、良かった点、良くなかった点を尋ねる習慣がついています。
その反省と課題を必ず次の年に生かします。
つまり、大人の私はこどもたちに育てられています。
きっとこれからも変わらないでしょう。
こどもに限らずとも本来何事も一緒、いつまでも学びではないでしょうか。
百瀬さんと話した時、大切にしていることは教育ではなく、
「共育」だと仰られました。
私のもつ価値観と交わった瞬間でした。
私はもともと話すことを苦手としています。
知識や語彙力も乏しく、僧侶としても苦労するだろうなと。
実際にこのことに関しては欠点だらけだと、自分を客観的に見て自覚しています。
相手を見て、それがわかることも多々あります。相手は自分の鏡ですから。
運動指導をする百瀬さんは、同じく一人で多数のこどもと接していました。
なのに私とは「視野」の広さが違う。
メッセージ力も違う。
そして、圧倒的に違ったのは観察力。
指導者としての自覚が、これらの力を磨いているのでしょうか。
私は何事も、見えない「空気」というものがある程度を支配していると考えています。
話しを聞ける空気。
見ようとする空気。
さあ、動こうとする空気。
この空気を作るのは、指導者です。
教室のこどもたちは指導者から離れても流れるように動き、
そして、指導者を近くに見る時の表情が明るい。
そこに居て、その空気を醸したのは一人の大人、百瀬さん。
こどもたちの顔と名前はすぐに覚えてしまうし、
一人ひとりの力量、細かな現在地までもすべてインプットされている。
正直驚きましたし、感動した点でもあるのです。
指導者であれば当然だろ、と思う方もいるかもしれません。
しかし、このことは当然ではないんです。
けっして誰でもできることではありません。
よほどの努力と経験を積まれてきた人、
志をもって、熱量とともに誠実に指導にあたっている人なのがよくわかります。
そして、強さと優しさの両方が滲み出ているんです。
こんな百瀬さんでさえ、教室を終えたあとの車のなかは、
振り返りと反省の時間なのだそうです。
おそらく自分の弱さも知っている人なのでしょう。
今回の百瀬さんによる講話のタイトルは、
「指導脳~3,000人を超える教え子との日々~」
百瀬さんは、こんな話をしてくれました。
自分は幼い頃に言葉が話せず、特別な学校へ通った。
いまの百瀬さんを知れば、とてもそのようなことは想像つきません。
先日、百瀬さんが出演されたラジオを聞きました。
そこでこんなこともおっしゃっていました。
話せない子ほど、強く秘めているものがある。
そう、それがいまの「指導者 百瀬 圭」なんです。
私は、この男の秘めている想いが聴きたい。
指導者として大切にしている軸を知りたい。
この人の日々と「人間力」に触れたら、きっと日常を照らしてくれるだろう。
そういえば、こどもの成長を見守り、痛みや喜びに寄り添ってくれる仏さまは地蔵菩薩。
この人はお地蔵さんのような人なのかもしれない。
合掌
6月9日(日)
第4回青葉法話の会
14:00 ご法楽「智山勤行式」
14:10 法話
「寺の水」 副住職
休憩
14:35 特別講話
「指導脳~3,000人を超える教え子との日々~」 百瀬 圭
15:30 終了
参加無料・申込不要
どなたにも聴きにきてほしいです。お待ちしております。
お寺でヨガ?
何をするにも相応しい場所というのがあると思います。
真福寺でコロナ禍に始まった夜のヨガは、今年の夏5年目を迎えます。
「お寺でヨガ?」
意外だという反応をされる方もいらっしゃるのですが、
まさにお寺はヨガをするに相応しい環境といえます。
日本寺院で「寺ヨガ」が普及しているのも事実です。
では、仏さまをお祀りするお堂のなかで、汗を流すようなヨガがよいのかといえば、
そうではないんですね。
ここに求めているのは、無意識な箇所に意識を働かせることで、
体をほぐし、「心も」ほぐれること。
体は温かく満たされ、心は軽やかに満たされること。
癒しのヨガを、インストラクターさんとともにこの寺で展開したいと思うのです。
心身ともに「喜び」を感じることは、人が健康を保つうえで必要なことです。
日常における体の動きや呼吸というのは、無意識な働きが大半を占めています。
人がよい気づきや安らぎを得るには、この無意識の部分が重要なのです。
無意識の部分に意識を向ける動作や時間は、日常ではなかなか得難く、
非日常の寺の境内に足を踏み入れた自分が、歴史、建造物、仏像、荘厳、
そして香りや空気、総じて「場の力」のなかに身を投じていくことで、
そのスイッチをONにしてくれるのです。
同時に、いま不必要なものをOFFにしてくれます。
この「場の力」とヨガの要素が相まって、内観を働かせてくれます。
自分の内側と向き合える静かな時間のなかでは、
ゆっくりと呼吸を繰り返して体に空気を満たすことが心地よく、
体を伸ばして姿勢に意識が向かい、体が気持ちとともに整っていく、
その感覚も心地よいものです。
これらは、時々、自分にプレゼントしてあげてほしい癒しの時間と考えています。
心と体が癒され、整い、満ちて日常に還っていくことはとても大切なことです。
このプレゼント(自愛)という想いが、真福寺のヨガを続ける理由なのだと思います。
いま一度、なぜお寺でヨガ?
先に述べたことを含め、いくつか思うことはありますが、一言でいうと、
体の栄養は日常にもわかりやすい。
さて、目に見えない心の栄養はどのようにして得るか。
それは「喜び」です。
この喜びのなかにも、自分の内側から温まっていくような喜びがあります。
ささやかですが、実にお寺のヨガとはそういうものに通じていて、
その喜びが、皆さんの「安心」につながると思うがゆえに、
お寺はヨガをするに相応しい環境といえるのです。
健全な精神は、健康な身体に宿る。
健康な身体は、常に安心に寄り添う。
合掌
〈真福寺てらよるヨガ〉
毎月25日 夜7時~8時 本堂にて
癒しのおてらヨガ - 真言宗智山派青龍山真福寺 (okaya-shinpukuji.jp)
お問い合わせはお寺まで。
花まつりチャリティコンサート
4月8日はお釈迦様がお誕生された日。
2,500年が過ぎた今も、日本の仏教界では伝統行事として花まつりを営みます。
去る4月13日(土)午後6時30分より、
能登半島被災地復興チャリティ花まつりコンサート
~声明とフルート、太極拳にのせて~と題して、
大勢の方にご来寺を賜るなか、盛大にコンサートが開催されました。
声明とフルートの共演を2曲、声明とウィンドシンセの共演を1曲、
フルート演奏を5曲。
そして、中盤に披露させていただいたのが、新たな調和の世界観に挑戦、
声明とフルートに太極拳演武を交えた演出でした。
武術に洋楽器と仏教音楽、すべて異なり、演者それぞれも
これまで生きてきた背景、この道への志もまったく違うわけですが、
めぐり合わせで、一緒にひとつの演出を創り上げようとなりました。
異なる者同士ですが、自分の持っている感性を精一杯に高め、
お互いを引き立て、引き寄せあいながら、ご本堂の荘厳のなかに
溶け合い、調和していく姿を最大の魅力にしようと志しました。
正直、自分たちには、どんな情景が見えているのかをわかっておりません。
唯一無二の形を、会場の皆様の目にどう映って、どう捉えていただけるのか、
すべてはこの日お越しいただいた皆様のお心にあるのかなと思います。
フルート奏者 小口郁子さん(岡谷市)
揚名時八段錦太極拳師範 土田香里さん(岡谷市)
声明 小林照宏(副住職)
ご来場くださった方からお写真もたくさんいただきました。
有難いことに、お世話になっている地域のお檀家様をはじめとして、
市内からは関心を集めて多くのお仲間をお連れしてくださる方がいたり、
さらに岡谷以外からも伊那や松本、さらにはこのコンサートのためにと
遠く新潟県からお土産をもってお越し下さった方もおられました。
心より感謝申し上げます。
最後に森山直太朗さんの「さくら」を小口さんのフルートとともに、
会場の皆さんと合掌して幕を閉じました。
久しぶりに大きな声で歌ったと喜んで下さった方もおられ、
心温まる花まつりを会場の皆様とともに過ごせたことを感じ、
とても嬉しく思っております。
皆様からお預かりした入場料は、お心添えた義援金として、
この先の復興に役立てていただけるよう全額を寄付させていただきます。
1月より集いました義援金と合わせ、99,535円を日本赤十字社を通じて送金し、
被災地の方々に一刻も早く安心が訪れますようご祈念いたします。
多くの皆様よりご理解とご協力をいただき、誠にありがとうございました。
天上天下唯我独尊。
ひとつしかない命、一度しかない人生だからこそ、
ほとけの教えは私たちの心に響くものと思います。
❝生きるための仏教❞と感じてもらえる場がこれからも大切になります。
合掌
花まつりではお釈迦様のご尊像(誕生仏)に甘茶をかけておまいりします。
#15「真福寺 花まつり チャリティコンサート」 @okaya |レポート|トコトコ諏訪 (toco-suwa.com)
岡谷市のマリーさんがコンサートにお越しになり、このたび「トコトコ諏訪」にて
紹介してくださいました。
彼女の素敵なレポートをぜひご覧ください。マリーさん、ありがとう。
蓮育2024
2月と3月、春到来を感じられるような気温上昇はなく、
また雪も多かったため、季節感がどうもはっきりしませんでした。
毎年楽しみに待つ旬のふきのとうも採りそこないました。
ここにきてやっと暖かくなってきて、雪解けがすすんだ境内を見渡すと、
すでにたくさんの草が伸びていました。
とっくに草取りのシーズンに入っていたことを知らされ、気持ちの切り替えを
しなくてはと思った今日この頃です。
春を迎えるというより、春を追いかけるようなスタート。
玄関に長く置かれていた雪掻きは、もう必要ないと地下に片付けました。
もう、春ですよ。
さて、今年も蓮の観察を始めるにあたり、蓮根苗の植え替え作業を行いました。
松本より花々をこよなく愛する小原章さんがお越し下さり、作業を教わりながら、
8種12器の植え替えをすすめました。
関心のある方々にもお集まりいただき、一緒に作業をすすめ無事に完了しました。
よい蓮根苗がどれほど育っているかは、冬を越した蓮の泥をひっくり返すまでわからず、
最初ドキドキしていましたが、今年もたくさんの苗がついていて安心しました。
とはいえ、植えるのはひとつの鉢にひとつの苗のみのため、たくさんの苗が余ります。
そこで、家で育てたい方に、この苗をお持ち帰りいただきました。
お寺には、まだまだたくさんの苗が残っています。
ご希望の方には、好きなだけお分けいたしますので、ご連絡下さい。
植え方についても、私のわかる限りでお伝えいたします。
蓮は素晴らしいですよ。
なぜ蓮が素晴らしいと思うのか、と聞かれても、
それをうまく言葉にできないのですが、身近に蓮を観察していると、
泥中から芽が出て、高く伸び、いつか花開き、散り、やがて枯れるまで、
すべての成長が高貴であり素晴らしいと思えます。
ご参加の方に温かいコーヒーやとても美味しいシフォンケーキのお差し入れまでも
頂戴し、みなさんと一緒に作業に疲れた体を十分に癒すことができました。
誠にありがとうございました。
蓮育2024のスタートです。
合掌
恩送り
北海道に住む後輩(尼僧の住職さん)が、大事業クラウドファンデイングに挑みました。
老朽化したかつての民宿を大規模改修し、安心できる「みんなの居場所」をつくり、
今後の社会活動に役立てたいとの強い思いからです。
結構高いハードル、という印象でした。
結果から申しますと、遠く及びませんでした。
私の勝手な想像ですが、当初無理ではないか、という声が、
おそらくまわりにはあったのではと思います。
無理ではないか、と先に正解や正論をいうことは簡単なんですよね。
しかし、そこからは何も生まれてこない。
後輩の心は「挑戦」の一択でした。
この挑戦に確かな意志と希望をもっているからこそでしょう。
すごいことです。尊敬します。
いまから15年以上前、京都の本山で一緒に過ごした頃から、
パワーのある人でしたから。
さて、結果は大事ですが、その結果は置いておいて。
後輩からいただいたお便りに、このたびの挑戦を終えた感想が述べられていました。
とにかく、すごく大きな壁もあり苦労したとのこと。これが第一声。
しかし、あきらめずに挑み続ける、まわりの方に思いを伝え続ける、
そんな姿勢を見て、周囲に反応が起こり始めたそうです。
自分の見えないところで、応援の輪が広がっている!!
「どうして、これほどまでに助けてくれるのだろうか。」
これが第一声を上回る心の声。
ある日、後輩のところに訪れてきた方が、ある事業に着手しようと、
周囲への働きかけを始めていたそうです。
いま新しいことを始めようとしている自分は、まさにその大変さを知るひとりであり、
この日出会ったご来客のために何かお役に立てればと思ったそうです。
同時に、他人である自分のことを助けてくれる皆さんの気持ちもわかる気がしたと。
後輩は便りに次の言葉を綴っていました。
自分のことのように支援して下さる人とは、
同じように、かつて自分が困っていた時に誰かから助けてもらったんだろうな。
自分の受けた恩を、別の方を助けることで返しているのだな。
受けた恩をその人に直接返す恩返し。
もうひとつ、「恩送り」という言葉があります。
受けた恩を忘れず、日常の身近な人にもよい行いを差し向けていく。
同じ思いをもって別の人を助ける。
これも恩を返すということであって、このことを恩を送るというそうです。
恩は遠くから返せ、とはこういうことなのかなとも思います。
かつて、私はこの後輩から恩を受けたことがあります。
それも一度ではありません。
その後輩が、本山で私と同じ部署に勤務した時がありました。
上からの物言いになってしまいますが、不平不満を口にせず、
いつも明るく、前向きな行動力をもって人一倍働いていました。
当時、この人の働きにみんなが助けられていたと私は思っています。
便りの締めくくりにこう綴っていました。
辛い思いをしたり、助けてもらう有り難さを知ると、他人にも親切になれる。
本当によい経験をさせてもらえました。
後輩はこのたびの挑戦によって、多くの価値を得たと思います。
この先の人生に大きな財産と成り得るものでしょう。
一念発起し思い描いた未来図が実現するよう、邁進し続けることと思います。
北海道登別の春はもう少し先でしょうか。
このたびの挑戦を尊敬し、今後の寺を拠点とした社会活動を応援しています。
春よ来い。
合掌
無常の風にさらわれて
「今月18日の観音縁日のお護摩は、時間を変更し、
午後2時からといたします。」
毎月ご縁日の護摩行にお越しになる方々に、
電話やLINEでお伝えしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お檀徒様のご葬儀の報が入り、詳しく知ると、
お亡くなりになったのは、毎月熱心に護摩行をお参りされる、
とてもお世話になっている方でした。
お元気な方なので、すぐにその事実を受けとめることができませんでした。
毎月のお護摩の他にもお寺の行事には、常に関心をもって下さり、
昨年、京都本山智積院に団体参拝できたのも、
この方の一言が始まりだったのです。
「おい、副住、みんなで智積院に行くじゃあねえか!!」
この声に強く背中を押してもらえたことを、はっきりと記憶しています。
おしゃべりが好きで、加えて声も大きい。(お腹も大きかった)
心の声が常に漏れてしまっているような人で、京都旅行の道中、バスの中もそう、
お護摩の最中も後ろでしゃべっているのはこの方。
いつもこの方のお姿には励まされていました。
1月18日のお護摩にはめずらしくお姿がなかったのです。
先月のお護摩の際にはお姿があり、安心。
「おい、先月悪かったねえ!」
とおっしゃるので、
私は、お姿がないのでいくらか心配してましたよと言ったら、
「ま~たあ~!」
という、いかにもこの方らしいお返事が。
これが、この方との最後の会話となりました。
お亡くなりになったのは、3月6日のまだ夜の明けない3時頃のようです。
それを知らず、お護摩の時間変更をLINEで伝えたのは、その日の朝。
携帯を確認すると、それが既読になっていないことに気づきました。
3月7日の朝、
ご自宅で眠るお姿にご挨拶に伺いました。
奥様には御礼と私の思い出をお話しました。
お顔を拝ませていただくと、とても綺麗なお顔に驚きました。
そして、そのお顔は笑っていらっしゃる。
いかにも、この方らしい。
護摩の日に一緒に唱えていた観音経を、眠るお傍で唱えさせていただきました。
近頃お体に不調を感じることがあり、布団に伏せていることが多かったそうです。
お亡くなりになる前は、やはりしんどそうにしておられたとのこと。
我が身に何かを察したのであれば、不安のなかに大切な人を想い、そして願い、
毎月通った観音菩薩を心に浮かべていたに違いない。
最後に枕元で、これまでの御礼を伝えさせていただきました。
そして願いも込めて、もう一言だけ。
「3月18日のお護摩は、午後2時からです。観音堂にお越し下さいね。」
無常の風にさらわれて、大切な人が去っていくのが寂しい。
ありがとうございました。
「おう来たか、副住。」
綺麗なお顔をして眠っていたなぁ。お疲れ様でした。
合掌
花まつりコンサート開催決定
昨年ご好評をいただいた、お釈迦様のご生誕を讃える花まつりコンサート。
仏教音楽声明とフルートの共演。
今年の桜咲く頃、これにさらに太極拳演舞を交え、
私たちは再び新しい世界観の創造に挑戦します。
ご期待下さい。
特段お伝えしておきたい点は、
今回は、能登半島地震被災地の復興チャリティーとして開催することです。
皆様のコンサート演出への関心はもちろんですが、お釈迦様の御威光を仰ぎ、
お一人おひとりのお心を被災地の皆様に向けて義援金としてお届けしたいので、
ぜひ今からご予定に加えていただけると幸いです。
日時 4月13日(土) 18時30分~19時50分
場所 真福寺本堂
演者 太極拳 土田香里 楊名時八段錦太極拳 師範
フルート 小口郁子
声 明 小林照宏
申込み 不要
入場料 500円(中学生以下無料)
お預かりした入場料の「全額」を、日本赤十字社を通じ復興義援金として寄付し、
この先の被災地皆様の救援と復興の一助としていただきます。
この夜は境内の枝垂れ桜をライトアップする予定です。
ぜひご家族、お仲間お誘いあわせてご来寺下さい。
(追加情報は、3月中「新着情報」にてお伝えします。)
歩ける幸せ
一日どのくらい歩いているのか、数値を計るようにしました。
常日頃、お寺で生活しているので、自分は一般の人たちに比べて
運動量が少ないと思っています。
健康のために行なっていることは、毎朝お勤め後のランニング。
悪天候などの理由がないかぎりは欠かすことなく、6年目。
2.5キロほどの短い距離ですが、これを毎日継続していることで、
40歳過ぎてから随分と体力がついたと思います。
ところが、一日の歩数はというと、平均して7,000歩程。
やはり物足りないのです。
法務に出掛ける際は法衣法具を持ち歩き、時間を気にするので車移動。
日常での買い物なども車。
一日平均8,000歩にしたいとなれば、もう少し歩く時間がほしいところです。
お世話になっているお檀家様に、活動的で大変ゴルフに熱心な方がおられ、
お天道様の下でのゴルフと仲間との交流が「健康の源」となっていることは
いうまでもありません。
私は、いつまでもご健勝でいてほしいと願うのです。
さて、このたび、立春を過ぎてから大雪が降りました。
妻と二人で雪掻きを繰り返した二日間は、両日とも20,000歩に達しました。
さすがに疲れ、よい運動になりました。
重労働にも平気なのは、日頃のわずかなランニングでも長く継続している
おかげだろうと考えています。
日本人の平均寿命は80歳を超え、女性は90歳に迫っています。
健康寿命が問われる時代。
そして、社会現役の世代にいたっては、健康体でどれだけパフォーマンスを
維持できるかが重要です。
人は「いまと自分」のみしか生きられないという真実のもと、
本来、過去と他人は変えられず、変えられるのは自分と未来のみ。
であれば、今日という日は、未来の初日であって、もっとも若き自分。
若き自分にとって、まずもって有難いことは、自らの足で歩めることです。
行きたい場所を選べるに十分な足があることです。
生きる源となっている体の中心、心臓は自らの意思で動かせませんが、
毛細血管や末梢神経が集まり、「第二の心臓」と呼ばれる大切な足は、
自分の意思で動かせます。
体を支える足ですから、歩いた分だけ体重がかかり、疲労も溜まりますが、
少しでも動いた方が体の調子がいいという方が多いのは確かです。
まさに、「健康は足下から」ですね。
自分もあと少し日常に運動量を増やしたいので、寺のまわりを歩いたり、
出掛け先ではエスカレーターより階段利用など、ごく身近なところから
意識してみたいものです。
人生、健康は最上の宝なり。
余談ですが、お写経の話。
自分はお写経を仏さまの舟に例えます。
そして、もうひとつの例えは、散歩。
前から自分は、お経の功徳は「指先から」と思っております。
脳の活性、心の浄化も、自分の指先から。
指先で一字一字、一歩一歩。
そう、お写経とは、仏さまと歩むお散歩。
もし般若心経なら、262歩。
行き先は心身健康。
合掌
真福寺の写経風景
暖かな大寒
大寒だというのに、珍しく雨が降りました。
気温が高く、なんとも不思議であります。
この時期、諏訪では諏訪湖の御神渡りの出現に期待を抱きます。
この地に遥か昔から伝わる独自の信仰と言えます。
八釼神社の宮司様と氏子総代様方が、小寒から毎日欠かさず、
まだ夜も明けない凍てつく時間から諏訪湖の観察を続けておられます。
この観察に関心をもち、毎朝遠くから通っているという方からお聞きしました。
観察の様子を見守っていると、なんとも美しい「自然と人の姿」に出会えるそうです。
その魅力には、神渡りの出現に限らず、大自然の息吹そのものに触れて
気づかされるのかもしれません。
(写真映像:辰野町在住 小松様からいただきました)
この場にいる人たちは、
雄大な自然に生かされる我が命を感じとり、
大いなるもののなかに小さな事象を観察し、
小さな事象が大いなるものを知らしめる。
そんな真理を肌に感じ取っているのではないでしょうか。
(写真映像:辰野町在住 小松様からいただきました)
一日が始まろうとする、刻一刻の変化を自然から享受し、拝む。
(写真映像:辰野町在住 小松様からいただきました)
目に飛び込む圧倒的な美しさばかりではなく、畏怖も含め、
その魅力を神々しいというのでしょう。
人は、衣食住すべて自然の恵みのなかに生かされている存在ですから、
自然に対しては、畏敬の念と仏教でいうところの「あきらめ=諦め」をもち、
自然と向き合い考えを巡らせる姿勢が大切です。
仏教では、それを「あきらめ=明らめ(か)」とも表現します。
暖かい大寒。積雪もなく、お寺としては有難い毎日ですが、
しかし、この自然界の変容は、どこか心配でもありますよね。
日々新た、近くに遠くに自然を観察して過ごしましょう。
合掌
大寒の諏訪湖
届いてほしい祈り
元日に起きた能登半島地震により犠牲となった多くの方のご冥福をお祈りし、
被災された皆様におかれましては、心よりお見舞い申し上げます。
1月8日、午前8時、
観音堂において、筆をとり、祈りを写経に綴る「書初め」を実施しました。
お寺には仏さまがおられ、祈るための堂宇があります。
ともに被災地にむけて祈ろうとして下さる方をお呼びかけしたところ、
多くの方がご参集下さいました。
皆様は理趣経百字偈の写経に、被災地に向ける心を言葉にして添え、
私は皆様の祈りを背に感じながら、聖観音菩薩のもと護摩を修しました。
「祈れる場所ができて有難い」というお言葉をいただきました。
私は、みなとともに祈りたいと考えていたので、皆様の気持ち、
そのお姿こそが尊いものでした。
皆様がしたためて下さった祈りの写経は、すべて護摩の炎に焚き上げました。
観音さまが受けとめて下さったお一人おひとりの心が、被災地の方々の胸にまで
届いてほしいと思います。
そしていつか、それがかたちになってくれることを願います。
毎日の報道で知る犠牲者のこと、愛する家族を失い、心休まる居場所を失い、
その耐え難き辛さに耐えながら、厳しい避難生活をおくる人たちのこと。
被災地の深刻さは日々増すばかり。想像して胸が傷みます。
私は何のお役にも立てませんが、お寺から気持ち同じくする人たちとともに祈ります。
有志の義援金をつどって送金し、これから願う復興の一助にしてほしいと思います。
支援物資を届け、被災地で身を粉にして救援活動に尽くされている方々には
心より敬意を表するとともに、安全を祈念しつつ私たちの思いも託させて下さい。
抜苦与楽、現地での「救いの力」をお祈りしています。
無常の人の世は、「助け、助けられ」が不変の絆かと存じます。
お寺で仏さまに手を合わせ願いたいと思えば、いつでもお越し下さい。
無事に生活を送る私たちの命は、これまでに誰かが祈って下さった命です。
この先も、みなともに祈ることを努めとしてまいります。
合掌
迎春 甲辰
令和6年、西暦2024年を迎えました。
今年は甲辰の年。
昨年は、弘法大師空海ご誕生1250年慶祝の年にあたり、
秋に檀信徒つどい、京都総本山智積院を参拝いたしました。
宿坊智積院会館に宿泊し、翌朝は一同勤行に参列。
大師堂内を特別拝観させていただき、弘法大師像を間近に拝み、
ご本山の空気に触れる貴重な旅をともにしました。
皆様、ありがとうございました。
本年は辰年。連想させる生き物は「龍」ですね。
十二支のなかで、唯一この世に実在しない生き物です。
架空の生物であり、神あるいは霊獣として崇拝されてきました。
仏教界においてもお堂の天上に描かれていたり、龍を祀るお寺は
数多く、当山においては山号を「青龍山」と申します。
諏訪には龍伝説があり、諏訪大明神の化身は龍と考えられ、
古来の人は諏訪湖に潜むものと想像していたようです。
龍は大海や湖などの水中に潜み、強力な力に人から畏怖の念を抱かれながら、
また「恵みの雨」をもたらす水神としても崇拝されてきました。
天に昇る勇ましい姿から、運気上昇、人々の暮らしに富をもたらすものと
信じられてきたのです。
今年は運気が高まる? 経済成長に期待?
寺宝「双龍」
寄進:檀徒 片倉兼太郎・片倉俊太郎・片倉武雄
(大正10年 第20世 徴海住職代)
―――――――――――――――――――――――――
年頭、「いかなる年も」肝心なことを気に留めておきたいですね。
「物の興廃は必ず人による」(弘法大師のお言葉)
外に原因を探し求めるよりも、まず何事も自分含め人しだい。
人こそが、ご縁によって何かを築き、同じく何かを失っていきます。
そして、そのすべてのことは、「心から」始まる。
―――――――――――――――――――――――――
心の乾き。
心の乾きとはなんでしょうか。
満たされない心? 疲れた心? 寂しさ?
様々な心の様子、欲求あるいは人の脆い部分も浮かびますね。
たとえば、渇愛という表現。
さて、心の乾きを潤すものはなんでしょうか。
心が潤い、豊かな感情、柔和な気持ちに導いてくれるものはなんでしょうか。
たとえば、殺伐とした世のなかに「幸福」を見つけ出すことのできる精神。
そのひとつが信心。
信心によって人の心に灌ぐ水があります。
「心にダムはあるのかい!」
懐かしい、四半世紀以上前のドラマの決め台詞ですね。
心を揺らす感動、そして涙。愛情をダムに例えました。
もしも、この年に龍の功徳をもとめるのなら、恵みによる心の潤い。
心潤すもっとも相応しい言葉は「ありがとう」です。
もっとも相応しい出会いは、「感動」です。
そのすべての思いやりの心は、人々の内側にあるものです。
人が互いに心を開き、高め合い、創造そして上昇できることを望みます。
「遍照」
甲辰の年明けに浮かんだ言葉。
願わくば世界の人に広く恵みが降り注ぎ、広く広く希望の陽が照らし、
努力と成長が叶いますように。
多くの笑い、出逢い、まなび、
皆さまにとって悦び多き年となりますことをご祈念申し上げます。
合掌
当山には龍が住んでおります。
本堂の西外陣、近くまでお参りできます。
精進と昇運、心新たに手を合わせてお祈り下さい。
美しい景色
毎月21日は弘法大師のご縁日(月命日)。
当山では午前9時から写経体験会が行なわれます。
12月21日、今年一年、願主皆様により至心に書き上げられた
330巻の写経が観音堂に奉納されました。
皆様、どんなお気持ちで筆をすすめていましたか。
どんな願いをもって、一時間という時を重ねてまいられましたか。
一字に心が映し出され、心揺らぐことはありましたか。
一字に心安らぐことはありましたか。
お写経は心が形に現れたものであり、儚く移りゆく心を見つめ続けた証。
それは、一字に千理を含むとても尊いものです。
誠に尊い皆さんのお心を寺にお納め下さり、ありがとうございました。
仏教は、生きづらくもあるこの世を、いかにして生きるべきかを説きます。
仏によって、生きるための教えが説かれたのが経文です。
人が闇に恐れあるならば、それを照らして下さるものなのです。
生きるための仏教。
その身近な活動のひとつがお経を書くこと。
もし、写経をしたならば、まずその徳が現れるのが皆さんのお背中。
写経と向き合う方のお背中は美しく力強いと感じることがあります。
皆さんは、その指先から心を通じて体に徳が広まってゆく。
除闇遍明の徳。
その先に「眼」が変わり、景色が変わるのです。
一年の締めくくりに、お経を書き納める皆さんのお姿、
そして、お堂に納められたたくさんのお写経を見て、
祈る心、供養の心が回向し、生きる力がここにあると感じます。
願主皆様の心に仏様がお宿りし、美しい景色に出会えることを願い、
観世音菩薩のもと大切にお守りしていきます。
今年も終わりが近づいてきました。
十干最後の節目、癸の年、2023年。
収まりゆく年、そして再生、始まりが見える年と言われてきましたが、
いかがでしたでしょうか。
今年は皆様にお支えいただいていることを様々なシーンで感じました。
よきご縁にも恵まれ、学びも多く感謝の気持ちです。
ありがとうございました。
不完全ばかりを重ねておりますが、一年の完走成就を幸せと心得ます。
皆様、厳しき寒さにお体ご自愛のうえ、心は穏やかに年を越して下さい。
少々早いですが、本年御礼の挨拶とさせていただきます。
感謝合掌
ゆく年くる年~大晦日二年まいり~
・22:50 古札お焚き上げ供養
・23:20 先祖供養(本堂)
・23:40 除夜の鐘 (人数制限なし)
・0:00 初祈願 (観音堂)
どなたさまも奮っておまいり下さい。よきお年を(^^)/
寺族日記
当山のホームページが開設されて、丸10年となりました。
私が京都から岡谷へ戻った時に、当時の役員様に、
「副住職、ホームページくらい作れよ。」
と何度か言われたことがきっかけでした。
というより、私自身それを必要と考えて話していたので、
背中を押していただけたのだと思います。
ただし、携帯電話も持たず、パソコンには触れたことすらない、
インターネットやメール、当然SNSなどには関心もない当山の住職は、
「そんなもの必要ない」の一点張りでした。
ホームページなどなくてもお寺は運営していける、という考えです。
運営という目線で捉えれば、これがなければ寺が成り立たないわけでもなく、
私も確かにその通りだと思っています。
では、私がなぜそれを必要として、役員様に相談して開設に至ったのか。
以前にもこのことに触れたことがありますが、最後に述べておきます。
寺族日記。
誰が読んでくださっているのかわからないものを、一方的に書き続けて10年。
よく続いているな、とも思いますが、それよりは、心のどこかで必要としているのが
私の正直な気持ちです。
長女は小学校6年生。
4年生の頃、突然中学受験をしたいと言い出しました。
私は、地元の中学に通うことを勧めましたが、その後も娘の気持ちは変わらず、
それならば応援しようと、受験に向かう姿を見守ってきました。
このたび受験を終え、12月12日に結果が発表されました。
受験者数194人。合格者80人。
残念ながら、娘は不合格でした。
私は京都からの帰り道に合否結果を知り、娘にかけていい言葉がわからず、
まっすぐに帰宅することができませんでした。
途中で辰野町の喫茶店に寄り、娘に宛てる手紙を書きました。
娘には、薄っすらではありますが夢があるのでしょう。
夢を「山」に例えたとして、娘はいつか見たい景色があるから、
受験という山登りを選んだのでしょう。
私は、入学というものは夢に向かう登山の途中にあるものと考えます。
あくまで人生のひとつの節目です。
そして、見たい景色を叶えるための登山道は、けして一本ではありません。
選択した道が進めず、違う道を行くことは人生ではいくらでも
起きることだと思います。
如何にして頂上に至るかは、人により、時により異なるものです。
また、先々に人は下山を決心することもあり、
目指す山自体が変わることさえあるのが人生というものでしょう。
娘はまだ下山をしていません。
どんな景色が見たくて山登りを続けているのか、
その夢の正体は私にはわかりません。
しかし、どんな登り道を選択しても見守りたいと思います。
いつか、登る山を変えることがあったとしても応援したいと思います。
低い山しか登ったことのない私には、娘の登山が誇りに思えました。
自分の進む道で精一杯に冒険し、出会いに恵まれてほしいと願っています。
さて、お寺は敷居が高いと言われます。
しかも、一般の方からすれば非日常な場所。
気を休めに来て下さいと言ったって、ここに至るまでがハードルなのです。
この寺はどんなところなのか。
どんなことを考えているのか。
それが事前に見えていることで、なんとなく輪郭が掴め、
ハードルを下げることが出来る。
それがホームページのひとつの役目と考えます。
そして、次に布教活動も含めて必要な情報発信に役立てる。
継続することで、情報を生きたものとする。
SNS全盛の時代であり、当山もInstagramに頼る面も多々ありますが、
一般の方が、当山のことを多少なりとも知りたいと考えた時、
まず頼っていただけるのは、このホームページではないでしょうか。
私たち寺族だって、一歩外に出れば、普通の人となんら変わりありません。
知らないところに出向かなくてはならない時や、そこにハードルを感じた時に、
最低限の情報を欲しがるのが自然というものではないでしょうか。
当山のホームページは更新が進むところがあれば、滞っている部分もあります。
時代のニーズに適した内容なのか、寺のことが柔軟に伝わっているのかを考えると、
改善の余地は多分にあります。
それでも地道に10年更新してまいりました。
寺族日記など読んでくださっている方が声をかけて下さることがあります。
正直、その声にとても励まされてきました。
ありがとうございます。
いま、これから、お寺の在り方というものを常考えさせられます。
難しい山登りをしている気もしますし、山自体を疑問視することさえあります。
この道には皆様からのご教示とお力添えが絶対に必要です。
これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。
娘宛の手紙を書いた喫茶店でいただいたカフェラテが美味しかった。
店名を「high‐five」といい、fiveというのは五本の指のこと、
つまり、日本でいう「ハイタッチ」を意味する語だそうです。
結果はどうであれ、心のなかでは娘にハイタッチ。
合掌
言霊
未来に向けて何を語りますか。
言葉には力があると思います。
言葉は見えないのに、それが目に見える形となることは多々あります。
いつまでも残る言葉があります。
人の口から離れたそれは、消えてなくなるのではなく、人の心に残り、
また人を通じ、やがて自分に言葉として、あるいは形として返ってくることも。
言葉は生き物なのでしょう。
二人のご高齢の方がおられました。
ひとりは、大勢を前にして目的を達した喜びの言葉を語りました。
そして、これから先、さらにみんなと叶えたい、もうひとつの目標を語りました。
みんなの胸にはあたたかいものを感じたそうです。
求心力ある理想のリーダー像が浮かびました。
ひとりは、大勢を前に口癖のようにこう言います。
いまの時代は。いまの若い者は。
その先に続く言葉の多くは批判。
語られるのは未来への希望ではなく、過去のよき記憶。
みんなの心はとげとげしたものを感じるのです。
本人もいまの時代に生きている、生かされているではないか。
前者の言葉は感謝を含み、後者には不満が含まれていることを感じます。
片方は希望、もう片方には閉塞感を。
言葉には人を動かす力があります。
言葉には創造の力があります。
お釈迦様の説く「因果」の教え。
善因善果、悪因悪果。
この世に創造されたものや起こり得る事象は、心の姿とも言えます。
そして、言葉とは心が表れるもの。
昔から伝わる「言霊」とは、
人が重ねてきた言葉がいつか現実となる、言葉の霊力のことです。
夢を叶えた偉人の共通点とは、
具体的な言葉を持ち続けていたことなのかもしれません。
人が生きる力となった多くの言葉たちは、活かす力でもあり、
救いや良薬になれば、刃や毒にもなる。
目には見えない、香りもない、重さもない。
しかし、時間をかけて不思議と形として表れる言葉の力。
言葉は言の葉。命ある生きものなのでしょう。
合掌
リスペクト~褒める~
小学5年の息子が市内のサッカーチームに所属しお世話なっています。
息子は運動が苦手ではないと思うのですが、4年続けているなかでも
なかなか上達せず、試合ではフル出場で活躍する選手ではありません。
親として何もチームに協力できていないし、息子に寄り添ってあげることも
できていません。
息子は嫌々な時期を幾度と乗り切りながら、よくくじけずに続けているなと
日頃から感じております。
これは指導者の皆様とチームの仲間のおかげにほかなりません。
春に木曽で行なわれた試合を観戦して以降、
観戦はできませんでしたが、家で都度サッカーの報告を聞いていると、
以前は負け試合が圧倒的に多かったチームが、徐々に勝つことが
増えていることに気づきました。
理由は急成長している選手の存在や能力ある子の加入などがあげられると
思いますが、その答えは、日頃もっとも近くでこども達を見て下さっている
コーチが把握しているものと思います。
様々な問題に直面し、都度それを解決して乗り越えた大小の苦労も
重ねながら、明らかに成長しているチームの姿を想像していた一方で、
息子の小さな変化も感じていました。
それは、「試合が楽しみだ」ということを口にし始めたことです。
試合ではベンチにいることが多かった息子ですが、出場機会が増えたことは
耳にしておりました。
こどもの気持ちの面での変化には、原因が必ず存在するものです。
このたび、春以来の試合観戦をしました。
2試合観ましたが、チームは明らかに動きがよくなり、相手ゴールまでボールを運び、
シュートまで結びつく回数が増えていました。
攻撃と守備を含めてチーム力そのものが高まっていると気づきました。
結果、2試合とも勝ちをおさめ、特に2試合目は、先日、決勝戦で1-6で
敗れている相手であり、もしこのチームに雪辱を果たせば、今年のリーグ戦の優勝、
敗れれば2位という結果につながる重要な一戦、非常に緊迫した試合でした。
相手の攻めを耐えて点を与えないのは、両チーム互いにナイスファイト。
0-0で進んだ攻防、決勝の1点をあげたのは、試合終了間際でした。
こどもってこんなに急に変わるのかなというくらいに、試合に気迫を感じました。
褒めて伸ばすという言葉があります。
それとともに、確かに叱る事実があって、褒めるが生きるものと考えます。
また、確かに褒める事実があって、叱るが生きるものでありましょう。
褒めるとは何かと考えた時に、それに簡単な答えはありません。
ゆえに言葉や態度も浅くなりがち。
こどもに限らず、人が成長につながるもっとも重要なこととは、
「人から必要とされること」
ではないでしょうか。
頼られていることが、
『君が必要だ』
という、言葉あるいは態度で伝わっていること。
個々の働きを見てくれていて、それを伝えてくれる人が上に立ち、
個々の素質が活きていくさまが組織の理想のひとつ。
逆に人がもっともモチベーションを落とすのが、
自分が必要とされていないということが、叱られることもなく
言葉と態度で伝えられてしまった時ではないでしょうか。
チーム力(組織力)が上がり始めたということは、
一人ひとりが頼りにされているという実感を持ち始め、
自分の位置づけを「自覚」し始めた証と考えます。
もうひとつ言えることは、チーム内の仲間どおしのリスペクト精神が
育ち始めていることでしょう。
こどもたちにリスペクトの精神を伝えるのは、大人の役目です。
少年スポーツ界では指導者の役目です。
それらを考えた時に、日々こどもたちを指導して下さる方に対して、
感謝の気持ちが溢れてきました。
こどもを信じ必要として下さったこと、リスペクトを重んじて下さったこと、
それが試合で実を結び、こどもたちが自信を付けるに至ったことは、
本当に素晴らしい体験です。
こどもに限らず、大人になってからもきっと変わりません。
人は誰でも、必要とされることが向上のエネルギーとなります。
頼りにされる言葉と態度が、最高の褒めではないでしょうか。
同時に、こどもたちには、将来人から頼られる大人となるために、
その道の努力が必要であることも、いつか必ず気づくことでしょう。
来年6年生となる息子には、ここまで来たら、最後までサッカーを続け、
仲間を信じてプレーする機会をひとつでも多く体験してほしいと思います。
そして、リスペクト精神を重んじる指導者からの言葉をしっかりと聞く、
その姿勢を大切にしてほしいと願います。
コーチいわく、息子の起用とそのプレーは、「一か八か」だそうです。(笑)
その言葉をバカにせず、仲間は優しく笑いかけてくれたことが嬉しいし、
何より、息子も一か八かの自分の立場を理解し、やる気につながっているようです。
これもコーチの温かいご指導のおかげですね。
合掌
きっと、みな染まる。
赤く染まる
秋深まり、11月に入りましたが、暖かい日が続いています。
法事に来られた方と話します。
「こんな調子で年まで越せたら、どんなにいいことかねえ。」
そんなことはまず有り得ないと、わかっている者同士の会話ですね。
境内の木々は毎日葉を大量に落とし、枝が露出したその姿に、
冬が近いことを知らされます。
白い息を吐く朝が、もうすぐやってきます。
今朝、鐘を撞いたあと東の尾根を見ると、やけに赤く、それは火を連想させました。
しかし、すぐにそうではないと気づき、しばらくすると空が赤く染まり始めました。
軽トラに乗り、寺平へ向かい走っていると、空が燃えるように赤く広がり、
私は見晴らしのよい場所でその空を観たくて、スピードを上げました。
途中、天龍大明神を通った時、真っ赤に染まる明神池に驚き、
車を止めて撮影しました。
目に映った姿を、古いスマホではありのまま捉えることが出来ませんでしたが、
その美しい情景に、心奪われておりました。
まもなくその色は褪せていき、燃えるような空は幻となりました。
自然界は、時々驚くほどの美しさを人に魅せてくれることがあります。
それはほんのわずかな時間であることが多く、奇跡的に出会えた時は、
神々しささえ感じます。
しかし、いつもわかるのです。それは幻であると。
世は無常であるがゆえに、儚くもあります。
儚いがゆえに美しいとも言えるのでしょう。
人ひとりの命も有限であり、必ず散る時がやってきます。
常に変化し続けているその姿や心が、真っ赤に燃えるような
エネルギーを放つ時はいつなのでしょうか。
人には、そのような時がきっとあると思います。
そのようなご縁にふれる時が必ず巡ってきます。
風もなく静かな水面が、朝陽に燃える空をありのままに映したように。
合掌
母校の創立150周年
今年、岡谷市立川岸小学校が創立150周年の節目を迎え、
このたび晴れの記念式典・記念音楽会に出席させていただきました。
創立より1万を数える多くの卒業生をはじめとし、この地域の皆様、
在校生と保護者の皆様、児童の成長を見守って下さった歴代の先生方、
大変多くの方々がこの慶事を喜ばれていることでしょう。
そして、昔を懐かしんでいることでしょう。
私が卒業したのは、時代が昭和から平成に変わった年の3月。
あれから35年が経ち、懐かしく昔を振り返る機会となりました。
いま、母校には私の長女と長男が通い、娘は今年度卒業を迎えます。
同じ学び舎において、記念年の喜びを親子で共感できる巡り合わせは、
有難い幸せと感じております。
川岸小の起源は当山にあり、寺のお堂を教場として使用したと聞いております。
それが前身の岡谷学校。地域の低学年のこどもがこの寺につどい学びました。
やがて、岡谷学校は同じく川岸に在った新倉、駒沢の学校とひとつとなり、
現在地に生まれた新たな学び舎のもと、川岸尋常小学校として変革を遂げました。
昭和時代に川岸小学校と改称していまに至るわけですが、母校は日本国における
明治から平成までの変遷、地元川岸の人々の生活環境の変化とともに歴史を
刻み、恩師と地域の方々に見守られながら、多くの児童が学び舎を巣立ちました。
歴史上における教育環境の変革への動きは、令和時代に入り速度を増しております。
川岸小と岡谷西部中学校を義務教育一貫校とする「川岸学園構想」に
もとづく議論と大改革が、令和9年開校の実現に向けて進んでいます。
川岸小学校という名称をもって迎える周年事業はおそらく最後かと思われます。
今年卒業を迎える6年生児童にとって、長い歴史を重ねた学校に多くのお祝いが
寄せられる慶祝の年に巣立つことは、末永く本人の記憶に残ることでしょう。
娘が考案した周年記念キャラクターが採用されることになり、記念運動会に
児童、保護者、先生方がおそろいで着用するTシャツなどにプリントされたり、
至るところにキャラクターを見かけ、新聞紙面などでも紹介していただきました。
娘は幼い頃から絵を描くことを好んでいたので、親としてもこの上ない喜びです。
記念事業の目玉にある『創立150周年記念誌』制作。
実行委員の方々、地域の方々が歴史の重みを後世に残す重責を担い、
本誌の編纂に愛と情熱を込めて取り組まれるお姿を想像しております。
川岸小としての姿を知る最後の記念誌ともなれば、なおさらのこととお察しします。
ご担当の方からお声がけいただき、卒業生の一人として在校当時を振り返り、
記念誌に思い出の一文を寄せさせていただきました。
事業のひとつに形が残ることは私にとってハードルが高く、当初は申し訳なく
気がすすみませんでしたが、私が信頼する方が声をかけて下さったこと、
この学校に長くお世話になっていること、そして、多様性が重んじられる時代、
いろんなこどもがいてよいと考えるように、いろんな卒業生もいて然り、と思い、
こどもたちに向けてメッセージを残しました。
学校で遊んでばかりいた私には、胸に刻まれいつでも蘇るような記憶が乏しく、
思い出を探し出そうと当時の卒業文集を開いたのです。
懐かしく読み返し、先生方が寄せてくださった過去のお言葉が胸に沁みました。
年内に刊行される記念誌に綴られる歴史上の変遷やメッセージの数々が、
これから巣立つ多くの児童が成長する先々で、その胸にすっと沁みる時が
きっと訪れるだろうと思います。
思い出の文末に、お世話になった担任の先生に会いたくなったと綴りました。
寄稿のあと、不思議とご縁がありまして、先生のお住まいを知ったのです。
以前の日記にも触れましたが、先生の嫁ぎ先は飯田市内の臨済宗のお寺でした。
気持ちに蓋をせず、意を決して先生を訪ね、卒業以来の再会を果たしたのです。
私が見失っていた糸、切れかけていた糸をつないでくれたのは、もとを正せば
母校創立150周年に巡ってきたご縁のひとつと考えています。
この周年事業の要となって、矢面に立って尽くされた方々の情熱が実り、
巡りめぐり大きく広まった輪のなかで、無事に式典が挙行されたいま、
ありとあらゆる所であがっている「喜びの声」が想像できます。
在校生の親として、また同窓生として心より感謝の気持ちを残します。
本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
\川岸小学校万歳/
合掌
皆さんとの尊いおまいり
秋のお彼岸が過ぎた頃から、申し合わせたように寒くなりました。
境内では桜や梅の葉が落ち始めた頃、一斉に彼岸花が伸びてきました。
あれ、今年は〇〇が少ないな。□□が出るのが遅いな、という
人間のものさしで捉えがちな自然というものがありますが、
総じてみれば、自然に不思議はなく、咲く時に咲き、散る時に散っています。
「不思議がないことが不思議」なのです。
それが、因縁生起の真理。
数多有る自然は、土の中、空中、地上の木々や草花に真理を表し、
大いなる力を秘め、そして無限のつながりを有します。
時に人間界に非情な試練を与え、そこから人は知恵と進化を授かることもあり、
我々無数の生命は、この自然の力に頼り生かされています。
やはり、不思議がないことが不思議なのです。
私達人間も自然の一部であり、本来は不思議がないはずです。
つまり、私達のまわりの出来事、もの、すべて真理の表れではないでしょうか。
そして、きっと大いなる力と無限のつながりも秘めていることでしょう。
さて、このたび、真福寺発祥の地寺平まいりをつどい、初秋の山を歩きました。
ご参加いただいた皆様と、無事に祖師覚鑁上人をお参りすることができました。
春秋二度の寺平まいりのつどいを、覚鑁上人のお住まいであった高野山の
密厳院にちなんで、「密厳講」と名付けています。
寺平一帯の山の間伐事業により重機が入り、その進んだあとが参道となって、
覚鑁上人がおられるところまで安全に歩けるようになり3年。
それまではまともな道がなく、有志にてつどい、藪を搔きわけて進んでいました。
この3年の間に多くの方が関心をもって下さり、大勢つどって覚鑁上人のお姿に
触れられるようになりました。
こどもからお年寄りまで、安心して山中をお参りできることは誠に有難いことです。
お一人で山中におられる覚鑁上人を気遣い、傘を被せてあげたいと申し出て
下さる方もおられ、とても嬉しく思った次第です。
この寺平という場所は、日頃は人の出入りがある山ではありません。
よって、整備もされておらず、人が頻繁に歩けばお参りの道が残りますが、
そうでなければ、おそらく時とともに前の姿に戻っていくでしょう。
以前のように、祖師覚鑁上人像が藪のなかに見つけられない状態に
なってしまうかもしれません。
私自身、いつまでお参りを続けられるか。そして次世代へ引き継げるのか。
いま、皆さんに関心をいただいている一方で、将来への心配もあります。
いずれ、元どおりの山に戻ってしまうことを想像すると、祖師を寺の境内にお移しし、
寺発祥の聖地には標を残すということも考えなくてはいけません。
かつて先人が寺の発祥地に思いを込め、祖師像をお祀りし、それを祝ったのです。
昭和33年頃と考えられています。
当時の思いはもちろん大切ですし、いまの私たち自身にも信仰の思いが生じています。
人気のない山中に祖師お一人を残しておくことは胸が痛みます。
春秋に行なう密厳講寺平まいりに、一人でも多くの方をお誘いし、
ともにおまいりしていただきたく思っております。
願わくば、折あるごとにおまいりを重ね、この道を心の拠り所として、
皆共に信仰をつないでもらえると嬉しいです。
そして、祖師覚鑁上人像と寺発祥の聖地を思い、
将来にむけた相応しい在り方をともに考えていただけませんか。
不思議なことではありません。これが真理です。
物の興廃は必ず人による。人の昇沈は定めて道にあり。
合掌
京都本山智積院の旅
檀信徒を中心としてつどい、京都智積院への旅がいよいよ迫ってきました。
総勢27名、一泊二日の京都旅行です。
真福寺で泊りがけの旅をしたのは、もう15年以上も前のことと思います。
コロナ禍に集って遠出することさえもなくなり、今回誠に久しぶりの団体旅行です。
智積院の他、南禅寺、泉涌寺なども参りますが、なにより、総本山智積院の
荘厳な朝勤行をお参りし、皆さんと本山の空気に触れることが一番の目的です。
参加者の多くがご高齢であり、遠出そのものから遠ざかっていた方もおられ、
このたび旅の参加を決心するのには、なかなかのハードルであったことと思います。
また、一行には、三分の一近く檀徒でない方がご参加されます。
日頃の寺行事に檀徒でない方々がすすんでご来寺下さるようになり、
絶えず続けてきたことで、徐々に遠近に新たな人のつながりをいただきました。
旅先の車内、お宿、また初日の懇親会などで、縁の深まるひとときともなれば、
もっとも嬉しい旅のご利益であります。
どなたにも、いまいちど京都へ行きたいという思いが原動力。
この思いが実りある記念の旅として実現することを願うばかりです。
虚しく往きて実ちて帰るというお大師さまのお言葉を胸に出発しましょう。
今年は弘法大師空海ご誕生1250年の年にあたり、大師堂に祀られる
弘法大師像を特別拝観させていただけるとのこと。
私はなによりの楽しみでありますし、皆さんにもきっと感動の出会いとなりましょう。
9月26日~27日 京都智積院の旅
南無大師遍照金剛
合掌
蓮の姿に
秋の風を感じられるようになりましたね。
40の花を咲かせてくれた今年の真福寺の蓮たち。
いまは花托が残り、やがて頭を垂れ実を落として枯れ、葉も枯れていきます。
この無常の姿に趣を感じます。
3月終わりに苗を植え替える際、皆さんにたくさんの苗をお分けしました。
持ち帰った先でそれぞれに育てられた蓮が、見事に花咲いたと
喜びの報告をたくさんいただきました。
7月に入り、花芽が出たと知らせを受けた時は、私もとても安心しました。
ひとつの苗から13の花に出会えた方もいます。
真福寺の蓮の様子にくわえて、皆さんの蓮の成長報告が随時聞けて、
とても楽しませていただいた夏でした。
また、蓮を通じてのご縁、蓮の輪にも恵まれたと嬉しく思っております。
さて、趣のある蓮の花托はドライフラワーとして飾ることもできます。
皆さんに差し上げたいと周知したところ、すでに何本かお持ち帰り下さいました。
まだございますので、ご希望の方は立ち寄った際にお声掛け下さい。
蓮の成長はこれで止まったわけではなく、まだ栄養を吸収します。
葉が枯れるまで追肥は続け、泥のなかでは苗が育っているんですよ。
来年の春、その苗たちに出会うんです。
自然界にとって、
我々の目に終わりと映る姿は、「END」ではなく、
目に映らないところには「START」の節目がもたらされています。
蓮の美しさのみならず、その不思議さや強さにも見惚れ、励まされます。
また、蓮のみならず、自然界が「ENDLESS」に移りゆく姿に、
人は生きる力をもらうんですね。
合掌
爽やか甲子園
8月終盤ですが、まだまだ全国的に記録的暑さを観測する毎日。
諏訪地方も今年は雨が少なく、とても暑い日が続いた夏でしたが、
最近は吹く風に秋を感じるようにもなりました。
夏の檀務をひととおり終え、なかなか抜けなかった体の疲れが
やっと癒え始めたところです。
甲子園球場で行なわれている全国高校野球をテレビで観ました。
今年初めての高校野球観戦は、決勝戦の仙台育英対慶應。
何かと話題になっていた慶應高校野球部選手の姿を見て、これかぁと
思いました。
なんともその爽やかな印象。帽子を外すと長い髪が風にさらさらと揺れ、
しかも真夏の球場でプレーする選手の肌がやけに白いではないか。
新しいスタイルというメディアの表現にどこか納得しました。
実は、昔から長髪のチームは存在していましたが、各地区を勝ち進み、
全国舞台に出てくることがありませんでした。
なので、そのチームの校風やプレースタイルが注目されることがなかったのです。
確かなことは、見た目がどんな姿であっても、野球姿勢がどうであっても、
甲子園で全国の頂点まで昇りつめる選手には「力がある」ということです。
そこに不思議は存在しないように感じます。
もともと身につけていた力もあれば、甲子園での試合を勝ち抜くなかで
上積みされていく力の存在も大きいと思います。
私が興味があるのは、
どんな野球姿勢や経験をもって培った力なのかという部分です。
まず、常識の範囲内であれば、髪型はさほど関係ないと思います。
毎日の野球に取り組む姿勢はどうであったのか。
慶應高校のスローガンは「エンジョイベースボール」。
これは、ひと言でただ野球を楽しんでいるわけではないですよね。
それだけでは紙一重の勝負を勝ち抜き、全国の頂点まで行けないですから。
よく考えて日常生活を送る。
よく考えて練習する。
よく考えて自己管理する。
よく考えて言葉を使う。
よく考えて意見交換する。
よく考えて相手を知る。
よく考えて見方を知る。
よく考えて経験を分析する。
よく考えて楽しむ。
この考えてという部分。
つまり、自主的に研究努力する姿勢が身に付いていて、目的意識に加え、
その「人間性」の高さみたいなものに裏打ちされた野球とチーム力。
それによって重ねた自信こそが、グランドで見せる笑顔なのではないでしょうか。
日常生活のすべてに野球のプレーにつながる要素があることを理解して、
それをひたむきに取り組むことを楽しんだ高校生の姿だと思います。
ベンチだけでなく、応援席の卒業生も、人間性の高さを感じる
コメントやシーンがありましたよね。
相手の仙台育英高校の選手は試合終了後、慶應の選手に向けて
拍手を送っていましたが、あまり見ることのなかった美しい光景です。
これも指導のひとつであったと聞いています。
その指導が体現されたのが決勝の大舞台。
しかも、それに相応しい相手校であったと感じました。
敗れた仙台育英選手のコメントにもありましたよね。
負けたという気がせず、心から相手に拍手を送ることができたと。
勝敗を超えて、相手を讃えるって素晴らしいことです。
よく考えて・・・、というのを先に九つあげました。
私も高校野球生活を送りましたが、そのほとんどが出来ていなかったです。
部活動と指導の厳しさに翻弄され、よく考えて楽しむ境地には程遠かった。
人間性がいかに大切かを感じることができた、今年の高校野球決勝戦。
もちろん、それまでに敗れ去っていったチームにも素晴らしい人間性をもった
高校生がたくさんいたはずです。
高校を卒業しても、まだ18歳。
これから大いに活躍していくことでしょう。
いつか人生で辛い壁にあたった時に、高校野球で培った精神で乗り越える時も
やってくるでしょう。
高校野球界に時代の変化を顕著にみたことで、
いかに世の中の風潮が変わっているのかを知るきっかけとなりました。
甲子園は魔物も棲むが、人を磨かせてくれる聖地に違いないですね。
合掌
おまいりの心
遥か昔の方が、このお寺を心の拠り所としてつどい、
皆で声を合わせてお経を唱えていた当時のことは、
今となっては、その様子を想像することしかできません。
お寺の参道には百万遍念仏供養塔があり、きっとこの地域の方には、
熱心に読経する習慣が根付いていたことは間違いないでしょう。
三沢の高道墓地には「大乗妙典一千部」と刻まれた石塔が建っています。
おそらく、日を定めてつどい観音経を唱え、それが一千回に達した記念のもの。
昔の方は、経本を持たずにお経をすらすら唱えられる方が多かったと聞きます。
それは身近に読経の習慣があったことの証でしょう。
先日の法事のこと。
お家のご高齢のおばあちゃんは認知症がすすみ、法事の間、
ずっと独り言のようなことを声に発していました。
何を伝えようとしゃべっているのか、読経中の私には察する余裕がありませんでしたが、
「早くそっちへ行きたい」
と仰られたことは、はっきりと言葉の意味を捉えることができました。
人生は苦なり。何事も思い通りにならないものだなぁ・・・。
愛別離苦を乗り越えた方が、様々をあきらめながら今を必死に生きておられる。
その心の声。
法事の最後、みんなでお念仏を唱えた時、一際大きな女性の念仏の
声が聞こえてきました。
声の主は、そのおばあちゃんでした。
供養とも祈りともとれる魂のこもった念仏の声。
私はその声を背中に受け、身震いしました。
お経は生きているうちに唱えるもの。
お経は生きているうちに聞くもの。
お経は生きているうちに書くもの。
8月10日。
年に一度巡る、観音菩薩の功徳日。
四万八千日観音という特別な結縁が得られる日。
その功徳は広大で、48,000日おまいりした功徳があるとされています。
人の年に換算すると130年。
その功徳は自分の一生ばかりでなく、先の世代にもつながるものです。
私たちの今の幸せは、過去の人たちのおまいり、祈りによる功徳を
いただいていると考えることができます。
昔の方々は、お石塔を見ればわかるように、必死にお経を唱え、
供養と祈りを重ねられたのですから。
このたび真福寺で行なわれた四万八千日観音は、
午後4時から写仏によって観音菩薩の御手を描き、観音堂に奉納しました。
午後5時から、おまいりの方がつどって読経し、御祈願をいたしました。
この日はお一人おひとりが聖観音菩薩の御手とつながる五色の紐にふれて
ご縁を結び、心新た、日新たにする機会です。
みなさんと一緒に唱えるお経、観音菩薩に手を合わせるお心は、
いまと未来を照らすものであってほしいと願います。
さらには、過去に叶うことなかった祈りにまで届くものであってほしい
とも思います。
ひとりでは続けられないことも、皆と一緒なら続けられる気がします。
昔の方が寺につどい、多くの読経を重ね喜びをともにしてこられたように。
観音菩薩は様々に姿を変えているといいます。
仏さまは生きているうちに出会い、
その喜びは、生きているうちに知るものです。
合掌
毎年8月10日は午後5時から四万八千日観音まいり。
毎月18日は観音菩薩の月並みご縁日。
午前9時より、護摩修行と観音経の読経を奉修しております。
自由におまいりできますので、ぜひ当山の聖観音菩薩に会いにきて下さい。
夏休みこども寺子屋~初のお泊り~
今年の寺子屋は記念の第10回目。
初めての試みとして、お寺に泊まることと野外プログラムを企画。
午前中はこどもたちと真福寺の発祥地、高尾山麓寺平へ。
地域のこどもを寺平に連れていくことは、私の念願でした。
日頃から寺平まいりを大切に思って下さる方のサポートがあり、
また、他にもこの企画に理解を下さった方々が同行して下さったおかげで、
祖師覚鑁上人像までこどもたちを無事に連れていくことができました。
山中に佇む祖師の姿と聖地の空気にふれ、こどもたちは何を感じたでしょうか。
お像に向かい手を合わせるこどもたちの姿をみて、少しばかりですが、
地域の先人に対して報恩の誠を捧げることができた気がしております。
山を降り、まずは最初の集合場所であった東雲閣を目指しました。
そこで終了ではなく、その先のお寺まで歩いて向かいます。
体調を崩す子も想定し、列の後方から車一台着いてきてもらいました。
途中、白山大権現で6年生が滝行を体験。
みんな大興奮でした。
そこは昔、この地域の修験の方の行場であったと考えられます。
無事、予定時間にお寺に入ることができ、心の底から安心し、
そして充実した喜びの気持ちでいっぱいになりました。
さて、お寺に到着してからのプログラムは次のとおりです。
・智山勤行式をお唱えする練習
・昼食(天ぷらとおそうめん)
・お昼寝
・灯籠の絵入れ
・寺シネマ「おいしい給食」
・夕食(カレーライス)
・キッズヨガ
・寺夜市と花火
・就寝(21時30分)
[二日目]
・起床(5時30分)
・勤行 「智山勤行式」の読経
・熊野神社でラジオ体操
・掃除
・座禅
・朝食(おにぎりと豚汁)
・発心式
・解散(8時30分)
朝勤行の様子(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=N7bozR6yb0g&list=PLk73RwisBvX93rPJicG7AUHzwASMqx-pp&index=1
友だちと一緒に知らないところに泊まる。
このワクワク感は、私の幼き頃の記憶として、いまも思い出すことができます。
非日常であるお寺で一夜過ごすのなら、こどもたちの心の刺激はなおさらでしょう。
21時30分に就寝とありますが、
大人の思い通りにこどもが寝付くことはありませんでした。
「怖い話をしてほしい」
と、私のところに男子が何度もやってきて、その都度断りました。
本当に眠れなくなるから・・・。
夜10時前、男子の部屋はいまだ騒がしく、
少しだけ、怖がらせてみたところ、
少しだけのつもりが、男子すべて撃沈し、すっかり静かになりました。
しかし、夜はそれで終わりではありませんでした。
私のところに妻がやってきて、男子がまたしゃべりだしていると。
眠れない子が隣の子を起こし、それが連鎖して騒ぎとなり、
広間に眠る女子が怒っているというのです。
その時、23時30分。
「静かにしろ!」
注意してくれたのは、中学生サポーター。
日付が変わる頃、私が男子の部屋に張り付くことに。
いよいよ私が先に眠るか、男子が眠るかの根比べ。
やっと男子の話す声が途絶えたのは、夜中の1時近く。
二日目、さわやかな朝を迎えました。
前の晩、就寝前の挨拶に伝えたこと。
「朝5時30分に、3分間かけて六つの鐘を打つので、
六つ鳴り終わるまでに起きて、すぐに布団を片付けましょう。」
ところが、こどもたちが起きてきたのは、その一時間も前のことでした。(笑)
「しょうこうさん、外で遊んできていいですか。」
日の出前から、お寺にこどもの元気な顔がたくさん見れて、
明るい声に溢れ、私は幸せを感じました。
こどもたちとの朝勤行、これも私の念願でした。
朝の一斉清掃も、こどもが健やかな心を育むにはとてもよいと考えます。
お寺にこどもを預かり、ともに食事を採り一夜を過ごすことは、
今後のお寺にとって大切な教化活動になっていくと思います。
毎年でもそうしたい気持ちはあるのですが、我々の負担も大きいため、
5年に一度、節目回に開催するお泊り寺子屋とします。
お寺の環境、歴史を活かし、仏教の教えを土台とした子育てが
真福寺寺子屋のもっともな目的ですが、さらにはこどもたちにとって、
身近にふれた故郷の寺が、将来懐かしい思い出として記憶に残ってくれたら
嬉しく思います。
こどもが過ごした客殿はとても暑く、体の疲れも相当あったのではと思います。
無事にプログラムを終了し、親御さんのお迎えをいただき、大変安心しました。
なにより、今回の寺子屋はお母さん方、中学生などのサポーター皆さまのご協力が
なくては、無事進行は成し得なかったと思います。
ご理解とご協力をくださった皆さまに心より御礼申し上げます。
合掌
【灯籠について】
こどもたちが絵入れした灯籠は8月16日夜7時から
岡谷湖畔広場で行なわれる岡谷市仏教会主催「諏訪湖送り火」の
会場に飾られ、ご先祖さまへ手向ける供養の灯りといたします。
当日は全100基が飾られる予定。
ぜひご来場ください。
※同会場では岡谷花火まつりも開催され、賑やかな夜となります。
観音菩薩のご縁
なぜ、そこに足を運ぶのか。
それは、そこに観音様がおられるから。
なぜ観音様を拝むのか。
それも、そこに観音様がおられるから。
こんなシンプルな気持ちで毎月18日のご縁日を迎えています。
真福寺の聖観音菩薩は厄除の観音様。
また、明治まで寺子屋が開かれていた当時の学び舎であった観音堂で、
勉強するこどもたちを見守って下さっていた子育ての観音様。
そのお姿は、なぜか如来像。
なのに地域の人からは観音様の名で親しまれてきた、歴史ある仏さまです。
観音は観る音と書きます。
音とは心。
つまり、「心の声」に気づいて下さるから観音なのです。
正式には観世音。
世の声、世の姿を観て下さっているのでしょう。
いつも観ていて下さる仏さま。
菩薩であるが故、如来の高みに行かれてもよい仏さまなのに、
いまも絶えず救済の修行を続けておられるそうです。
菩薩のご誓願は、上求菩提、下化衆生。
上に悟りを求め、同時に衆生の迷いから目を放すことがない。
願うためだけに拝むのかといえば、そうではなく、
感謝するためだけに拝むのかといえば、そうでもなく、
観音様のお近くにいられることが有り難いから拝んでいる気がします。
観音様のお近くへ。
遥か昔より親しまれてきた観音様。
いまは亡き多くの方が心のよりどころとしてきた仏さまと感じています。
いま拝み、未来につなぐ真福寺の聖観音。
観音様のお姿に励まされ、勇気をもって現実に向き合い、
くじけることなく、念じるように生きることができた時、
私たちは「観音力」に触れることができるのでしょう。
毎月のご縁日に熱心なおまいりをいただいております。
皆さんの心の声はきっと観音様に伝わっているでしょう。
皆さんと一緒にお唱えする観音経に一段と力が入ります。
私は皆さんの声に励まされ、皆さんの存在こそが観音様であると気づくのです。
観音様はいつも観ていて下さる。
そう信じて、皆さんのお心を背に感じながら護摩行をつとめています。
そこに観音様がおられるご縁です。
合掌
【観音まいりのご案内】
8月10日は「四万八千日観音」です。
一年に一度巡る観音菩薩最大のご縁日。
48,000日分のご利益を授かる日と伝わります。
自分の一生ばかりか、次世代までの功徳をいただく有り難いおまいりです。
観音様の手から伸びる五色線に触れてご結縁していただきます。
◆16時より写仏。観音様の御手を描きます。(希望・申込制)
※写仏奉納500円
◆17時より観音祈願。(おまいりは自由です)
※参拝無料
どなたもご参加いただけます。
夏休みを過ごすお子様連れのおまいりも歓迎します。
蓮が開花しました
久々に晴れた今朝、蓮がいくつも咲きました。
今年も咲いてくれた蓮の花。
その美しさ、香り、無心に蜂を招く姿に感動します。
蓮と仏の教えはつながっていると言われます。
ゆえに仏の象徴とされています。
汚れた泥に育ち、葉が高く立ち上がり、大きく広がり、
花の蕾はその葉を超えて、花開く。
咲く花は、けして泥に染まってはいない。
人に宿る仏性、慈悲の心は、本当は何事にも
染まるものではない、というメッセージ。
花の美しさを知れば知るほど、散りゆく花に儚さを覚えるほど、
蓮のすべて、蕾、葉、花托、容器の水、寄ってくる虫たち、
そして汚れと表現される泥さえも、皆美しく思えてくるから不思議です。
私達の世界は、本来、そういうものなのだろうと思います。
自分が輝けば、まわりも輝く。
身近なものの輝きを喜べば、自分も輝ける。
すべての無常に気がつけば、愛が芽生える。
つながり、映し合っている世界。
綺麗な水から綺麗な花が出るのは、きっと当然なのでしょう。
この世に濁った水、迷いや穢れにも向き合い、
心の眼をもって良縁を感じとることで、人はそれぞれに花を咲かせるのです。
合掌
京都の旅 参加募集
秋、総本山智積院の旅へ。
今年は宗祖弘法大師空海のご誕生1250年にあたる年。
当山では秋の彼岸を終える頃、総本山智積院への旅を企画しました。
京都の本山へは、関心はあってもなかなか行く機会に恵まれなかったこと。
コロナ禍に、旅そのものが意識から遠ざかっていたこと。
人が集まる場に出向くのを遠慮していたこと。
このようなこと、多くお檀家さまに思いあたるのではないでしょうか。
それでも、私がそうであったように、
心のどこかで旅を望んでおられたのも事実ではございませんか。
多くは望まず、まずは私達の総本山智積院を知ろう。
そんな思いで、ささやかですが旅の計画をし、参加募集を開始いたしました。
朝の智積院金堂
(智積院のご本尊は金剛界大日如来です)
9月26日(火)~27日(水)
26日 朝6時30分 真福寺を出発
27日 18時頃帰山予定
移動は中型バス(定員25名)
参加費30,000円 (若干変動が有ります)
行程には智積院参拝の他、南禅寺拝観、八坂神社、錦市場などが
組まれています。
宿泊先 宿坊智積院会館 https://chisan.or.jp/lodging/
智積院では、名勝庭園、京都随一と言われる智積院僧侶による朝勤行、
そして4月にリニューアルオープンした宝物収蔵庫などをご覧いただきます。
お申込みについては、まずは一度お寺にお電話下さい。
参加締切は8月中ですが、早めにお問い合わせいただけると嬉しいです。
(真福寺☎0266⁻23⁻6156)
最低限確かめておきたい点など、電話でお話させていただく際にお伝えし、
旅の詳細については9月にご自宅に送付いたします。
お檀家でない方もご参加いただけます。
希望がございましたら、遠慮なくお問い合わせ下さい。
皆さんと懇親を深め素敵な旅が実現しますよう、楽しみに準備させていただきます。
合掌
手放す
先日の青葉法話の会にて、尼僧徳永智香さんのお話を拝聴しました。
同じ日本も、地域ごとに仏事の形式に違いがみられることについて触れ、
お生まれの故郷、北海道留寿都村の仏事の風習をご紹介下さいました。
さらに昨今、時代環境の変化の流れを受け、仏事も変化しているなかで、
大切なことは何かを問われました。
徳永さんは法話の締めくくりにこんなメッセージを残しております。
「終活において『断捨離』が勧められているが、もっとも必要なこととは思わない。
もっと必要と考えてほしいのは、次のこと。」
「一にこれからどう生きるか。一に自分亡きあと、してほしいことの家族共有。」
とても共感できました。
終活に断捨離は必要。しかし、それがすべてではないと私も考えます。
というより、断捨離は、終活に取り組む段階からいよいよ始めるものではないと
いうのが私の思うところです。
いま、これからの時代、社会現役のうちから断捨離のスタートです。
それは、物資、精神、両面の断捨離です。
ありとあらゆるものが有りすぎて、どれも必要に思えてしまう。
まわりの価値感に惑わされ、ひとつを手放すにも不安を覚える。
価値を見定めぬまま抱え込むものは多く、余計に疲れている。
なのに、自分の心の声をまともに聞いていない。
甘えること、頼ること、恥をかくことも許されない。
本気で終活を意識し始める年齢の頃には、断捨離の気力はない。
断捨離を「しなくてはならないもの」と、捉われてしまうがゆえ、
「これから、どう生きたいか」が後回しになってしまう。
つまり、どの世代にも、手放していくことの必要性が肯定されるべき、
上手な引き算、割り算の時代ではないでしょうか。
足るを知るという教えが救いになると思います。
足し算と掛け算のスピード感と魅力に満たされる社会の第一線におりながら、
それを簡単に許せる環境ではないことも確かですが。
でも、いまだからこそ気付けるのではないでしょうか。
「断捨離とは、捨て去るのではなく、手放すということ。」
かたち、きもち、両面の執着から離れ、よい距離感を探ること。
そして、手放したことで、あらたに得られる充実があるということも。
さて、宗教はなんのためにあるのでしょうか。
答えはひとつではないうえで、私が思うこと。
「宗教は人を守り、人を育ててくれている。」
これが戦いのためにあっては悲しすぎる。
傷つけられる人がいるなら、いっそのこと手放さなくてはならない。
令和5年 弘法大師空海ご誕生1250年 慶祝
南無大師遍照金剛
信仰とは、人を根のところから支えてくれているものです。
6月15日 空海ご誕生の日 合掌
保育園
先日のこと。
小学校の運動会を控えた長女と、短距離走の練習を近所の山付近の
車通りのない道路で行なっていました。
一台の車が坂を上がってきて近くに止まり、3人の女性が降りてきました。
「こんにちは、〇〇ちゃんのお父さん。ここで何されてるんですか。」
下の娘が通っている保育園の先生方でした。
こんな三沢の山まで何の御用だろう・・・。
私が答え、同じ質問を返すと、先生から意外な質問が返ってきました。
「虫がいる所を探してるんです。お父さん、この辺りでどこか知ってますか。」
虫!?
例えば、どんな虫ですか?
「ヤゴとかイモリとかコウイムシとか。」
これまた意外な返事。コウイムシなんて、知っている人いるのかな・・・。
とにかく、先生達は保育園のこども達を連れて虫探しをしたいようです。
先生が求めている虫はいないと思うけど、近くに川が流れていることを伝えると、
山道へと入っていかれました。
その時刻は午後6時を過ぎていました。
こども達が降園したあとから、先生達はこうやってこども達の学習のために
下見にも時間を割いていることを知りました。
こども達の楽しみのため、好奇心を満たすため、心身成長のため、
そして安全のため、念入りに出掛け先の事前確認をしているのです。
先生方には、日々このようなご苦労もあったのだと感心させられました。
虫が見つからなかったようで、そこから少し離れた別の場所も案内しました。
女性には抵抗があると思えるような場所も平気で入って行かれます。
なにより、先生自身が探検を楽しんでいるようにも見えました。
もう外は暗くなり始めています。
こども達のために、私達の知らないところでも体を張る先生のご苦労を知り、
あらためて、毎日こどもを預かっていただいていることの有難みを感じました。
こどもが家に帰り夜眠る時間を差し引けば、こどもは親よりも保育園で先生方と
過ごす時間の方が長いのです。
こどもの成長を感じるのは、先生のお陰、その影響が大きいのでしょう。
私達は保育園にこどもを預けているだけではなく、
先生方に心と体そして思考力を育てていただいていることを忘れてはなりません。
私の娘は、そんな先生方のおかげでたくましく成長しております。
その後、こども達はお出掛け先でヤゴを68匹捕まえ、園内で飼っているそうです。
保育園から片道3キロ離れた川岸駅の近くで捕まえたとのこと。
長い距離を一緒に歩くこと、小さな命の観察、どれも素晴らしいことです。
家に帰った娘が、その日の保育園での発見や気付きを話してくれます。
親はそれを聞いていて、こどもが微笑ましく幸せを感じるものです。
先生方の毎日の子育てに感謝いたします。
合掌
弘法大師ご誕生1250年慶讃法要
雲一つない青空とは、まさにこのことかと思った京都の空。
5月17日、私は総本山智積院の境内にいました。
気温は30℃を超えているなか、弘法大師ご誕生1250年記念
慶讃法要の習礼が行なわれています。
衣は袍服に七条を付け、体感ではかなりの暑さを感じています。
翌5月18日は大曼荼羅供。
本宗最高峰に位置づく大法要を迎え、多くの僧侶がこの時この場に相集います。
両部曼荼羅と弘法大師に向かい修法をされる大導師、化主猊下のもとに、
職衆には智積院の集議菩提院結衆に列座する高僧方ならびに全国各教区より
諸大徳が集い、その法要を取り仕切る智山講伝所の先生方、もっとも人員を割いて
いるであろう法要準備に携わる事相法式の研鑽を積む方々と本山の職員、
そして専修学院の修行僧といった大多数がこの全てに関わっていました。
陰に日向に多くの力が本山に集まらなければ成すことの出来ない大法要に、
このたび職衆のひとりとして、本山の元奉職員の立場で出仕させていただきました。
私のような若い僧侶が出仕することは本来出来ないのかもしれませんが、
ご縁をいただき、この場にいる不思議さのようなものを感じていました。
当日、そんな気持ちを抱きながら、本山のご衣帯をお借りして身に着け、
この記念法要に臨みました。
大変に長い時間を要する法要です。
気を張っていたせいもあってか、正直随分と体が疲労しました。
それは、今後自分に訪れることはないだろう稀な経験をいただける
幸せと刺激を身に感じながらの疲れであったと自覚しています。
「有難し」
このひと言に尽きます。
弘法大師ご誕生1250年を記念する年に際し、
自坊では、布教師として弘法大師を伝え、弘法大師とともにあること、
そこに深みを感じることのできる一年にしたいと考えています。
令和5年は、毎月21日と日を定め、自分が写仏したお大師様のお姿に
月替わりでお大師様のお言葉を書き、解説を添えた特別御朱印を広めています。
秋彼岸を終えた頃には檀家様を中心に集い、本山参拝を計画しています。
今回初めてお目にかかれた、記念事業の柱として見事に新築落成された寺宝の
収蔵庫は大変印象に残り、ぜひ地元のお檀家様にも見てほしいと思いました。
京都からの帰りは、晩の予定もあって乗らなくてはいけない電車が決まっており、
挨拶もそこそこに本山を後にしましたが、お世話になった先輩後輩など
色んな方に会うことができたなか、どなたにも御礼を伝えたい思いです。
皆さま貴重な時間を下さり、本当にありがとうございました。
南無大師遍照金剛 合掌
移り変わりの上に
息子のサッカーの試合が木曽で行なわれ、試合観戦の合間に
近くに流れる川まで足を運んでみました。
川の水はとても澄んでいて、まわりには大きな石がたくさんありました。
豊かな自然を感じ、その美しさに見入ってしまいます。
この大きな石たちはどうやってここまで運ばれてきたのか。
遥か昔から、どれほどの時間が過ぎていまに形を変えてきたのか。
人智や想像を遥かに超えた時間の流れと変化の上に人は立っています。
命が自然の一部であることを観想し、自然と一体となる実践によって、
人の体や精神は、何事も良い方向へ導かれると聞いたことがあります。
自然に溶け込む感覚をもつためには、五感を澄ます習慣が大切なのでしょう。
コロナウィルスの感染症法上の基準が、いよいよ5類に移行します。
ここに至るまでとても長かった気がするのですが、実はまだ3年なのですね。
大自然が形を変えて来た、途方もない時間に比べたら、瞬き程度です。
しかしながら、この3年の内に、失われた価値があり、生まれた価値もあり、
生活環境を大きく変え、人生の分岐点とした方は大勢いらっしゃいます。
目に見えて人が変わりゆく様を感じたコロナ禍でした。
失われた多くの命もありました。一方で、これから生まれてくる未来の命は、
この変化が創り出した形の上に立つのですね。
さて、今後は経済活動が順調に動き始めることに期待がもてます。
昨日までのGWの人の流れに、明らかにその様子を感じとることができました。
弱った経済に力が蘇り、やがてコロナというものが意識から薄れていきます。
大きく変わろうとする時に、人には差が生まれます。
そして、差に敏感になります。
自分と他人の違いに敏感になることでストレスを感じ、
そんな時に人は攻撃的な感情が生じてしまうことがあります。
私たちはコロナ禍を経験し何を学んだかが試されます。
そのひとつは、シンプルに思いやりの心だったと思います。
五感に感じる自然の働きや恩恵はとてつもなく大きいです。
人がコロナという狭い価値観から離れ、余計な感情は手放し、
広く広く、大自然に恵まれた命を生かしていきたいものです。
コロナ禍に人の生活を救うため、笑顔を増やすため力を尽くしてこられた
医療関係者はじめ、各業界の多くの皆様に感謝申し上げます。
合掌
花まつりフルートコンサート (動画付)
4月23日(日)、18時30分より
4月の日曜仏教会「花まつり」が行なわれました。
今回は4年ぶりとなる本堂での音楽コンサート。
『夜桜フルート&声明コンサート』
小口郁子さんの心のこもった優しいフルートの音色が本堂に響き、
大勢のお客様がうっとりとしている様子がわかりました。
美しい演奏、素敵な曲に会場の空気は次第にひとつにまとまっていきました。
お釈迦様の御生誕を祝う伝統行事の花まつりは、自身と家族の心身健康やお子様の
成長を願うばかりではなく、お釈迦様の近くにおまいりし、仏さまについての話を聞き、
命の大切さ、いまを生きることについて考える、仏教界の要とされている行事です。
お祝いの行事であることから、堅苦しさを取り払い、お寺を身近に感じてもらうなか、
仏教を伝えるには絶好の機会なのです。
お寺を身近にとはいっても、やはり皆様にとっては非日常の場所です。
非日常で見聞きするものには特別な魅力が生まれます。
お寺に有る「場の力」とは、ひと言で表すと「寛容さ~許されること~」です。
場の力を発揮すべく、花まつりに音楽を聞かせてほしいと思っていたことと、
もうひとつ、コロナ禍にいよいよ終わりが見え始める時期を待ち、
これから「変わってゆく」こと、その希望を表現したいと考えていました。
お寺は許される場所。
笑って、泣いて、感動して、心が温まる自分を感じて、
そして「心を元気に」してほしい。
この先、世の中の様子が移り変わろうとしていますが、
明るく感じられるのかどうか、それは、あくまで人によるのです。
弘法大師のお言葉、
「物の興廃は必ず人による」
やはり、いま私達の心がどんな状態にあるか、そこが重要なのです。
来場者から喜びの声をたくさん頂戴しました。
非日常から日常へ、喜びを持ち帰ってもらえたと思うと、
私も演奏者の小口郁子さんも、とても幸せです。
小口郁子さんのフルートと合わせた真言声明を聞いてほしいと思い、
小口さんにお願いしたのは昨年のこと。
小口さんにとっては声明にふれること、ましてや声明にあわせて
フルートを吹くことなど初めてのことなのに、このたびのコンサートで、
それを見事な形で叶えて下さいました。
本当にありがとうございました。
ご来場下さった大勢の皆さまはじめ、ご協力下さった皆さま、
心より御礼申し上げます。
皆さまからの温かな拍手に、私も心が元気になりました。
合掌
【動画案内】
来場者より大きな反響がありましたフルートと声明の共演。
このたび、初めての取り組みに挑戦し、私達のオリジナルとして、
皆様にその演出に込めた思いが届いたことに感激しております。
リンク:演奏者小口郁子さんのYouTube「御伽草子」よりご覧になれます。
散華(さんげ)
https://youtu.be/yjfUkyeOmew
對揚(たいよう)
https://youtu.be/NcusHbL7WN8
吉慶漢語(きっきょうかんご)
https://youtu.be/PKfFdm2miZI
再会
創立150周年を迎える母校の記念誌に、私の思い出を寄稿するご縁をいただき、
小学校時代を振り返るため卒業文集を開き、懐かしく読み返していました。
記念誌に私が綴った一文には担任の先生について触れ、同時に今はどうされているのか、
お元気になさっているのか気になっておりました。
担任の先生とは、卒業以来一度もお会いしていません。
ひとつだけわかっていたことは、私達が卒業した後、お寺に嫁がれたということでした。
お相手は、隣のクラスを担任しておられた先生でした。
当時、私も寺の生まれだったことから、少しはこの話題に反応したことを覚えています。
近頃になって、過去にお世話になった先生を意識し始めたのは、記念誌に思い出を
寄せたこと、それとやはり、私が僧侶として先生と同じく寺に勤めているからでしょう。
一度お会いしたい、という気持ちが芽生えていました。
つい先日、急展開を迎えました。
息子に習字を教えて下さっている先生が、小学校時代の同級生の母親なのですが、
雑談のなかで、担任の先生の話題になったのです。
すると、習字の先生は、嫁いだ先のお寺のことを教えて下さいました。
同級生だった娘さんと担任の先生は、同じお琴の教室に通われていたそうで、
卒業後も連絡を取り合える関係にあったらしく、詳しいことをご存知だったのです。
先生が居られるお寺は、長野県飯田市に在る臨済宗のお寺。
それを知った次の日、私は飯田市内で開かれる青年会の総会に出席の予定でした。
このことを単なる偶然ととるか、引き寄せられたご縁ととるかは自分次第でした。
私は習字の先生に、その場で明日会いに行きたい気持ちを話しました。
しかし、35年近くも時は過ぎているのです。
突然会いに行ってよいものだろうか。
会いたい気持ちのなかに複雑な思いも混じっており、妻に相談したところ、
大丈夫、会いにいったらいいよと言ってくれたので、気持ちは固まりました。
翌日、少し早めに出発して、総会の前にお寺に寄りました。
こういう時は、まず先に連絡をひとつ入れることが礼儀ですが、
変に気をつかわせてもいけない、ご挨拶させてもらえるだけで十分と考えていたので、
無礼を承知のうえで、突然の訪問となりました。
もしご不在だったらあきらめようと決め、ドキドキしながらインターホンを鳴らすと、
女性の声で返事があり、玄関を出てこられた方は間違いなくお世話になった先生でした。
どちらさま?というご様子でしたが、出身と名前を名乗ると、すぐにわかって下さり、
とても驚かれました。
人と会ってこんなに驚かれたのは、いつぶりだろうか。何をした時以来だろうか。
御住職をされている隣のクラス担任だった先生も、覚えていて下さいました。
ご本堂におまいりさせていただいた後、少しの時間ですが懐かしくお話ができました。
まずはなぜ突然の訪問となったのか、事の経緯をお話しし、後はお互いの近況を少し。
わずかな時間でしたが、先生の元気なお姿が拝見できたこと、とても嬉しかったです。
先生も喜んで下さって、不安もあった私は正直安心しました。
お聞きすれば、当時の先生は24歳だったとのこと。
今年3月で小学校の教職をご退職されたとのこと。
あれから30年以上、小学校児童のご指導を続けてこられたこととあわせて、
お寺の寺庭としても30年以上が経っていることへの尊敬の念、突然に訪れた私を
こんなに温かく迎え入れてくれたことの優しさ、様々な感情に心潤いました。
先生は過去を振り返るように、なぜかごめんねと言う。
もっときちんと教えてあげられればよかったと言う。
今の先生が、若かりし頃教壇に立つ自分自身に言い聞かせているようだった。
私には、そんな先生の言葉とお気持ちが只々もったいない。
私は、色々とご迷惑ばかりおかけしましたとお詫びの言葉を伝える。
しかし、その過去のすべてに、いま流れている時間の「有難み」が勝る。
35年ぶりの再会に、過去が輝き始める瞬間でした。
過去は変わらないと言いますが、それは事実の部分だけを指すのであって、
その後のご縁や生き方によって、未来に過去が磨かれることはあるのだと思います。
先生が今後も幸せにお達者に過ごされますことを願っています。
このたびの再会を、仏さまに引き寄せられたご縁と感じており、
この「仕合わせ」に感謝しております。
ありがとうございました。
合掌
キバナカタクリ
4年ぶりの音楽コンサートを前に
今年の花まつりに、真福寺では平成31年の4月以来、4年ぶりとなる
音楽コンサートを開催します。
4月23日(日)、午後6時30分より、岡谷市在住の小口郁子さんによる
フルート演奏をお楽しみいただきます。
実は、小口さんは平成30年の夏に開かれたアコースティックギターコンサートに
おいても、そのグループのメンバーとして出演されています。
4月7日 会場での音合わせ
真福寺では長年コンサート開催を続けてまいりましたが、令和2年4月に予定していた
御諏訪太鼓と真言声明のコンサートをコロナウィルス感染拡大による緊急事態宣言の
事態を受けて急遽中止として以降、一度も音楽コンサートは開催していません。
3年間、寺の行事は何もしなかったのかといえばそうではなく、毎年要となる法要の他、
月例行事においては、やりたいことをやれるだけの範囲でこつこつ続けてまいりました。
やれるだけの範囲というのは、正しいとされる感染対策基準に準じた明確な判断はなく、
人によって考え方や価値感は様々であり、何度か役員様から注意を受けました。
私が考えていたことをここに少し述べておきます。
いまの時代、お寺が布教教化活動をピタリと止めても、世の中どころか、
狭い地域の皆さまの生活にさえ、何も影響はない。
無理に行事を行ない安心を失いリスク背負うくらいなら、いっそ活動を止めてしまおう。
世情を鑑みれば、そうしたとしても誰も声に出して否定しないことはわかっていました。
正直、その判断はいつでもできました。
しかし、そうしたいとは、一度も思いませんでした。
お寺の荘厳と静けさは時に心地良く、非日常の場所。
その静けさのなかに絶えずゆっくりとした動きがあり続けることで、
細々とでも人が行き交い、つながりが生じてゆくのです。
私はそれを「水の流れ」に例えていました。
非日常がよりどころとなって、日常を心豊かに支えてくれることがあります。
お寺に通うことを励みとする人もいれば、お寺を心に求める人が声に出さず
いたりもするのです。
だから、どなたかの心休まる場所が失われないよう、細々とでも「寺の水」は
流れているべきだと私は考えています。
理由はもうひとつありました。
世の中に不安感や閉塞感が満ちている時にお寺が門戸を閉ざすことは、
お寺の魅力や価値の喪失を認めることに思えたからです。
この3年間、欠かさずにお寺に通い、力を注いでくれた方々がいました。
私自身、皆さんのご理解の声に支えられ、励まされて活動しております。
とても感謝いたしております。
今後も出会う人からの学びや気づきを大切にしながら水の流れを守っていきます。
さて、4年ぶりの音楽コンサートです。
フルートと真言声明のコラボにも挑戦します。
私が思い描いていたフルートと声明の共演イメージについて、
小口さんにお話したところ、「まったくイメージがわからない」と
少々お困りになりながらも、快くお受け下さいました。
コロナ禍という言葉が定着して3年を過ごしました。
禍とは「わざわい」を意味するものとされています。
「その『わざわい』から、いよいよ解けていくのだ」ということを、
仏さまが見守って下さる場所で表現したいという思いがあります。
世の中の変化を前にして、まずは元気になりたいですね。
元気は「元の気」と書きます。
人が「元の気」に整うには、楽しみ笑うばかりではなく、
ひとり静かに佇んだり、時には涙を流すことだって必要なんですよ。
心の中は人それぞれですから、人それぞれの感性で元気になってほしい。
そんなきっかけがお寺の音楽コンサートにあればと願っています。
4月23日(日) 18時30分~19時40分 本堂にて
花まつり夜桜フルートコンサート~声明も交えながら~
多くのお申込みがありますが、まだ定員まで事前申込みが可能です。
事前申込みの方には、優先席の他、MAMAMI舎さんの「花見おはぎ」と
法語手書き入り「散華」が付きます。
ライトアップを予定する枝垂れ桜ですが、思いのほか開花が早く、
早くに散ってしまいそうです。
今年の花まつりは、皆さんの笑顔で本堂に花を咲かせましょう。
4月8日はお釈迦さまの誕生の日
お釈迦さまのお言葉
天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)
~一人ひとりが世界にひとつだけの花、ゆえに命尊し~
合掌
御礼~蓮の植え替え~
このたび、10基の蓮の植え替えを致しました。
今年も松本市より小原章さんがお越し下さり、丁寧にご指導をいただきました。
関心のある方には、苗を持ち帰り自宅で育てていただければと呼びかけたところ、
多くの方がお越し下さり、蓮植えについて一緒に学び、一連の植え替え作業にも
ご協力をいただくことができました。
おかげさまで、親睦のひとときを得ることにもつながり、誠にありがたいことです。
小原先生、ご参加の皆さまには、心より感謝御礼申し上げます。
3年前のこども達の春休み、塩尻市の郷福寺にて蓮の植え替え作業があることを知り、
私の法友であります白馬秀孝住職にお願いし、子連れで参加させていただきました。
その時に指導された方が、小原章先生。
この作業をこども達が体験させていただき、その年の春休みの貴重な記憶となりました。
私も一連の作業の様子を写真や動画を撮って残し、メモもとりました。
「真福寺に咲く蓮を見たい」
という思いがあったのだと思います。
苗がたくさん出来ていて、自由に持ち帰ってよいとのことでしたので、
育てる育てないの決断はさておき、三ついただきました。
お寺に戻り、日を置かずに蓮植えに挑戦。
自分のメモや動画などを頼りに必要なものをひと通り揃え、
いざ蓮植えの初実践。
初実践の結果から言いますと、
三つの苗から、多くの葉は伸びても、蓮華の蕾を見ることは叶いませんでした。
小原先生が時々様子を伺いに松本から来て下さるのです。
その後の成長を諦めると、水面にひとつ蕾が姿を見せた蓮を一種届けて下さったのです。
私の植えた蓮は咲きませんでしたが、小原先生の温かいお心によって、
夏に見事な蓮の花を見ることが出来ました。
大型の大賀蓮という種類でした。
さて、季節は過ぎ行き、冬を越し、真福寺で行なう初めての植え替え。
やはり小原先生はお越し下さいました。
泥の中にある蓮根の具合は器を返してみないとわからない。
郷福寺さんで初めて見た蓮根の姿が見れるのだろうか。
結果をいうと、すべての蓮根は腐っていました。
原因は、小原先生より寒さ対策が必要だったと教わりました。
まもなくして、小原先生は真福寺で蓮を育ててほしいと4種の元気な
苗を届けて下さったのです。
その数9基。小原さんと蓮植えを行ないました。
その夏に咲いた蓮の数、なんと37輪。昨夏は見事でした。
一輪一輪は4日で散ってゆきますが、7月の終わりからお盆過ぎまで、
ながく美しい蓮の花を見ることでき、多くの方がお寺に咲く蓮の花と出会い、
大変に喜んで下さいました。
蓮の成長観察をしていて思ったことがあります。
蓮は最初に出る葉も、その後に水面からまっすぐ伸びる芽、成長する蕾、
やがて咲く花、花弁が落ちたあとに膨らむ実、実を落としたあとの花托、
そのすべてが美しい。
多くの人を魅了する蓮の花は、神々しいほどの高貴な美を放ちます。
その花の香りに誘われてやってくる蜂たちもまた、蓮の美に欠かせぬ存在かと。
そして、蓮がまだ姿見せずにいた「泥」のなかも美しいものに思えてくるのです。
蓮の成長に欠かせぬ栄養は、この泥にあります。
「泥多ければ 仏大なり」
蓮の成長観察、身近に見た蓮の花に、日々励まされた昨夏でした。
この冬は一年前の結果を活かし、小原先生のご指導により寒さ対策。
一冬を越し、このたびの植え替えには、たくさんの立派な蓮根に出会えました。
みなさんとその姿を共有し、参加の皆さんは蓮の苗をお持ち帰りになられました。
ぜひ、ご自宅で蓮の成長観察に挑戦してほしいと思います。
それぞれ土と肥料は違いますが、「浴びる日は一緒」です。
咲くも咲かぬも、ぜひ観察を共有したいと思います。
願わくは、この夏、咲く花に出会えた喜びを共有したいです。
これも蓮という名の「ほとけ」からいただいたご縁ですから。
合掌
(追伸)
お世話になっている小原さんを蓮の先生とお呼びしていたところ、
私は先生ではありません、蓮の愛好家です、と。
しかし、後から知った話では、元小学校の先生でありました。
花の大好きな学校の先生。
昨年、小原先生が言って下さったお言葉が嬉しかった。
蓮の他に、境内に様々な花の苗を届けに来て下さり、
「真福寺を『花の寺』にしましょう」と。
それまで花に関心のなかった私。
小原さんの温かなお気持ちがとても胸に沁みました。
ありがとうございました。
希望の子たち
このたび、地元中学校の卒業式に出席しました。
3年前、入学と同時に全世界は新型コロナウィルス感染が拡大。
日本でも未知のウィルスの急拡大により緊急事態宣言が発出され、
入学直後に学校は2か月近い休校を余儀無くされました。
3年間、常にコロナウィルス「感染対策」とともに学校生活を送り続けた、
「コロナ世代」と呼ばれる子たちです。
いくつも感染の波がやってきて、先は見えず、幾度と不安になったことでしょう。
学校も家庭も、長いトンネルのなかにいながら希望を持つことは大変だったと思います。
私はこのように想像していました。
3年間のなかで心満たされることはなかったのではないか。
新しい生活様式と学習システムの変化に、不満ばかり溜まっていたのではないか。
しかし、生徒とともに過ごした先生方のお話、さらに卒業生、在校生の話を聞くと、
その想像の中身は、大人である私の勝手な思い過ごしであったと気づかされました。
卒業する子たちが、この3年間に育まれたもの。
工夫する視点、創造力、忍耐力、対応力。
そして、優しい心づかいと認め合いの精神。
その当時の自分たちと比較するのはナンセンスですが、
卒業式の立ち居振る舞いと言葉のひとつひとつに、随分と大人に思えました。
正直、卒業生の姿、マスクを外したその表情に感動をおぼえました。
この世代の子は、仲間とよく「協力」して、よく「発想」を膨らませて、
自ら「希望を見出そうとした」子たちなのだと感じます。
大人たちはよく争った。時に人を傷つけた。
大人は自分達でルールを作っていながら、よく不満を漏らした。
こどもたちは、本当によく耐えた。
こどもはマスクの下に笑顔を見せ、よく明るく過ごしてくれた。
長いトンネルから抜け、希望の光が射そうとしています。
少し世界は変わってしまったけれど、
このようにして過去より時代は変化してきのだと思います。
コロナ禍に失ったものもあるけれど、感謝すべき、気づくべき視点があることを
人はこれでもか、というくらい教えられました。
大人がこどもたちから気づかされたことも多かったはずです。
この3年間を経験して巣立つこどもたちに、心からおめでとうの言葉を。
そして、これらの経験は、これからの人生で必ず活かされる日がやってきて、
また、いつか友と学び舎を振り返り、笑って語り合える日もやってくるでしょう。
素晴らしい成長とご卒業おめでとうございます。
合掌
黄金の鐘
このたび、SBC信越放送「ずくだせテレビ」の取材撮影がありました。
取り上げられたのは、なんとなんと、本堂の釣鐘。
除夜の鐘でお馴染みの真福寺の梵鐘は、毎朝5時半に突くことを日課とし、
日中ご参拝の皆さまにも自由に突いていただいております。
釣鐘(「半鐘」と呼びます)はというと、これは法要の始めと終わりを知らせる時、
ご葬儀の始まりを知らせる時、つまり法儀でしか突くことがありません。
檀徒の皆さんでさえも、本堂の半鐘の存在をご存じない方が多いと思います。
諏訪の民話を集めた本、『諏訪のむかし話』、この半鐘(14世教順代ー江戸時代)を
題材にしたであろうお話(タイトル「黄金の鐘」)が登場します。
お話は真福寺が高尾山麓寺平にあった頃、さらに大昔の話。
この本はいまから45年も前に発刊されたものです。
天竜川の底に光るものを救い出すと、さびついた鐘だった。
南無阿弥陀仏と唱えると鐘に刻まれた阿弥陀様のお姿がまぶしく光る。
たいへん美しい音色が村に響く。
ひとつ突くと災いに遭わない。
ふたつ突くと病気にならない。
みっつ突くと、家族仲良く暮らせる。
よっつ突くと、家は大金持ちとなる。
村人は喜び、一日中、村に鐘の音が響き続ける。
すると、その村は・・・。
というような話なのです。
実は、この半鐘に興味関心を寄せられたことは、私の記憶のなかにはありません。
もちろん、取材により半鐘がクローズアップされるのは初めてのことでしょう。
放送日は3月10日。
番組表「ずくだせテレビ」を要チェックです。
この他に、「弘法大師ご誕生1250年記念」特別御朱印の取材も
いただきました。
令和5年の一年間、毎月21日限定でお授けしている特別御朱印は、
お大師様のお姿に、お大師様の残されたお言葉を書き添えます。
お言葉は月ごとに替わり、解説を添えてお渡ししております。
筆になれていない私は、カメラを向けられながら字を書くということに、
いままで経験したことのない感覚の緊張に陥っておりました。
何事も体験してみることですね。
御朱印にある弘法大師は、
私が平成13年に京都智積院で修行をしていた当時、
写仏の講義で描かせていただいた修行大師のお姿です。
最後、お大師様のお顔に筆の先で眼を入れた時の感動はいまでも忘れません。
いまは四国八十八ケ所霊場の御朱印掛軸となっているそのお姿を写真に収め、
御朱印帳サイズにあわせて縮小印刷してあります。
特別御朱印をご希望の方は事前にご連絡下さい。
本堂に祀られる弘法大師のお近くまでご案内し、1枚300円でお授けします。
毎月21日は、午前9時から恒例行事「写経体験会」がございますが、
参加し写経をお納め下さる方には、初回のみ1枚差し上げております。
祖師の記念年に報恩謝徳の意を表し、布教活動をすすめながら、
お大師様とともに歩む一年にしたいと思っております。
取材いただきました、田中優志様、アナウンサー尾関雄哉様はじめ、
信越放送局の皆さまありがとうございました。
合掌
大輪~師の言葉~
お釈迦様がお伝え下さったこの世の真理、諸行無常。
すべては移りゆく。
始まりがあれば、終わりがある。
人はいつか、いや、いつでも死ぬ。
いまから35年近く昔の小学校卒業記念文集を開く機会がありました。
懐かしいというより、どこか恥ずかしい気持ちで小学生の自分を振り返ります。
先生方が寄せて下さったお言葉をすべて拝読しました。
なんて有難いことを仰って下さっているのだろう。お言葉が胸に沁みました。
その頃の自分は、これを読んだのでしょうか。
もし、読んでいたとしても、心に響いていたのでしょうか。
とても、その自覚がありません。
中学校でお世話になった先生方のこともそう。
高校時代に硬式野球部で厳しくご指導いただいた監督さんのことも。
人生で出会った先生方は、常に私達に言葉を残して下っていたはずです。
しかし、その頃の私達は、それを受ける器がまだ浅かったのだと思います。
機が熟し、はるか昔にいただいていたご指導の有難みに気づく。
おそらく、多くの方が同じ思いを体験しているのではないでしょうか。
一期一会で先生からいただいた言葉。
その多くは、申し訳ないことに、あたりまえと思っていた日常のなかに
流れ出ていってしまいました。
今思うのは、たったひとつでも言葉を記憶して残しておくことの大切さです。
指導者には、それぞれ口癖にしているような言葉がきっとあります。
それが一期一会の有難みとも思えます。
私が小学校低学年の頃にお世話になった先生からのお言葉。
―ならば、どうする―
楽しかった。
と終わらず、楽しさを「分かつ」喜びを味わってほしい。
つらい。
と、負けず、乗り越えることで「忍耐」と「成就」を知ってほしい。
(卒業記念文集「大輪」より)
ならば、どうする。
いつか死を迎える時に、お釈迦様の言葉の大切さに気づいたのでは、
きっと遅いのでしょうね。
お釈迦様は、多くの言葉を弟子に残し、それを「生きる力」とせよ、
と、仰られたのです。
お釈迦様のお言葉は、生きるための教えです。
生きるための、そして、いつでも死ぬための仏教です。
折に触れ、仏教を体感し、それを分かつようにしたいと思います。
仏教とともに、迷いを友と見て乗り越えていきたいと思います。
合掌
春雪~五大の響き~
立春を過ぎて、射し込む陽が濃くなってきたこの頃。
いよいよ暖かな春が近いことを肌に感じていた矢先、
2月10日は、一転大雪となりました。
一日中、夜中まで容赦なく降り続いた春の雪は大変重たく、
8度も繰り返した境内と駐車場の雪掻きは身に応えました。
道路の雪掻きをして下さる、近所のご家族。
雪掻きの最中、突然、喜びの声をあげたのです。
私はすぐに察しました。受験の合格。
強く降る雪のなかに見た歓喜の光景は、体の疲れを癒し、心を灯してくれました。
翌日のお寺でのご法事などに向け、駐車スペースを確保しておくべく続けた
駐車場の雪掻きは、人手も足りず、もっとも体力を消耗し難儀しておりました。
昼前にその様子を見た仲間が重機で助けてくれました。
夜になると、再び救いの手を差し伸べてくれました。
次の日に駐車場を不備なく利用していただけることに安堵し、
感謝で胸いっぱいになりました。
「ありがとう。」
夜9時には雪が止み、境内の雪掻きがやっとひと段落。
一日中、遠くからサイレンが聞こえていたように思います。
朝、目が覚め、4時30分に外に出ると、真っ暗な空のもとには一面の銀世界。
一夜明けようとしている辺りの様子を窺うと、そこはしんと静まり返っていました。
風もなく、時間も生命の営みも皆止まってしまったかのように静か。
神々しささえ感じました。
厚く積もった雪がすべてを吸収しているのでしょうか。
世間の喧騒も人々の迷いも、すべてを吸収しているかのように思えた、
包容力に満ちた神と仏の世界でした。
朝のお勤めを終えて、今一度雪掻きをし終えた頃、
鳥の声が聞こえてきました。それはいつもと違う、どこか遠いところから
聞こえたように感じました。
弘法大師は「五大に響きあり」と仰いました。
森羅万象、すべての生命に仏の声を聞くことができると。
苦難、逆風に菩薩ありと感じた、このたびの春雪でした。
辺りの雪が溶けた頃、今年もふきのとうを採りに行こう。
合掌
春は始まっている
10年に一度の最強寒波。
他に、もう少し優しい表現はないものかなぁ。
と、数日前テレビを見て思っていた自分。
お寺に住んでいて、冬に雪掻きをする範囲はとても広く、相当な時間を要します。
気温が下り、空が暗くなるにつれ、すぐ戦闘モードに入れるくらいに身構えていました。
少し恐れていた、というのが正直なところです。
予報どおりに降り始めた雪は、瞬く間に厚く積もっていきました。
翌25日夜のお寺ヨガは早々と延期を決めて連絡。
午前の法事に向けて、駐車場、参道を中心に全体3度の雪掻きを繰り返しました。
夜9時、就寝前、最終の雪掻きの時には雪は止み、ひと安心。
今朝起きて辺りの様子を窺いながら、再度雪掻き。
最強寒波という表現に恐れていた私は、この程度で済んでよかったという心境でしたが、
忘れた頃に猛威を振るう大自然に対しては、このくらいの畏怖の念や謙虚な心構えは
必要なのかもしれません。
油断、過信は事故につながり命取りにもなるのですから、まだやってこないものに対し、
最大限、人に恐れをもたせようとする報道も当然のことなのです。
このたび襲来した寒波には、まだまだ各地大雪警報が続くところもあります。
とにかく事故のないよう、安全第一、広い視野をもっての行動を心掛けて下さい。
25日はとても寒い一日となりましたが、空は晴れ、陽のあたる高尾霊園の
雪掻きをしていると、体はポカポカと温まってきます。
この雪の下には、もう春が始まっていると思うと、心もポカポカしてくるのです。
喜びは、苦しみのすぐ近くにあるものらしい。何事も。
合掌
出るが先
法話会のご縁からお世話になっている宮司様から、餅、米、魚、野菜、菓子など、
様々ないただきものをするようになりました。
昨秋、立派な大根を三十本も、漬物樽、漬物石と合わせて届けていただき、
初めて大根漬けを体験しました。もちろん漬け方を教えて下さったのは宮司様。
師走半ばに入ると宮司様から連絡がありました。
「そろそろ漬かっているか味をみて下さい。浅くても、それはそれでいいですよ。」
初めて自分で漬けた大根ですが、宮司様のおかげで味、食感、とてもよいと思えました。
家だけではとても食べきれない量なので、縁のある方に差し上げることにしました。
12月、納めの写経体験会参加者を始めとして、お口に合うか心配でしたが、
いろんな方に初心の漬物をもらっていただきました。
たくさんあった大根が少しずつ減っていくと、これが面白い偶然で、ご縁の方々が、
野沢菜などたくさんの漬物をうちに届けに来てくださることが続いたのです。
不思議なものだと感じてこれを頂戴しておりました。
おかげで年末年始は毎日毎食漬物を食べて、まさに塩分過多の状態。
こども達も漬物が好きなようで、おやつでも冷蔵庫を開けて漬物を食べるほど。
幼いうちからしょっぱいものを好んで大丈夫かなと心配になるくらいです。
宮司様にこうお話ししました。
不思議なもので、年の暮れに漬物を差し上げていたら、同じようにいろんな方から
たくさんの漬物を頂戴してばかりでした、と。
すると、宮司様はこのように仰いました。
「出さないと入ってこないのが、世の常ではないでしょうか。」
随分さらっと口にされたのですが、この言葉は大変に深い意味を含んでいます。
これほど自然に自分の言葉として口にできるのは、まさに心と行動の両面が
習慣として身に付いておられるからなのでしょう。
出さないと入らないとは、言葉の表面だけを受け取れば見えない、真理を突くもの。
人が身も心も凝固し、柔軟性や余裕を失うのは、目に映らない迷いの壁があるから。
その迷いのもとにあるのは「執着」の心です。
固く握りしめ、決して手放そうとしない価値。そこに余計な力が働いているからです。
人の執着は言い出せばきりがない。
出さないも執着、出さねばならぬと思うことも執着。
自分に向けている価値を手放して、初めて執着は離れていくのでしょう。
私は、何かを実践すること自体も出すということと捉えます。
内にある考えを「行動」に移すことで、「結果」が入ってくる。
ただし、良い結果ばかりではありません。動けば動くほど失敗も体験します。
人は出すことばかりではなく、得てして入ってくる中身にも一喜一憂し、
囚われてしまいがちです。
つまり、よい結果ばかりに拘ってしまうことも、迷いを生む執着なのです。
重ねた失敗体験とアップデートから導かれる成功はきっと訪れます。
執着との向き合い方って、本当に難しいですね。
でも、出入り口と書くように、入るより先に出す。列車はお降りの方が優先です。
出さないと入らないのは、言い得て妙、世の真理だと思います。
考えや身辺を整理整頓し、時に「断捨離」を行なう。
溜まったストレスや体の不調も出すべき時には出す。
離れること、近づくこと、手放すこと、受け止めること、どれも別々のものではない。
どこかですべてはつながっている。
行動に示せば、必ず「変化」が生まれる。その変化も恐れてはいけない。
変わらないことに執着してはいけない。
変わりゆく世に、私はポツンと生かされ、運ばれている。
まだ漬かりは浅いが、それはそれでいい。
合掌
迎春 癸卯
令和5年、西暦2023年を迎えました。
今年は癸・卯の年。
癸は十干最後の節目、収まりゆく年、始まりが見える年。
昨年は、「動く、挑戦」を課題に挙げました。
自身振り返れば、同じテーマを掲げる人とのご縁に恵まれた年でした。
私とは比較にならないほど強い意思をもって、大きな目的に向かい動き、
挑戦することを声高らかに宣言した人たちがいて、その発想力、行動力、
リスクに立ち向かうパワーに近くで触れさせていただきました。
やがて、その意思が大河となっていく様子も見ることができました。
いままで見れることのなかった景色を見ることもできました。
なにより実感したことは、意思に惹かれ人が結束することの尊さです。
海の向こうでは、いまも戦争が続いています。
こどもたちに聞きました。
—なぜ戦争していると思う?—
こどもはこう答えました。
「自分たちが正義だと思っているから。」
なるほど、自分達を正義と呼びかけ、相手を悪と位置付けているのか。
確かに、これも人が結束する理由のひとつではあるが・・・。
しかし、これは戦争がなくならない理由のひとつともなるだろう。
この世は表と裏、陰と陽が存在し成り立っています。
そこに区別や差別が生まれます。
たとえば、陰と陽や善と悪みたいな区別を、相手との間に設けてしまう。
これは、実は迷いのもと。
本当は、「自分の内側」にそれを見出さなくてはならない。
私達はいつも人が創った価値に翻弄され、評価に囚われて、
いつしか自分の色を決めつけている。
人と比べて、自ら多くの迷いを創り出している。
神仏のなかに生かされている命は、
みな等しく、「表と裏」を併せ持ち、双方を見せて生きています。
誰にも善と悪があり、どちらかだけということはないのです。
清濁併せ吞み、そこに信心が伴い健やかな力となります。
小欲は迷いを生み、大欲は結束を生み出します。
大欲は、言葉にならない感動を人と共有し記憶することができます。
奪えば争い、分ければ和合。
決めつければ一本道、譲れば可能性。
今年はどんな年になるでしょうか。
自分の表裏を謙虚に見つめながら、人と力を合わせて、
お知恵を借りながら、よき道を選択できる年でありたいと思います。
十干節目の年に、一度弱った世の中が再生していく姿が見える。
そう信じて、一人ひとりが日々精進していきたいものです。
そして卯の年。
うさぎはなぜ亀に負けたか。
うさぎは、自分と亀を比べ、本来の目的を失ったから。
亀は、丘の上に立つ一本の木を、ただひたすらに目指したのです。
多くの笑い、出逢い、まなび、
皆さまにとって悦び多き年となりますことをご祈念申し上げます。
合掌
令和4年写経奉納
12月21日、納め弘法の日。
観音堂にて、今年皆さんが納められたお写経の奉納祈願を致しました。
写経は毎月21日の写経体験会、毎月末日の晦日キャンドル写経にて
お寺に納められ、他にも有志にてしたためられた写経がお寺に届きました。
今年はとても多く、その数は300巻を超えております。
大変有難いことです。
今年納められた写経とそのお心は、すべて観音堂の聖観音菩薩のもとに供え、
来年一年の間、毎朝供養と祈願を重ね、その後にお焚き上げ供養いたします。
納経願主皆様からの厚いお志に心より感謝申し上げます。
毎月、熱心にお写経に通われる方が、
「最後まで静かな気持ちで書けるようになった。」
と、自分の変化を喜び、涙を流しながら笑っていたお顔が忘れられません。
写経は一度体験してみるもよし。
気の向くままに通って自分の励みにするもよし。
私も毎月21日に皆さんと勤める写経の時間が励みになっております。
お写経のひとときは、御仏の慈悲の舟に乗せていただくようなもの。
その姿に心が表れ、そして心が洗われてゆく。
安心してお勤めできる修行として、皆さんに勧めております。
ご供養、ご祈願でお勤めの方、自行また楽しみとしてお勤めの方、
写経に向き合う心は様々ですが、すべて徳が積まれ、やがて回向します。
来年も、お写経の仲間が一人でも増えることを願います。
合掌
~御礼~
さて、本年も残すところ十日。
今年も振り返れば、色々な方に支えていただきました。
たくさんのおかげがあって、よき一年を送ることができたことを悦び感謝しつつ、
これより身のまわりを整理し、寺の掃除などを節目に向けて進めてまいります。
寒さ厳しき時を迎えております。
皆さまにはお身体ご自愛いただき、お健やかな年越しをなさって下さい。
一年間、誠にありがとうございました。
なお、年明け1月4日、午前10時からの聖観音初護摩供法要の
ご祈祷護摩札の申込みは、年内承っております。
お寺までお問い合わせ下さい。
~大晦日二年まいり~
23時00分 古札等お焚き上げ (お持ち寄り下さい)
23時20分 先祖回向 本堂
23時40分 除夜の鐘 (人数制限はございません)
新年0時0分 初祈願 観音堂
縁起物は本堂でお求め下さい。
本年も厄除汁、甘酒の接待は致しません。ご了承下さい。
二度とない時の輝き
手嶌葵さんの歌う『明日への手紙』という曲のなかに
こんな詞があります。
人は迷いながら揺れながら歩いてゆく
二度とない時の輝きを見つめていたい
私はこの曲すべてが好きなのですが、そのなかでも
この部分に仏教的要素を感じ、惹きつけられました。
(作者は意図してないと思います。すみません。)
こんなことを思うのです。
人は生きている限り迷い続けるもの。
迷うことがその人の人生の道となる。
私のもつ仏教的価値観は、
迷いを断ち切ることが「終着駅」なのではなく、
迷いのなかにも仏を探し続ける「信仰心」です。
誰もが二度とない人生、二度と辿ることのないこの時を歩んでいます。
だからこそ、この時とは輝かしく、そして非情な厳しさも伴うのです。
12月12日は祖師興教大師覚鑁上人のご命日です。
覚鑁上人は、人の「臨終の大事」を説いています。
人は幾ばくも無い命の時のなかにあって、自分の限りある「呼吸」のなかに、
仏を観想することができるというのです。
最期が迫るなかで、どうしたらそんな境地に到ることができるでしょうか。
見守る人にとっても同様のことが言えます。
私は、その時、心に観ることのできる仏さまの存在が、
人それぞれにあるものと考えています。
人それぞれの仏さまとは、死が迫って探しにゆくものではなく、
達者なうちの日々から結ばれていくものです。
お寺や先祖の墓などに限らず、たとえば何気ない日常や人との関わり、
身近に見つけた自然の草花、川の流れる音や鳥たちの声にもあるのです。
仏さまは姿形や音を定めず「遍満」しているのですから。
どこにそれを感じとり結ばれていくかは、心のスイッチがみな違うのでしょう。
ある日のお参りの方のお背中
わかりやすいシーン、そして受け継がれる大切な行ないのなかにおいて、
私は回忌供養を終えたご家族に向け、このようにお伝えすることがあります。
「供養には養うという字が含まれています。
これからは亡き人の御霊とともに、ご自身も養うなかに加えて下さい。」
回忌の節目に供養を重ねることは、形変わりゆく者たちが
形のないものを敬い、幾度も向き合うということです。
養うとはそういうことであり、この先を生きる者の心が養われる、
その姿がお供えされるのです。
重ねる供養は「追善」と呼び、徳が積まれることだそうですが、
まさにその通り、仏縁の徳であると思います。
臨終の大事に観る、一呼吸のなかに宿る仏さま。
やがて来るその時には、きっと結ばれているはずです。
冒頭、手嶌葵さんの歌う詞には、このような一節もあります。
「形ないものの輝き」
形あるものを求め振り回されている人の世にありますが、
人の主(あるじ)は形のない心です。
人生の創造主こそ、始めは形のない心。
この心の水が乾くことがないかぎり、
人は迷い尽きぬ日常に形ないものの輝きを映すことができます。
人それぞれに、仏さまを感じ結ばれていくのです。
二度と戻れない道に迷い悲しみ、何度も洗われて輝く人の姿。
合掌
神社さま
先日、諏訪の八釼神社をお参りしました。
ちょうど秋の例大祭「みかん祭り」を行っており、遠目から見させていただきました。
さらには神事を終えたあと、拝殿における宮司様のご挨拶を拝聴することもでき、
普段は寺にいる私にとって、新鮮で且つ有り難い時の巡り合わせでした。
その後、こちらの神社に大切に保管されているという仏さまを見させていただきました。
神社に仏さまをお参りする。面白いですね。
しかし、いま諏訪で広く行われている神宮寺由来仏像一斉公開のプロジェクトによって、
かつての神仏習合の歴史を振り返る機会をもてたことにより、より関心を高めながら、
古くから伝わる神仏信仰の深みを受け取れるようになっています。
おまいりの私達に向けて、宮司様がとても丁寧に仏さまのお話を聞かせて下さいました。
今しがた神事を終えたばかりなのに、お疲れの顔を見せることなく快く迎えて下さり、
しかも終始朗らかにお話なさるので、つい私達もその場にリラックスしてしまいました。
これほど宮司様の気さくさを近くに触れる機会のない私は、とても感銘を受けました。
次から次へと仏像拝観の方が入ってまいります。
気が付けばお部屋はいっぱいになっており、御朱印の申込みもたくさん入っている様子。
お忙しい宮司様に御礼申し上げ、仏さまの祀られているお部屋をあとにしました。
諏訪で僧侶と神職がともに神仏習合を振り返るプロジェクトを進めていることで、
この垣根を越えたところにある創造力を見出せるようになってきました。
いままでにはなかったことですが、それが徐々に変わりつつあることに希望を感じます。
私は今年の春、真福寺を会場に、箕輪町の小河内神社の宮司様とともに
法話会を開催しました。
これをよきご縁として、いまもこちらの宮司様にはお世話になっております。
いままでハードルが高いと感じていた神社様のことについての貴重なお話を
聞かせていただくことができるようになりました。
神職様にとっても寺院方はハードルが高いと感じていたかもしれません。
日常に僧侶と神職が互いに情報交換できる機会がもてるようになったことは、
神仏のご利益と考えております。
そして、これから先のよき可能性を膨らませていくよう使命とも思えるのです。
こちらの宮司様よりたくさんの大根を頂戴し、漬け方を教わりました。
さっそく大根を漬けてみました。
年越しの頃より、皆さまにお振る舞いできればと思います。
今年、神社様に学ぶことができたこと。ひとつの嬉しい実りです。
合掌
めぐる・つなぐ~諏訪信仰のほとけさまたち~
11月6日(日)の日曜仏教会では、神宮寺由来の仏像を公開する
御寺院を巡る、ショートバスツアーをいたしました。
諏訪上下社神宮寺にともにあった仏さまたちが、神仏判然令によって
離ればなれになったのは、いまから約150年前。
神宮寺の諸堂伽藍が失われ、神仏習合の信仰が歴史的に変化した時。
その激動のなか、諏訪地域の先人は信仰の象徴である仏さまをそれぞれ移し
お守り下さったのです。
神宮寺の仏さまは諏訪の各寺院に移されてから、静かに大切に守られてきました。
信仰のまことを尽くしてくださった方々は既に他界され、さらに時代が変わり、
神宮寺の仏さま、当時の諏訪信仰の姿を知る人は少なくなりました。
善光寺にて
岡谷市平福寺、諏訪市仏法紹隆寺、茅野市長円寺、諏訪市善光寺、
各寺を巡って、御住職方から寺の歴史と仏さまの由来にまつわるお話を頂戴し、
「古の諏訪の神仏信仰」を学ぶ機会を得ることができました。
長円寺にて
このような趣旨によって寺社手をつなぎ、一斉公開されているのはすごいことなのです。
県内外から多くの方が、各寺院と神社をめぐり、もとの信仰を再び
つないで下さっております。
皆さんの姿は、150年前に仏さまをお守り下さった人たちが祈った未来
なのかもしれません。
平福寺にて
この時代に生きて、知ることも、知ろうともしなかったことに関心をもつ。
そんな機会になったと皆さんは言います。
まさにその通りだと思います。
150年前の祈りに応えるように、私たちがその仏さまに会いに行き、
未来につなぐ時がやってきたのでしょう。
古をめぐり、未来へつなぐ。
信仰の深まる、素晴らしいプロジェクトが諏訪で実現していることを
強く感じることができたツアーでした。
いま蘇るのが、仏さまに心を寄せる人の姿であったのなら嬉しいです。
仏法紹隆寺にて
間近に仏さまを見せていただき、とても貴重なお話を聞かせて下さった
各寺院の御住職様方に、みな感激しておりました。
手厚い歓迎に感謝申し上げます。
合掌
第9回こども寺子屋~秋の開催~
毎年夏休みに開催される小学生(中学生サポーター)を対象とした
真福寺こども寺子屋は地元にコロナ感染が拡大していたため延期され、
このたび、秋に開催の運びとなりました。
10月29日(土)、朝9時から15名のこどもたちと始まった今年の寺子屋。
今回は直前に6年生にコロナウィルス感染が広がり、6年生全員とその家族が
皆欠席となり、最終年であったことを思うと残念でありました。
午前中は紙芝居「ブッダの生涯」を解説を加えながら読み聞かせし、
お釈迦様を知ってもらう機会を作りました。
その後、秋らしいレクレーションとして外に出て焼き芋の仕込み。
焼き上がりまで1時間。
その間、初めてプログラムにヨガ体験を取り入れました。
毎月25日、お寺でヨガレッスンをして下さっている、インストラクター北原愛さんの
ボランティアのご厚意をいただき実現しました。
北原愛さんはヨガを通じて体の構造や正しい動き方を学んでこられた指導者。
こども寺子屋ではこどもの体を動かしてあげることをひとつのテーマと常考えて
おりますが、指導力のある方にサポートしていただけることはこどもの意欲を高め、
充実感を増すことにもつながり大変有り難いことでした。
体を動かし、心もほぐれたあとは焼き上がりの芋を美味しくいただきました。
お昼休憩にはカレーライスをいただき、昼寝を挟み午後はワークショップ。
今年も写仏散華づくりに挑戦しました。
自分の選んだ仏様の画を描き、自由に色づけした散華の裏側には、
他界し浄土におられる方(生き物)に向けてメッセージを書き入れます。
想像力を養うために毎年取り組んでいこうとするワークショップです。
今回は涼しい時期の開催なので汗をかかず、最後まで体力が保たれ、
集中力も維持できている印象だったため、本堂に移ってからの座禅の時間を
少しだけ長く設定しました。
16時からの座禅、発心式作法をもって無事に終了。
楽しく安全な寺子屋とするために、毎年こどものお母さん方のサポートをいただきます。
今回はお父さんもお手伝いして下さいました。
このサポートをいただけないことには、安心安全なプログラムと環境を整えることが
できません。本当に感謝でいっぱいです。
こどもが楽しみ励み、身心成長の場となるよう開催する寺子屋活動は、
同時に大人がこどもたちから学び、大人もともに喜び反省し成長する場です。
これこそがお寺が求める地域活動のひとつ。
来年は10回目の記念開催。「お泊り寺子屋」が企画されます。
ぜひ、こどもたちのために保護者さま、中学生のサポートをいただけたらと思います。
そして、その頃にはきっと脱コロナ禍の世となっていますことをあわせて願います。
合掌
ご縁日
18日は聖観世音菩薩のご縁日。
この日は午前9時から観音堂において護摩行をお勤めし、
皆さまには毎月熱心なおまいりをいただいております。
ただいま諏訪の寺院では、諏訪上下社神宮寺由来の仏像が一斉公開されており、
150年ぶりに神仏習合の諏訪信仰に光をあて、歴史を振り返る貴重な機会に、
多くの方が仏さまたちを一目見ようとこの地を巡っております。
真福寺には神宮寺にゆかりある仏さまはございませんが、この歴史的プロジェクトに
参加協力し、諏訪三十三観音第32番札所にあたる観音堂を公開中です。
10月18日のご縁日には、普段の通りに9時から護摩を行いましたが、
この時間に一斉公開の寺院を巡っておられる方々もお越しになり、
ともに御祈願に参列され、一緒に読経をお勤めになられました。
10月1日から約二ヶ月に渡る仏像一斉公開プロジェクトは、
同所に仏像を集める公開ではなく、それぞれの仏さまをお守りする寺院が
その場において独自に公開を進めております。
つまり、周遊式であり、皆様はこの地を自らの足で時間をかけ巡ることになります。
この周遊式がまさに画期的。
公開される神宮寺より離ればなれになった仏さまたちと、各寺院の聖域を「点」とし、
その点を「線」で結んで下さっているのが、いまお寺を巡っておられる方々なのです。
まさに150年前の諏訪信仰がこの時代の人々のご縁によって照らされていると
いう感触を得ております。
遠近問わず、これほど多くの方が熱意をもって仏さまのお姿を求めているのかと、
正直驚きながら、出会えば出会うほど、不思議なご縁と感じているこの頃です。
先人の手より静かに守り続けられてきた諏訪の仏さまたち。
あらためて、明治時代の神仏分離令によって信仰の歴史は大きく変動し、
失われた数々に思いを馳せてみると、この地には奇跡が生じていたのかな、
とさえ思うのです。
時は令和4年秋。この先の100年へ。
合掌
ともに~未来へのメッセージ~
10月1日から11月27日、諏訪圏の寺院にて諏訪上下社神宮寺由来の
仏像等が一斉公開されています。
これに先立ちまして、諏訪大社上社本宮で奉告祭が執り行われました。
諏訪の歴史に刻まれるであろう一日を我々は深い感激とともに過ごし、
そして今月から、諏訪の寺社を巡る多くの方々をお迎えしております。
さて、真福寺は神宮寺由来の仏像を有しませんが、長い歴史のなかでの
諏訪社と当山ならびに先師とのご縁などから、この大変貴重な機会に
参加協力させていただいております。
当山では観音堂を公開しております。
公開マップのはじめに記載があることから、県外の方を中心に先にこちらに
寄っていただいているようです。
はじめましてのご縁がたくさん。
ようこそお越し下さいました、という有り難い気持ちです。
お寺のこと、仏さまのこと、お伝えできることはお伝えし、
何より、この先、多くの寺院と仏さまを巡っていこうとする人たちの
道中が安全であること、そしてご利益多き諏訪寺社巡礼となりますことを
お祈りさせていただいております。
どうぞ、こちらでゆっくりお体を休めていただき、神仏おまいりのよき道へ
ご出発なさって下さい。
古の神仏習合の姿に想いを馳せてという一斉公開の趣旨を、
この先は、ぜひ諏訪の地を巡る皆さまにも共感いただきたいです。
別々とされていたもの、私達がそう決めつけていたもの同士が、
互いを必要とし手をつなぎ、共に祈る。共に思案し、共に築く。
古を見ていまを照らし、いまこの時代だからこそ生まれた
未来へのメッセージではないでしょうか。
合掌
真言宗智山派青龍山真福寺
10月1日~11月27日
基本平日のみの公開です。
おまいりの前に連絡を下されば、副住職がご案内させていただきます。
なお、土日祝日に希望の場合は一度電話でご相談下さい。
寺宝展示中
檀徒であられた故・片倉兼太郎翁より大正10年に寄進された
「雙龍一面額」をご覧いただけます。
☎0266-23-6156
秋彼岸境内清掃
9月25日(日)、午後2時より恒例の日曜仏教会を開催。
今月は境内清掃を行いました。
寺の役員様、檀徒の方々がつどい、本堂で秋彼岸供養をした後、
境内で日頃から手入れが後回しになってしまっているところ、数か所に
分かれて約45分の作業。
いまは高速社会と言われ、求める情報を早く得る、また選ぶことができ、
そして多くの人と人が、遠く、速くつながることが叶えられる時代。
しかしながら、いざ「人が集う」ことを求めると、中々どうして難しいと感じます。
人が集い、助け合わないと出来ないことは、時代が変わっても身近にいくらでもあり、
実際にそのマンパワーをリアルにお借りすると、「有り難いこと」と心から思えます。
日常で杖をついているようなご高齢の役員様が作業着を来て
お越し下さったことに恐縮しました。正直驚きました。
他の役員様が心配し、無理しないで、「監督」しててください、
と声をかけると、その方はこうお応えしました。
「やらねえんだったら、来ねえわ!」
胸の熱くなるお言葉でした。
毎年の節目のおまいりを欠かさず、長きに渡って当山をお支えして
下さっている方であって、いまもその気持ちに変わりないことを、
ひと言で示して下さった気がします。
短時間で随分と綺麗になりました。
植木の剪定までして下さった方、ほうきが使えない場所の落ち葉を
手で広い集めてくれた親子、様子を撮影してくれた役員様。
人が集い、負担を分け合うように協力する姿は、やはり尊いことです。
仏教の教え、「布施」。分かちあい、助け合いの心。
これは先祖供養に通じる尊いお気持ち、行いです。
ありがとうございました。
分け合うことで増えていく幸せがある。
時代は変わっても、このことは不変です。
合掌
お墓には生がある
高尾霊園に出向き、草刈りなど整備作業をしていると、時々お墓参りの方と会います。
お話をしながら、私はこんなことを口にしました。
「聖地を分譲していても、新たに墓を造立しようと求める方はなかなかいない。」
「家墓を終い、聖地を還して永代供養墓に改葬を考える方が目立ってきた。」
この直後に愚痴が続きます。
「止まらない人口減。後継難。
土地に空き区画ばかり抱えても、そこには草しか生えてこない。」
「放置できずに草刈りは増えるばかり。どうしたらいいんでしょう。」
答えなどそこに出ないとわかっていても、ついこんなことも話してしまうのです。
その方に向けて話を切り替えました。
「お忙しいのにいつもお墓を綺麗にされていて、先代さん喜んでいるでしょうね。」
その方は、こう話して下さいました。
「たまにしか、来れないよ。」
「でも、たまにお墓にくるようになって、お墓まいりもいいもんだなって思う。」
「小さい頃は怖いイメージしかなかったけど、いまは気持ちが落ち着くところだよね。」
素敵なお言葉を聞き、清々しい気持ちになりました。
そう、お墓とは、「たまに」訪れるところなのかなと。
ここでいう「たまに」とは、自分の日常とのつながりの証ではないでしょうか。
私はこう思っています。
お墓は「死」があるところではない。「生」があるところだと。
死という事実があるのは確かなのだけど、向き合い続けているのはそこではない。
そこに眠る人の生に向き合い、自分の生とつながる場所なんだと。
つまり、お墓を参る、お墓を綺麗にするとは、自分が生きる実感、
生きる力と結び付くことなのです。
私は墓地を管理する立場にある者。
たびたび草刈りばかりに通っては、気持ちよい汗と一緒に、具合の悪い愚痴が
同じくらい出そうになることがあります。
それでも、こうしていろんな方の「生」と向き合うことが出来ているのですね。
墓地の問題に対して、将来的、長期的視点はもちろん大切ですが、
決して、いまも無駄ではない。
合掌
高尾霊園に植えた彼岸花がいくつも伸びてきています。
あちこちに植えてありますので、お参りの際、気にして歩いてみて下さい。
秋彼岸に向けて、これからが見頃です。
「仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し」
(『般若心経秘鍵』―弘法大師)
仏さまの前まで
ある日の午前中のこと。
観音菩薩を見つめて、ひとり佇む参拝者。
観音堂のなかにすごく溶け込んでいるように見えました。
話を聞いてみると、そこはとても気持ちが落ちつくそうです。
お寺に勤める者は、日頃庭や参道に出て外仕事をするべきだと思います。
なぜか。
仏さまとの橋渡しをすべき人に出会うからです。
それが大切な僧侶の役割のひとつであるから。
通りがかり参道遠くから、手を合わす方が多くおられます。
その先に進みたいと思っても、見えない「分厚い壁」があるように思います。
私がタイミングでその方に会い、仏さまの近くまでご案内することができると、
次はその方と仏さまとの出会いが待っています。
その出会いの先のひとときに生まれる「心の揺れ」がすごく大切なのです。
この寺で毎朝お勤めをする私は、この「揺れ」に幾度と救われてきました。
だから、皆が感じる分厚い壁のこちら側に向けて架ける橋は必要なのです。
そして、人の求めることはそれぞれなので、ご縁となる入口はひとつでなくてよい。
仏さまとの出会いにつながるのであれば、入口はどっちを向いていてもいい。
その日おまいりの方は、フルートの演奏者でした。
コロナ禍に入り、大勢の人を前にするコンサートの機会はほとんど失われたそうです。
新しい発信、演奏活動の形を模索しながらいまも続けているなか、
ある日、人に馴染みのない曲を選曲し演奏したことがあったそうです。
聴衆の方は、少なかったのだとか。
もしかすると、その時の自分の心が求めた、自分らしい表現だったのでしょうか。
それがご本人にとって、「いままでで最高のフルート」と感じたそうです。
コロナ禍の変化のなかに生まれた最高の演奏。
絶えず続けていることで出会えた自分。
仏さまのものさしは、喜びや悲しみ、満足と不満、両極にあるものの間に
差別や壁をつくっていません。
悲しみのなかに生まれる、最高の演奏を知っている。
当然、楽しみのなかにもそれがあることを。
仏さまの前では笑っていい、泣いていい、教えに逆らい怒っていいとも思う。
その場で向き合う時間が過ぎれば、やがて心は穏やかに揺れ始めるから。
そして、またそれぞれの求める出口から日常へと歩むのです。
合掌
真福寺本堂
御本尊 阿弥陀如来 右脇 大日如来 左脇 不動明王
夏の終わりの風物詩
6月、驚きの早期梅雨明け宣言に始まった今年の夏。
すぐに全国的に猛暑日が連日記録され、その先も暑く、そして長い夏になる
だろうと、体調に不安を抱いた夏の始まりでありました。
あれから2カ月近くになります。
やはり、時が過ぎるのは早いものですね。8月もお盆を終えました。
おかげさまで例年通り、夏の法務をこなすことができ、今頃になって体に溜まった
疲れを自覚し始めた頃、辺りは秋の気配が漂っていることに気づかされます。
陽が短くなり、見上げればすっかり秋の空になりましたね。
8月16日、送り盆の日の夜、岡谷では送り火法要が初開催されました。
一昨年に幕を閉じた灯ろう流しのご供養を岡谷市仏教会が受け継いで、
新たなかたちで営んだ先祖供養です。
また、同会場で3年ぶりに岡谷花火まつりが開催されました。
湖上に浮かぶ精霊船
以前のような灯ろう流しは出来ませんが、読経が始まると故人を送る精霊船が
諏訪湖を流れて往きました。
また、会場に飾る故人のご戒名が筆入れされた灯ろう供養の数は80基、
お焚き上げ塔婆供養の数は、昨年の送り盆法要で申し込みを受けた分も加え、
500近くにもなり、時代とともに形は変わっても、変わらない心があることを
ここに感じました。
法要後には諏訪湖上に花火が上がりました。
あいにくの雨天でしたが、大勢の皆さんが傘をさしたまま空を見上げ佇み、
岡谷の夏の風物詩がやっと戻ってきたことを実感した夜でした。
この日の花火は、いろんな人がそれぞれの思いをもって観ていたことでしょう。
岡谷を故郷とする地元の方もいれば、おそらくコロナ禍に移住してきた方もいる。
家族を亡くし、この夏が寂しいお盆となった方も多くおられたはずです。
昨年夏の自然災害に心痛めた方もおられたのかもしれない。
ある方が投稿されたSNSを拝見すると、このような言葉が添えられていました。
「花火があがったとたん涙が溢れた。傘さしていないことも気づかず。」
「このまつりを主催運営する人たちの懸命な気持ちが伝わってきた。」
3年続くコロナ禍に、生活がガラリと変わり、私達が失ったもの、
あるいはこれからさらに失ってしまいそうなものもあります。
そんななかで、大切なものを取り戻そうとする方たちがおられるのですね。
自分の育った故郷を愛し、その魅力を再び分かち合おうと奮闘する方たちが
おられるからこそ、人は感動に気づき、心の傷さえも癒されたのかもしれません。
お盆とは何かの問いに、
自分のご先祖に感謝する時、という言葉を昔から多く聞かされてきました。
それとともに思うことは、
我々は人に対して「優しさを取り戻さなくてはならない時期」に
あるのではないでしょうか。
コロナ禍に生じた争いは、いつか空虚となるであろうことに気づき、
早く優しさの実感や距離感を取り戻したいと思うのです。
例えば、あの日の雨に濡れた頬をつたう涙に気づいてあげられるような。
例えば、花火の音に隠れてつぶやいた言葉の意味を一緒に探してあげられるような。
今年も夏が終わります。穏やかな秋の訪れに、これから小さな感動にいくつも
出会えるよう心を澄まし、希望をもって過ごしてみませんか。
合掌
ロウソクの灯り~古式の写経~
毎月末日に行っている晦日キャンドル写経。
6月は遠く東京からお越しになった方がいらっしゃり、写経を終えたあと、
本堂にお参りしながら、色々と今日に到るまでのことをお話下さった。
秘めた思いを外に伝えることは、誰でも勇気や覚悟が必要であると思う。
きっと、この方にとって、他人に胸の内を明かす前に、まずこのお寺の写経道場に
身を置き、写経を通じて自身と向き合う時を必要としていたのだと感じました。
毎月21日朝の写経会の他、月末の夜、寺の和室にロウソクを灯し、
荘厳な空間において写経を実施するようになり10回目となります。
このキャンドル写経は、取り組んだ人それぞれに受け取り方があって、
この場に手放してゆく気持ち、何かを感じとって持ち帰っていく気持ち、
皆様々なのだとわかるようになってきました。
7月の晦日は、辰野からお一人で参加された男性が、写経を終えたあと、
こんなことを話して下さいました。
ロウソクの灯りを見ていることが気持ちよかった。
「一定じゃないんですよね。揺れたり、伸びたり、かと思えばしばらく止まっていたり。
ロウソクの灯りって、見ていてこんなに気持ちのいいものなんですね。
ああ、自分も一緒だなって。」
この方にとって、ロウソクそのものが非日常。
ましてや、ロウソクの灯りだけの部屋で写経に筆を走らせることなど、
日常には有り得ないわけです。
ロウソクの灯りは、身心ともに効果を感じとることができます。
この方の言うとおり、その灯りは留まることなく、
揺れては止まり、伸びては戻り、不規則な動きを見せます。
それは、心に優しく染みていくようなとても穏やかな動き。
このロウソクの揺れ動きを見つめ、不思議と人の心はほぐれていくのです。
ロウソクの灯りだけを頼りとして勤める古式の写経。
その灯り以外は何もないところで、手元の文字だけに心を集中していきます。
ロウソクの灯り以外に何もないところに、ひと月の心の垢を落としていきます。
私は、手放したい感情があれば、ここに置いていってほしいと思っています。
感謝を表したい時は、経文一字一字に心を映すことに専心すればよいと思います。
心に痛みあるときは、経文とロウソクの灯りがきっと癒してくれることを願っています。
その方は最後にこうおっしゃいました。
ロウソクの「火」はずっと見ていられますね。
私もそう思います。
火も様々。人を恐怖に陥れる火もある。
写経道場に灯された火はどうか。
この火は、人を「安心あんじん」に導いてくれるご本尊様の見守りの灯りです。
そして、そのもとにある経文も。
仏さまに見守られるように写経の修行に勤め、それをご本堂にお納めいただく。
夜のお寺にひととき心を休め、心を潤す晦日まいりが、明日から新たな月を
歩まんとする人たちの「発心」の一助となれば幸いです。
合掌
毎月末日19時より (無料)
参加したい時は事前にお申し込み下さい。
当日予約も可能です。一人でもご希望の方がおられれば開催します。
写経内容:理趣経百字偈 (所要時間 約30分)
早朝ヨガ
暑い夏場は、まだ涼しい朝の過ごし方が重要です。
このたび、暁天ヨガと称して、23日、24日の両日、早朝ヨガを本堂で
行ないました。
毎月25日の夜7時から茅野市のtheBIRTH&daysより北原愛さんに
お越しいただき、多くの方が通いお寺ヨガのレッスンを楽しんでいます。
7月は一転、目的を「朝活」に変えて、早朝6時30分から実施しました。
皆さん、日頃、この時間帯は慌ただしくされているかと思います。
休日であれば、まだお休みになっているかもしれません。
清々しい本堂に外から吹き込む朝の風を心地よく感じながら、たっぷりとご自身のために
健康的な時間を注いでほしいと願ってのこのたびの企画でした。
インストラクター北原愛さんによるとても優しいヨガレッスンを40分。
ヨガに通う皆さんが好きだという、愛さんの綺麗な声が本堂から境内に響いていました。
さらに内観を深めてもらおうと、ヨガのあと瞑想(数息観)を10分取り入れました。
瞑想体験をしていただくには、時、場所、流れ、十分に整った環境であったと思います。
本堂の天井は高く、開放的。
ヨガマットに横になり、体を伸ばしている方がとても気持ちよさそうにしているのが、
印象的でした。
非日常から始まった、ある夏の一日。
心も体ものびのびとして、十分にほぐれ、すっかり目覚めにシフトされました。
皆さんにとって幸せの種がひとつ蒔けた一日であったのなら嬉しいです。
お帰りになる頃には、太陽はだいぶ上がり、境内の蓮も綺麗に開いていました。
合掌
【真福寺のヨガ】
8月から通常通り、毎月25日夜7時から1時間。
8月は「夏の終わり企画」を用意しています。
こども無料。親子ヨガを応援します。
皆さん、お帰りの際は、寺の境内で夜風にあたって花火をどうぞ。
インストラクター 北原愛さん
蓮の花が咲きました
今年の夏の第一輪目、大賀蓮の花が咲きました。
朝から花粉を集めに蜂がやってきます。
顔を近づけると、とてもよい香りがして、なんとも心地よい。
蓮の花は朝に開き、午前のうちは咲いていますが、徐々に閉じてゆきます。
そして3日目には散ってゆきます。
次から次と蕾が出てきますが、高貴な美しさゆえ諸行無常の儚さも感じます。
境内には他に小舞妃、孫文、即非連の蕾が伸びてきています。
少々元気がなく、成長が心配なのが白蓮。
今後も成長を観察していきます。
気軽にお立ち寄りいただき、花、蕾、大きな葉の様子をご覧ください。
水の中を覗けば、めだか達が泳いでいますよ。
フローラル系の蓮の花の香り、一度嗅いでみて下さい。
時を忘れるようなリラックス効果があるそうです。
日が昇る 蜂に誘われ花香り 鐘を忘れて 朝飯を待つ
スミマセン合掌
わずかな場所で
夏休みに開催されるこども寺子屋は、小学校児童の定員35名に達したため、
受付を締め切らせていただきました。
今年の夏は猛暑続きのようで、何事も体の安全、日々体調管理が第一です。
皆様、水分補給、栄養補給、十分な睡眠を心がけて下さい。
7月を迎えました。今年もはや下半期に突入します。
今月の言葉の力は、
『時間 空間 いまいる場所はほんの一部』
としました。
私がいる場所。
過去、現在、未来の時間軸においても、十方果てない空間を軸においても、
極々わずかなところです。
逆に、私がいる以外の場所を計り知ることはできません。
その計り知れない世界から、このわずかな所へ縁が働いているのですね。
そのほとんどが目に捉えることができず、感じとれるのはこの心だけでしょう。
自分は何かの役に立てているのか、
という「ものさし」は大切ですが、
私は、それよりも大切にするものさしがあると思っています。
それは、
「自分は元々これほどちっぽけな存在なんだ」
と知ることです。
この考えは決して諦めとは言わず、「明らめ」と言います。
響きは等しくても、表現に用いる字で印象は違いますよね。
そう、明らめることは、ポジティブな仏教概念なんですよ。
今日生きている尊さや不思議さに結びつく本質的なものさしでありましょう。
で、あればこそ、
これほどわずかな場所にいながら、そのうえ不平不満ばかりでは寂しい。
明らめた心で、日々の暮らしを喜びに捉える方が、きっとよい方向へ向かう。
ご縁とは、そのような仕組みになっているとお釈迦様も祖師も仰っています。
このわずかな場所で、このひと隅を照らすように、自分にできることを努める。
天台宗の宗祖最澄上人は、
「一隅を照らす」
という言葉を残されました。
一隅を照らす運動がやがて大きな灯りになり、世を照らすのだそうです。
あたりまえのことのようですが、この実践こそ精進と感じています。
「このわずかな場所で、『明らめ、明るく』生きてゆくこと。」
合掌
境内は蓮の蕾が膨らんできました。
お立ち寄りの際には、ぜひ蓮の様子をご覧下さい。
夏休み寺子屋参加募集開始
朝4時、目が開くと、いつもなら部屋の家族は皆寝ており、
私は静かに動き出すのだけど、今日は気配を感じる。
ふと見ると、薄暗い部屋の端で長女がニヤニヤ笑っている。
普段はどれだけ声をかけてもなかなか起きようとしない娘が。
楽しみで、早くから目が覚めたらしい。
そう、今日は小学校のキャンプ出発の日。
自分にもこんな時があったかな。
大人になれば、朝が楽しみでの目覚めなど、そうはないものだ。
僧侶の生活習慣で早起きが身についている私だって、目覚めの朝に
にやけ笑いしたことなど一度もないのではないか。
こどもは純粋でいい。
きっとその日が素晴らしい一日になることを朝から確信しているのだ。
いや、おそらく前の日に眠る前から。
コロナ禍でこども達の活動がなにかと制限されている。
小学校で一度きりの修学旅行やキャンプなど。
それでも満たされることを期待しているのだな。
よい思い出を作ってほしい。
お寺でも、地域のこども達へ記憶に残る時間をつくってあげたい。
今年の夏休み、お寺で三年ぶりに一日の日程に戻して寺子屋を開催する。
夏休みの朝、今日はお寺に行けるぞと、目覚めに笑ってくれる子はいないだろう。
せめて、寺子屋に参加した日の夜には、今日は楽しかったと家族に話し、
でも疲れたと日記に書き、余韻のなかぐっすりと眠りにつけるようにしてあげたい。
私もいい年になってきた。
毎年の寺子屋はこども達との体力、気力の勝負だとも思っている。
今年の夏も楽しみだ。
7月25日、一緒にお寺で過ごそう。
合掌
(詳細は新着情報をご覧ください)
昼食後、お昼寝をするこども達
シニア大学皆様の非日常体験
このたび、長野県シニア大学第35期同期会の皆様がご来寺になり、
写経と念珠繰り(ぐり)を体験されました。
玉の数540個の大念珠を念仏を唱えながら回す念珠繰り
本堂で行った念珠繰り祈願では、ご自分のこと、自分以外のことに想いを馳せ、
願いを込めお念仏を唱えながら、木魚の音に合わせて大きな念珠を回しました。
客殿で行った写経では、理趣経百字の偈のお写経を体験しました。
私は驚いたのですが、ほぼ全員がお写経初体験でした。
皆さん、非日常において緊張のひとときをお過ごしになりましたが、
同時にどこか心地良さも感じていただけたのではないでしょうか。
ひと通りの体験を終えると時刻はお昼の12時前。
その後はほっと一息、客殿でランチを楽しまれました。
たくさんの笑い声が聞こえ、こちらも嬉しくなります。
最期にスタッフの方が御礼を述べられる際、お言葉に添えて
このような句を詠んで下さいました。
『梅雨入りて ため息ひとつ 写経かな』
現役を過ぎたあとも、一緒に学び励み、語り合える仲間がいる。
そんな皆さんのご様子を、私はとても羨ましく思いました。
皆さんにとって、有意義なお寺体験となったのであれば幸いです。
合掌
追伸
この日記をご覧のみなさま、お寺で体験してみたいことはないですか?
日常を少しばかり離れ、お寺で過ごしてみたくないですか。
気軽にお問い合わせ下さい。
花に通う心
花のお寺になるといいね。
そう言って下さる方が、蓮にはじまり、モミジアオイ、ヨルガオ、
夕すげ、彼岸花など、たくさんお寺に届けて下さいます。
とても花がお好きなのだそうです。
春は〇〇が咲いて、夏は〇〇があるよね、秋になると〇〇が咲くでしょ。
あと、〇の季節に〇〇なんかあると、またいいよね~。
優しいお顔で、この寺を彩る花の様子を想像しながら話して下さいます。
自分に関心をもってもらえることって、誰でも嬉しくて励みになるんです。
いまの私の場合、自分にではなく、それはお寺のことを指します。
京都から帰り、一田舎のお寺に入って感じていることは、行事などでお寺に通い、
お寺の今後を気にかけてくれる方が身近にいることが、とても有り難いということ。
人の集う、活気ある総本山に勤めていた頃は、そんな気持ちが薄かった。
さて、花のことですが、
いただいたお花を植えようとしても、なかなか好条件が整った場所が
境内に見つかりません。
実は昔から、様々なものがあちこちに植えられていて、混在状態なのです。
それでも、良さげな所にスペースを見つけてひと通り植えました。
花の知識がなく申し訳ないのですが、これは楽しい作業ですね。
気づいたことは、自ずと「他人の目線になって」植えていたことです。
花に対する人の導線、目線、距離。
また、時間帯やシチュエーションから目に入るであろう花を想像しながら。
些細なことですが、この気づきは私にとって、とても良かったことなんです。
花に学ばせてもらったと言うと大げさでしょうか。
仏教が花にも例えられることに合点がいきました。
花に触れることが心を豊かにするということもわかってきた気がします。
花が贈り物の代表としてあるように、花には人が心を通わせます。
まったく人気のない山のなかにあるこの寺の発祥地に彼岸花を植えて下さった
檀家様の気持ちも、慈悲深き温かなお心であったに違いありません。
いつも通う道に控えめに咲く小さな花にも、誰かが思いを寄せているかもしれない。
喜びの花かな。それならよい。
悲しみの花かな。それはそれでよい。
人の心を受けとめてくれる寛容な花たちよ。
合掌
春季密厳講~寺平まいり~
新緑のエネルギーの満ちる5月8日午後、寺の発祥地高尾山麓寺平を
お檀家様をはじめとする皆様方とおまいりしました。
穏やかな山中をこどもたちやお檀家様の愛犬もともに、にぎやかに登りました。
いつも一緒におまいりに励んで下さるお檀家様の植えられた彼岸花が、
昨年、2年越えの時を経て花が咲いてくれました。
この春は祖師像のお傍に福寿草を植え、お供え下さいました。
今回は最高齢89歳の檀家様も参加いただき、無事おまいりを成満されました。
みんなと一緒に自然のなかを歩くことで、とても幸福感が高まります。
祖師興教大師へのおまいりが目的ですが、道中の草花や山菜などが目に入り、
周囲をあちこち見渡すことを楽しみ、マイペースに寄り道もしながら歩いていくことで、
とても穏やかな気持ちになり、そして心が清んでいく気がします。
あらためて、感謝の気持ちを祖師にお伝えすることができます。
私の妻がおまいりを終えてこう言いました。
「広々とした野外の清々しさによる気持ちの変化もあるのだろうけど、
開放的になり、初めて会う人とも接しやすい。」
なるほど、確かにそのとおりだなと思います。
それに加え、私は皆さんと山に入ることについてこのようにも考えています。
『自然のなかに入ることで、人はその一部であるという本来の姿が現れる。』
つまり、他人にも同じくその自然の一部を感じ取ることができ、
人を仲間として親しみやすい環境が生まれるのではないかと。
これは、一例として野外キャンプなども同様かなと思います。
近年、寺平周辺に道が拓け、ここに関心を持って下さる方が少しずつ
増え始めたおかげで、檀家交流、地域交流の機会が生まれ、
身近なところにおまいりの道が出来つつあります。
他界された先人達の古道に命が吹き込まれていくようで有り難い思いです。
次回は秋季密厳講。
10月の日曜仏教会で皆様と集っておまいりしたいと思います。
この場所を一度訪ねておきたいという方は、ぜひお声かけ下さい。
故郷の山をあらためて感じながら、きっとよいおまいりになりますよ。
合掌
お寺でヨガ~夜桜を眺めながら~
真福寺では、毎月25日夜7時より1時間、ヨガを行っています。
世界中でヨガが普及し、日本のヨガ人口は800万人を越えると言われており、
個々の目的は、健康、美容、メンタルと様々ですが、これだけ多くの方に需要があり、
その確かな効果も認識されていることから、ヨガはこの先も広い世代にポジティブに
受け入れられ、より身近に広がっていくことが想像できます。
さて、昨今お寺はというと、身近な存在とは言えなくなり、どこか近寄り難い。
しかし、一度この非日常に足を踏み入れたならば、不思議と心の安らぎを得る。
これを私は「場の力」と考えます。
なぜお寺でヨガをしたいのか。
人は場のエネルギーに敏感で、その場に順応する為のセンサーのようなものがあります。
荘厳なお寺の空間は、人を一度立ち止まらせる不思議な力が働き、自分の内側を
見つめる時間を過ごすには大変適しております。
ヨガは自分の体のみならず、潜在意識や心の面にもアプローチしていくものなので、
お寺の環境やそこに流れる空気とヨガの相性はとても良いのものと想像しておりました。
お寺までヨガに来られる方の目的は様々ですが、この場で仏教の言葉に触れても
大きく違和感を感じることはないでしょう。
仏教を知る機会ともなるよう、布教環境も整えたいと、この場に期待するのです。
近くのお寺でヨガができるのであれば、自分も通えるかな。仕事帰りに寄れるかな。
ヨガを目的としてお寺に来たならば、葬儀、法事でしか入ったことのない静かな本堂で、
ゆっくり自分の呼吸を確かめ、手足を大きく広げ、気が付けば心と向き合えている。
場の力が大きな「付加価値」を生み、体も心も楽になり幸福な気持ちにさせてくれる。
皆さんは普段、これほど仏さまと長く過ごすことはない。
自然と心にもアプローチ出来て、手を合わせ、おまいりするのにもハードルは下がる。
いつか、非日常が日常と思えるほど、お寺ヨガが身近なものになればよいと思う。
仏さまのもとで多くの人が自分の体を労り、心の面で許され、癒され、解き放たれ、
明日に向かう活力をもってもらうこと、自愛の場として広がることがお寺ヨガを主催する
一番の願いとなっています。
このたび春の枝垂れ桜ライトアップの最終日、初めて庭に出てヨガを行いました。
美しくも儚いピンク色の夜桜を眺めながら。
暖かくて風もなく穏やかな夜でした。
空には星が見え、体には石畳のぬくもりを感じ、自然に身を委ねたヨガは、
その効果が一層体に染み、この心をほぐしてくれたように思います。
おかげさまで、松本、伊那など遠いところからお越し下さる方も増えてきました。
有り難いご縁をいただき、熱心に毎月通われる方も多くいらっしゃいます。
これから先も、心を込めて皆様を迎え入れたいと思っております。
合掌
月例行事名:真福寺てらよるヨガ
毎月25日19時~20時 本堂にて
参加費500円(年度初回参加時1,000円)
定員25名
毎月申込み制
灌仏~ほとけさまに出会う~
お釈迦様のご生誕をお祝いする花まつりが行われました。
仏教伝統行事である花まつりでは花御堂を飾り、誕生仏(お釈迦さま)へ
甘茶をかける作法があります。
なぜ甘茶?なぜこんなことをするの?なぜこんなお姿?
非日常のお寺において、さらに非日常の様相や習慣に触れた際に感じる、
心のなかの「なんで?」に対して話に触れ、お釈迦様を知るきっかけとなります。
お釈迦様ってどんな人?
今回、このお話をするために紙芝居を用意しました。
『お釈迦様の生涯~前編~』
まずは出家するまでのお釈迦様のことを知ってもらおうと、
副住職が初めて紙芝居をいたしました。
まずは「実在した人」なんだということを認識していただくことが欠かせません。
後編が気になる方もいらしたと思うのですが、時間の都合上ここまで。
後編は、この夏の寺子屋で読むことにしております。
近頃意識するのが、お釈迦様のいない今の世の中にもその教えは生きているけれど、
しかし、日常に色褪せているという現実です。
お釈迦様の教えは、苦に向き合う処方箋であり、現実を生きるための教えです。
あらためて、「生きるための仏教」として捉えてもらうこと。
お経を読み、聞き、書き、それが自分を励ますことに通じると知ってもらうこと。
そのための解説や布教活動がこの先に欠かせない僧侶の課題となります。
春の花まつりと冬の涅槃会は、ほとけさまに出会うためのまさに好機です。
寺院では未来に大切につながなくてはいけない仏教行事。
仏教徒としてまことに明るい機会です。
花まつりの行事を楽しむなかで、命の尊さを知りこの身を正すというのが、
ひとつ仏教の前提として用意されています。
行事のなかで健やかに暮らせますようにと願い、
きちんと姿勢を正して合掌します。
手を合わせる、ここがシンプル且つ重要です。
お経はみんなで読みたいですね。
みんなで声を出して、自分の励みとしたいですね。
そして合掌の心、その姿は陰を作らないほとけさまのかたちです。
「合掌の心ってなんだろう???」
この合掌の心が因(種)となり、人はほとけさまに出会います。
さて、私たちの日常にある合掌の機会とは・・・。
暮らしのなかによい種をひとつ、またひとつ。
合掌
花まつりと写生会
4月8日はお釈迦さま御生誕の日。
仏教界において三仏忌として崇められる一日です。
真福寺では今月24日(日)に灌仏会を行います。
今年も花咲く時期に「布教メッセージ散華」を書き始めました。
散華をお渡しできる機会は、4月24日(日)の花まつりと、
今月、枝垂れ桜の夜間ライトアップ期間中です。
さて、今年の花まつりはいまだコロナ禍にあり、「沈黙」をテーマに
何か行ってみたいと考えていました。
なんとなく暗いテーマですが、沈黙から生み出されるエネルギーが目的です。
それは写生会。
自分の好きな角度から自然を眺め、その命に溶け込む時間をもつ。
何やら難しいことを述べてますが、このご時世でこその目的です。
京都の智積院に努めていた当時、宗教界、仏教教学の第一人者であられた
化主猊下(2011年1月ご遷化)のお傍に侍者として仕えさせていただいた
時期がありました。
御年八十の猊下は時折、公務の合間にスケッチブックを手にしてお出掛けになり、
お気に召した場所を見つけては腰を下ろし佇み、静かにその風景、
対象を描いておられました。
私は邪魔にならないように後ろの方でこ様子を眺めながら、
同じく描く時間をいただきました。
猊下は時々手を休め、お話を聞かせてくださるのです。
ある歌人の話、高野山に居られた当時のことや幾度と旅したインドでのこと、
戦時中のこと、そして猊下の故郷である諏訪、岡谷のことなど。
近くを通りがかる人達は、猊下の絵が目に入ると立ち止まるのです。
猊下の周りに人集りが出来てしまったことが何度もありました。
京都内、高野山、様々なところに足を運ばれる猊下にお供させていただき、
それほどに人を魅了する絵画の数々が、猊下のスケッチブックには収められていました。
対象に向き合う猊下のお背中は、悉有仏性や諸行無常を悟り、あるがままの自然
あるいは建築物に調和し、「対話」しているかのようだったと記憶しています。
それは僕にとって宝と思えた時間の記憶です。
いまだコロナ感染症収束への出口が見えないなか、
お寺には「動と集」の働きかけは出来ませんが、
いつでも「静と個」に光があたる居場所があります。
春の境内で写生会をしませんか。
今月24日(日)14時からの花まつりのなかで行います。
絵の得手不得手を気にすることなく、お好きな場所を探して
自由に描いてもらえたら嬉しいです。もちろん堂内もOKですよ。
(スケッチブックなど必要なものを各自持参)
興味ございましたら、電話にてお問い合わせ下さい。
ささやかですが花まつりのお土産をご用意しております。
(☎0266-23-6156)
外は香り優しく豊かに彩る季節を迎えております。
お出掛けして、春の風にあたりましょう。
合掌
春休みにお寺でキッズヨガ
3月の日曜仏教会では、未就学児から小学生までを対象とした
第2回キッズヨガが開催されました。
インストラクターは、昨年同様に、毎月25日夜の寺ヨガでレッスンして下さっている
北原愛さん(theBIRTH&days-茅野市)をお招きしました。
クラスは小学3年から6年のミニヨガクラスと未就学から小学2年の
じぶんのからだあそびクラスに分かれ、ヨガの時間の一方では、色々な野菜を
使った野菜スタンプで絵ハガキのデザインに挑戦しました。
こどもたちの春休み。
コロナ禍で自由に出掛け集まって遊ぶ機会が減り、家で過ごす時間が多くなって
しまっているこどもたち。
運動の不足が気になるところです。
お寺の非日常空間において体を動かしたことは、大いにリフレッシュになったのでは
ないでしょうか。ヨガはこどもの身心両面の発育を助けるものとしても浸透し始めて
いると聞きます。この先もこどもたちに向けて、ヨガの効果と寺環境を融合させた
有効な機会を提供することで、お寺を活かすことができればと考えています。
片方のクラスがヨガをしている間は、野菜スタンプを使った絵葉書をつくりました。
野菜選び、色選び、すべて自分の自由な発想でデザインを楽しみました。
単純な遊びですが、想像を膨らましながら夢中に取り組んでいる様子でした。
広い本堂でのヨガの運動と客殿大広間での野菜にふれた絵づくりに、
こどもたちの体と心がほぐれたのなら嬉しいです。
ヨガインストラクタ-北原さんは、小さい子のクラスで体を使って動物を表現することに
挑戦させたところ、こどもたちがみんな手をあげてそれを披露してくれたようで、
こどもの自主性を感じ取れた明るいレッスンになったと言います。
上のクラスの子たちは、多少ハードな動きが加わり、疲れたという感想がありましたが、
普段と違ったアプローチで体が刺激され、きっと全身が目覚めたことでしょう。
こどもたちの春休みはしばらく続きます。
安全には十分気をつけながら、外の空気に触れ体を動かして遊んでほしいと思います。
早く世界のコロナ感染が収束し、日常でのマスクを必要とせず、人が不安迷いなく集い、
そして、こどもたちが互いの表情を見ながら遊べる日が戻ってほしいと願うばかりです。
合掌
座布団
客殿と本堂脇間の押し入れには、200枚近い座布団が収納されています。
20年前のご葬儀、法事の参列者には、まだこの座布団が使われていました。
同じく、その後のお斎食には客殿大広間に座布団が並びました。
平成10年代後半には、お寺のご葬儀、法事はすべて椅子席に変わり、
最大200席も用意できるようになりました。
そんな変化が進むなかにも、客殿でのお食事の席では、まだ座布団が使われていた
ように記憶しています。
平成20年代半ばになると、客殿もすべて椅子席へと移行していき、
平成時代の終わりには、当山において座布団を用いる機会がほぼなくなりました。
唯一、座布団が残るのが、我々がお経を唱える席のみです。
葬儀等の参列の際は椅子がいいけど、語らう食事の席は座布団が落ち着くんだよと
仰られる方もなかにはいるのですが、コロナ禍になると、葬儀法事後の会食の設営は
ほとんど要望がなくなり、全体的な参列人数そのものが激減してしまいました。
今後、参列人数が以前の状態にまで戻るということが、どうも想像がつきません。
ましてや、客殿広間をいっぱいに使った大人数の会食の席があるとも考えにくい。
押入れを開けると、役目を終えた多くの座布団たちが寂しく重なったまま・・・。
必要とされる機会を生まない限り、おそらくそこを出ることはないでしょう。
何かよい活用の仕方はないものでしょうか。
時代を懐かしむように座布団に落ちつける場を作りたい。
合掌
共感の輪
『神仏の命のなかで何をしてくれてる!』
ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻。
日常を奪われ、命を奪われ、日夜恐怖に怯えるウクライナ住民の姿を知り、
侵攻する側はどんな感情、どんな判断をもってこれほど悲惨な暴力を犯してるのか、
と、非難の思いをもつのは当然のことでしょう。
しかし、根本的なその原因、因果関係を私は知らない。
なぜ、こんな一方的な軍事圧力がかけられているのか。
その背景を知らない私は、新聞やらインターネットやらでそれを調べてみます。
ところが読んでみても、歴史的背景などがこの頭に入ってこない。
知らない言語や各国事情、複雑なしがらみが多すぎて理解まで至らない。
なにが言いたいのかというと、自分が物事を知らなすぎるということ。
自分がいかに学びを怠り、教養が浅く、世間に無知であるかを痛感します。
人や他国を非難すると同時に、「我が身を恥じる」瞬間がここにあります。
それでも、人は「共感」する生き物。
やはり、人が恐怖に壊されていく様子は見ていて胸が痛む。
この大地は神仏の命、神仏の器です。
こんな破壊の仕方はありますか?
そこに生きる人達は神の子、仏の子です。
無差別に傷つけ命を奪うことはありますか?
人はいままでも「自分の都合」を神仏に祈ってきました。
しかし、世の平和を神仏は叶えてはくれません。
平和だけは、家庭も、学び舎も、地域社会も、国家も、世界も、
人と人にしか創造することができません。
そして同様に人が壊します。
私は無知で微力であり、世の平和の為に影響力をもつことは難しいです。
ならば、一隅を照らし、祈りましょう。
日頃から、折に触れて神仏に頼る大勢の皆さんがいるはずです。
等しく共感し、祈ることをしましょう。
この世は神仏の器です。
いま、怯えているのは神の子、仏の子です。
いま、罪を犯しているのも神の子、仏の子です。
一刻も早く、悲しみの連鎖が断ち切られますように。
弘法大師のお言葉。
物の興廃は必ず人による 人の昇沈は定んで道にあり
2500年前にお釈迦様の説かれた真理の法則、「因・縁・果」に照らして、
お大師様が残されたお言葉を頂戴します。
人は命あれば、後悔し、反省し、やり直し、生き直せるものと信じております。
そう信じて、遠い日本から祈っております。
合掌
3月5日(土) 午後3時より観音堂において、聖観音平和祈祷をいたします。
一緒にお参り下さる方は、どなたも自由にお堂に入れます。
何のお構いもできませんが、特別朱印「祈願の証」をお渡しします。
心の目~ちょうどよい~
この冬は諏訪地方も雪が多い。
これだけ頻繁に雪が降り、雪掻きばかりを繰り返していると、
春の芽吹きを見落としてしまいそうな気がする。
二月は下旬。
辺りを見渡せば、春はちらほらと見つけることができるのかも。
おそらく降り積もったこの雪の下にも春が芽を出しているのだと思います。
今はまだ、世界も社会も何事も耐え忍びの時期なのでしょう。
耐え忍んだその先には春がやってくる。
人は、自然界が我々にそう教示して下さっていると考えます。
仏さまのものさしは少し違います。
「耐え忍ぶなかに、既に春がある。」
冬の厳しき自然が時折見せてくれる、美しい表情があります。
それは苦しさに心が囚われていると見逃してしまう刹那の姿。
こんなことを言った方がいました。
咲く花は確かに美しい。
しかし、それを見て美しいと感じる、その人の心がもっとも美しいのだと。
私はそれを聞いて思いました。
その心が「縁」に気づいたのなら、咲く花でなくとも、幹や枝葉、土の中に隠れた根、
さらには、それらの栄養となる土さえも、美しく目に映るのではないかと。
そういう目をもって、耐え忍ぶ「いま」、「現在地」を見れないだろうか。
『いまの姿が美しい』
『いまの姿がちょうどよい』
これは、達観したお釈迦様、仏さまの目、仏さまのものさしです。
仏教にはこの世を生きるヒントが詰まっていると感じます。
神仏は、人間が想像するより、遥かに大きな存在。
それは尽未来際、人智が及ばないほどの大きさ。
神仏は、人間が想像するより、遥かに微細な存在。
それは人の目に捉えられない姿で遍満している。
自分の祈りが足らなかったとか、祈りが通じたとか、そういうものでは量れない。
もっとも尊いのは、その信心、祈る心、そして感謝合掌の心。
その心こそ強く、健やかで美しいとするのならば、
人はその心を育み、「心の目」を培い生きていけないものでしょうか。
誰かが苦しくて挫けそうなとき、
誰かが孤独を感じて努力を投げ出しそうになるとき、
人はみな、神仏の命のなかにいることを想像してほしい。
そして、神仏の世界、神仏の響きには、容赦なく苦難も伴い、
また、成功や失敗、栄光や挫折の「区別がない」ということも。
森羅万象、万事はご縁。
生きとし生けるものが神仏の命のなかに「生かされている」とは、
まさにそういうことなのだと思います。
たとえ、叶わない願いがそこにあっても、ありのままの姿として、
それを受け入れる心に、すべてのことは始まる。
辛抱強く時間を費やし、複雑な気持ちを整理したところに光が射し込む。
そして人は立ち直るたびに感謝をし、再び信じ、祈り続ける。
その心がいつまでも神仏とつながり、人の生きる力となり、
必ず功徳を得る。
必ず感動を得る。
いまの姿が美しい。
いまの姿がちょうどよい。
仏教にはきっと生きるヒントがある。
この桜の木をみて、満開と観る人もいるかもしれない。
合掌
あるを尽くして
三仏忌涅槃会にむけてお釈迦様の涅槃図を掛けました。
クシナガラでのお釈迦様の最期の情景から、その徳の高さが伝わってきます。
2月13日(日)、14時より本堂で涅槃会を行ないます。
いま、時代は令和。
お釈迦様の時代から2500年が過ぎ、世はコロナ禍に沈んでおります。
感染を危惧し人が集まることが出来ず、会食はもっとも高リスクとされています。
弊害なく日常生活が営まれていた頃を振り返り、いま思うことがあります。
大人数の宴会では、乾杯があって宴が始まり、少しするとお酌に席をたちました。
杯を交わして話し込み、気持ちよく酔って会場の熱も上がる。
ごくあたりまえの光景でした。
配膳の方がこう言うのです。
「召し上がらなくて宜しいんですか?」
「温かいうちに召し上がって下さい。」
手をつけていないお料理を下げられず、出来たてのお料理が置けない。
少し困っていることが表情からわかります。
いつの間にか時が過ぎ、宴もたけなわ、締めの挨拶がある頃に自席に戻り、
慌てて料理を口にします。
宴会が終わり、一同が退席したあとの、しんと静まり返った会場に戻った時のこと、
配膳の方が一抹の寂しさを顔に浮かべ、大量に残ったお料理を片付けていました。
作り手の心と運び手の心を大切にいただけていないことを認識しながらも、
どこか感じていた罪悪感に蓋をして会場をあとにする。
そんなことを繰り返していました。
コロナ禍のいま、大人数での食事は出来ず、家族以外は誰と会食をするにも
常に感染防止への配慮が欠かせず、安心して食事ができません。
皆が口をそろえてこう言います。
「あたりまえにあったことは、有り難かったことだった。」
2500年前、最期を迎えたお釈迦様は弟子たちにこう言い残しました。
『足るを知る者は富む』
この先、人が集まることへの不安は払拭され、気兼ねなく人と触れあい、
料理を囲める日は必ず戻ります。
信州人には、先人よりこんな戒めの言葉が伝え残されています。
『あるを尽くして』
いつか日常の回復に喜び、正常に歯車がまわりはじめたその頃に、
私たちはこの言葉を大切に心に留めておきたいと思うのです。
作り手の心、運び手の心、あるを尽くしていただきます。
お釈迦様の言葉、足るを知るとはどういうことか。
それは、日頃から「ありがとう」の心を失わないことではないでしょうか。
あたりまえにあったことは、有り難かったことだった。
コロナ禍にも仏の説法が聞こえております。
合掌
釈迦涅槃図
お釈迦様のご命日15日まで本堂に掛けております。自由にお参り下さい。
犀の角
角界は上松町出身力士、御嶽海関が優勝を果たし大関昇進を決め、
悲願達成に長野県内のみならず全国相撲ファンは喜びに沸いております。
昨年、横綱照ノ富士関が横綱昇進の知らせを受けた際の口上、
「不動心を心がけ、力量の向上に努める」
と述べられました。
動じることなく横綱として高みを目指す、ということですね。
横綱昇進後は連続優勝を飾っており、まさに劣勢においても動じない姿でした。
さて、28日は不動明王のご縁日です。
お不動さんと呼ばれ、とても信仰厚い、憤怒の形相をした現世利益の仏さま。
お不動さんは何が動じないのか。
心が動じない。
迷いを断ち切ろうとする、抜苦与楽の「救いの心」が、
金剛の如く、固く動じることがないのです。
それは大日如来の化身、衆生救済のお姿とされております。
悟りを得た仏(ブッダ)に対して、私たちのことを「凡夫」といいます。
凡夫は、余計な欲があるがゆえ執着し、常に迷いを生み、
その「心」は天気のように動いてしまいます。
これを「煩悩」といい、人の苦しみの根源とされております。
この根源を断ち切るには、主である心を制御しなくてはならないのですが、
いくつになっても、それがとてもとても出来やしないから、
自己肯定の一言、だって人間だもの・・・というセリフが出るのですね。
お釈迦様のお言葉を紹介します。
害心あることなく 何でも得たもので満足し 諸々の苦難に堪えて 恐れることなく
サイの角のようにただ独り歩め
音に驚かない獅子のように 網に捕らえられない風のように 泥に汚されない蓮のように
サイの角のようにただ独り歩め
「サイの角のように ただ独り歩め」
人は誰か何かに支えられ、罪を許されながら生きることができています。
人が独りでは生きられないという由縁です。
しかし、誰もが皆、「私」という「唯一無二」、独りの存在であることも確かです。
人の苦しみの原因のひとつに、「他人と自分を比べる」ということがあります。
お釈迦様は、これをしてはいけませんよと教えて下さっています。
成長に比較判断は必要ですが、比較が生み出した良し悪し、あるいは価値観に
「心が縛られる」から、それが苦につながります。
サイの角のように。
自分の目指すものに向けて、恐れることなく努めていく。
ただ独り歩め。
群れのなかにあっても、比較して、あるいは流されて自分を見失うことなく。
その心が動かないのなら、道はきっと開けていくのでしょう。
いまコロナ禍は、まさに「不動心」が試されているような気がします。
他と比較しない「自愛」と「潔さ」は絶対に幸せのヒント。
ここで言ってみたいセリフ、
「だって、私、人間だもの。」
合掌
真福寺不動明王像 (大仏師:松久宗琳師)
南無大日大聖不動明王
写経のすすめ~残り香~
今年も毎月の写経を勤めてまいります。
どなたもご参加いただける月例行事ですので、気軽にお越し下さい。
写経の目的は、お勤めする人によって少しずつ違うものです。
ご供養やご祈願と位置づけ行う人もいれば、自分自身を整えるための行、あるいは
指先や能のトレーニングなどを目的に生活習慣として通う人もいるかと思います。
遠い昔、写経とは「仕事」のひとつでした。
印刷機、コピー機など、いまあたりまえに有る機材が一切なかった時代には、
すべてが手書き写し作業。
経典を流布するには、一字たりとも間違うことなく写すしかなかったのです。
そこで写経という仕事に就くことによって報酬を得ていたのだそうです。
写し間違いがあった場合は、その度合いにより罰金が科せられたとのこと。
いまの時代はなんて恵まれているのでしょう。
有り難い経文に、自分の目的によって触れることを許されているのですから。
毎月21日の9時から当山で行われている写経体験会は、特に変わったことを
行なうのでも、他寺院で行われる写経会と差別化を図っているものでもありません。
写経の素晴らしさは、経文の一字一字と心静かに向き合う禅定のなかに有り、
その功徳とは、経文を写し終えた人のなかに現れるものだと思っております。
そして、その功徳がのちに「回向」して行くのが最大の功徳不思議の力と言えます。
弘法大師のお言葉
「虚しく往きて実ちて帰る」
私は、写経の実践によりこの言葉を体感できると信じていて、各写経会では、
その信心のもと経文に内在する仏菩薩にすべてをお任せしております。
表を見れば、美しく書写することは難しく、
内を見れば、無心で書き続けることはさらに難しい。
清らかな心で向き合えているかと問われれば、
それすらも足りていない日がある。
それでも、自分の目の前の経文は、二千年以上変わることのない、
生きるための「真のこと」が説かれたブッダのお言葉と疑うことなく、
安心していまを受け入れ、大丈夫、大丈夫、と力を抜いて書き続け、
投げ出すことなく最後まで到達するのです。
経文と自分の両方と素直に向き合えたならば、きっと生きる力が得られます。
弘法大師は『精霊集』にこのようなお言葉も残しておられます。
「身は華とともに落つれども 心は香とともに飛ぶ」
人の体は、花が散るのと同じくいつかは無くなるもの。
しかし、花が散ったあともその香りが辺りを漂っているように、
人が大切に持ち続けた思いや教えは、人の世に残っていく。
私たちが行う写経の「第一の功徳」とは、いまも消えることのない
お釈迦様の残り香に触れることなのではないでしょうか。
香る一字一字、ありがたく頂戴してみましょう。
合掌
毎年12月21日に写経奉納の願主様を観音堂に招き、奉納祈願を行ないます。
皆様のお写経は翌一年間は観音堂に納められ、寺族が毎朝の供養と御祈願を重ね、
その年の大晦日にお焚き上げ供養されます。
【写経体験会】
毎月21日 午前9時より 般若心経 (約1時間)
納経料 500円
持ち物不要
終了後にお茶、菓子で一服していただきます。
初めて参加を希望の方はご連絡下さい。
【晦日キャンドル写経】
毎月末日 午後7時より 理趣経百字偈 (約30分)
納経料 無料
持ち物不要
こちらは申込み制、定員10名です。
21日の写経体験会の目的に加え、晦日の「駆け込み寺」としての
機能も果たせたらとの思いがあります。
新しい月を目の前にして、心の垢を落とし気持ちを切り替えたい、
心身の疲れを癒したいといった時にもお勧めしたいです。
非日常性を高めた古式の写経道場となっており、一名でも参加者が
居られれば開催をいたします。
詳しくは「新着情報」をご覧下さい。
迎春 壬寅
令和4年、西暦2022年を迎えました。
昨年は年頭のご挨拶にて二つのことを書かせていただきました。
「一隅を照らす」
置かれているそれぞれの立場において、身の丈で精一杯努めよう。
ひとつひとつの小さな灯りがやがて世を照らす。
「おかげさま」
自分の出来ない多くのことを、何処かで誰かが努めて下さっている。
陰に何かしらの縁が働いていることで自分は生かされている。
振り返ってみて一年間いかがでしたでしょうか。
コロナ禍という言葉が常態化して2年。
日本に感染拡大が起こり始めた頃、多くの人はこんなにも長い間、
ウィルスと戦うことになるとは思っていなかったはずです。
日常生活の在り方や常識がのこれほどに変わってしまうことも。
いままで疑いもなく「あたりまえ」にあったことや考え方が、いくつも遠のいていき、
あたりまえが疑い見直され、人が新しい時代へ向かっていることを随所に
自覚させられました。
withコロナ・・・。
苦しみ多きコロナ禍にも、精一杯に努め力強く生きる方がたくさんおられ、
身を粉にして人命を守ることに尽くされている医療従事者はじめ、
多くの方のおかげがあって日常が保たれることを実感した2021年でした。
新しい生活様式に理解と意識が高まり、感染対策に添う行動が身についていくなか、
昨年ワクチン接種が進んだことにより、一定の安心が得られたことは事実です。
しかしながら、変化した生活のすべてが元に戻ることはもうないのだと思います。
「いま」とは、因果による過去の「変化」が重なって存在しています。
「みらい」は、「いま」がこの先の数多の縁にふれて移りゆくさまです。
私たちは新しい時代を歩み始めました。
皆さん、本年は勇気をもって「動く」年にしてはいかがでしょうか。
恐れることなく、やりたいことに「挑戦」してみてはいかがでしょうか。
自分の気持ちに「正直に」決断してみてはいかがでしょうか。
心得ておかなくてはならないことは、「動く」から「乱れる」へ変わらないこと。
乱れ有るところには必ず「魔」が入り込みます。
心と体のバランスを乱す原因はどこにあるのか。
それは「本能」だそうです。
人は本能を開放して動き続けてしまうと、何かしらダメージを受けるそうです。
今日も何かを本能で求め動く自分の内に、立ち止まる意思、省みる意思も
「併せ持っておく」ことが大切なのですね。
心と体を整えながら動く、励む、そして大いに楽しむ。
まさに生きるための仏教に触れるべく寺が広く開かれることは、
それに相応しいことだと思います。
「勇猛精進」
様々な気づきやご縁をいただける年になりますよう精進致します。
多くの笑い、出逢い、まなび、
皆さまにとって悦び多き年となりますことをご祈念申し上げます。
合掌
無事
ゆく年くる年の節目を迎えます。
早いものですね。
よく聞かれます。
「お寺って、コロナウィルスの影響はあるんですか?」
どうお返事していいものかと考えてしまうのですが、もちろんあります。
他と比較して、その影響の度合いに触れるつもりはありませんが、
「檀務」に顕著に表れたその影響は、今後の寺院運営そのものに影を落とします。
実のところ、寺院の先を見据え、もともと浮き彫りとなっていた問題や不安が、
コロナを機に「加速して」増していく感があります。
一方、一年間の寺の行事を振り返ってどうだったかというと、
今年もコロナウィルス感染の急拡大を受け中止となった行事がありましたが、
おおよそは恒例法要を含め皆様のご理解のもと行なうことができました。
とりわけ毎月の恒例行事に関しましては、細々とでも継続することができました。
川の水に例え、それはどれだけ細くても「流れ」を失ってはならないと心に決め、
常にリスクに対する緊張を保ち、祈りとともに動いてまいりました。
時に立ち止まることは大切ですが、そうしてばかりではいけない。
その先は目的に向けて考え、悩みながらでも行動を起こしていくべきでは。
体験から学び栄養とする心構えが布教活動には必要と考えております。
おかげさまで今年も無事に終えようとしております。
一年間の取り組みや成果、達成度、そういう評価を自分から切り離し、
一年の「完走」を成せたことにまずもって感謝したいと思います。
身近にいるこども、家族、学校や会社の仲間が無事でいてくれたこと、
ともに完走成就できたこと、これはどなたにも等しく幸せなことでしょう。
ありがとうございました。
真福寺の大晦日二年まいりは夜の11時頃よりお参り下さい。
除夜の鐘は、迷いを払う感謝と希望の鐘です。
悦びの音が響く、皆様の清々しく誓い新たな年明けを願っております。
檀信徒の皆様方、当山ホームページを見て下さっている皆様、
ご縁のあった皆々様、本年も誠にありがとうございました。
合掌
聖観音ご縁日
12月18日、朝8時よ今年納めの観音縁日護摩行を修しました。
毎月18日、観音様のご縁日、自行として観音堂で護摩を焚かせて
もらうようになり、4年が経ちます。
山で集めた木、お檀家様や知人からいただいた木材を鉈で割り、護摩法の壇木として
お供えしております。木目により木が均等には割れず、形がいびつで申し訳ない思いが
ありましたが、いまはこれで十分なのだと心込めて護摩行に向き合っております。
2年間は、ご縁日について発信することなく毎月一人で護摩行を行っておりました。
それが3年目に入ると、少しずつですが檀信徒様がお堂にお参りに来られるようになり、
驚きと嬉しさが入り混じるような思いで、寺だよりとホームページに発信をしました。
と言いましても、あくまで自行としての位置づけでしたので、寺行事として周知は致して
おりませんでした。
その後も欠かすことなく護摩を焚いていると、お参りの方も毎月熱心にお越し下さる
ようになりました。
これはお寺にとって大変にありがたいこと。自身とても励まされる思いで、
いよいよ4年目に寺行事としても発信を始めました。
私が自行として観音様と向き合う姿勢は以前となんら変わりありませんが、
当山の長い歴史のなかで、すでに他界された地域の先人を含む代々檀信徒に
親しまれてきた仏さまに対し、いまこうしてお参りの方とともに信仰の灯火を
受け継ぐ努めを、尊い使命そして自分の励みに感じております。
お参りに足を運んで下さる方には心より感謝申し上げます。
今後、皆様もそれぞれの励みとしていただけたら幸いです。
縁日とは、字の如くご結縁の吉祥日です。
神仏により縁日は異なっており、古来より、その神仏とご縁を結ぶことにより
もっとも御利益が得られる日として伝わり、毎月に日を決めてのお参りはもちろん、
この日を境として新たなご誓願をたてる発心の日としても相応しいのです。
当山毎月の縁日護摩行は50分程のお勤めとなります。
お参り希望の月、その際のお堂の出入りは自由にしていただいておりますので、
参拝申込みは不要です。
諸祈願と信仰の道をともに歩んで下さる方、どうぞ奮ってお参り下さい。
なんのお構いもできませんが、お堂を開けてお待ち申し上げております。
合掌
個々の御祈願も随時承っておりますのでお申し込み下さい。
リスペクト
こどもが通っているサッカーチームのコーチが試合直前の指導のなかで、
こども達に向けてこう話されました。
「相手チームは敵ではない。サッカーでは『仲間』という。」
「相手の仲間へのリスペクトが大切。」
自身、失いかけていたことを思い出す、印象的な言葉でした。
私は何事も勝敗を決める試合に臨むには、なまぬるい考えは互いの「戦意」に影響し、
相手に失礼になると考えていました。
よって、いざ試合では相手は敵であって、敵に勝つために見方とベストを尽くし、
試合終了とともに相手を讃え、初めて仲間になるものだと思っていたのです。
リスペクトというコーチからの言葉に、30年前の自身の部活動を思い出しました。
私が所属した高校野球部の監督さんは、試合中のガッツポーズを一切禁じ、
礼を欠くことには大変厳しい指導をしておられました。
理由は相手へのリスペクト。
当時を振り返ってみると、その教えを理解できていたとは思いません。
その教えに縛られ、守っていたにすぎません。
それが子育てをする立場になったいまとなって理解できる気がしますし、
息子たちがそのような指導をいただけていることを有り難くも感じました。
しかしながら、私がそうであったように、現時点でのこども達がリスペクト精神を
十分理解することは難しい。
指導者から伝えられた思いが、いつか心に響くときがやってくるものと信じています。
相手は、自分を高めてくれる師であって、ともにルールを遵守して励んでいる仲間。
そういえば、プロ野球界は日本ハムに新庄監督が新しく就任し、球界関係のみならず
世間は大いに盛り上がりを見せていますね。
「試合中の喜びは塁上で素直に表現しなさい。」
指導方針のひとつひとつに、何かを一度壊そうとする「改革使命感」を感じます。
なりふりと言動から周囲の誤解を招くことも多少はあるのでしょうが、
実は新庄監督は、高いリスペクト精神をお持ちの方ともっぱらの評判ですよね。
いまから野球シーズン到来が待ち遠しい。
来年はリスペクトという観点からアマ・プロのスポーツ界を観察してみようかなと
ひとつ楽しみになってまいりました。
合掌
寺の歴史
写真は当山御本尊阿弥陀如来像の以前の台座と光背です。
ともに令和元年に一新されております。
現在、諏訪神仏プロジェクト(令和3年~5年)の一貫で、PJ参加寺院の仏像等の
一斉調査がすすめられており、このたび当山のご本尊様も調査をしていただきました。
有識者の見識によると、こちらの台座はもとは阿弥陀如来像のものではなく、
地蔵菩薩像の台座であっただろうとのことでした。
また、制作期は江戸時代だそうです。
(当山阿弥陀如来像は室町時代中期の作として伝わる)
約300年前、江戸時代に聖地堂窪で起こった伽藍全焼火災の際、
阿弥陀如来像はその難を逃れ、寺の法灯は現在にまで守られております。
ひとつの推測からすると、その際、すでに台座と光背は焼失していたのかもしれません。
そして現在地に聖域を移してから、写真の台座に安置して祀られていたことになります。
令和元年に本堂ご本尊脇に新たに造立奉安された金剛界大日如来像。
あわせて進められた本尊阿弥陀如来像の修復事業は、その時の仏師により、
台座光背が当山の阿弥陀如来像とは別のものと指摘を受けたことに始まります。
また、観音堂に厄除聖観世音菩薩(伝・鎌倉時代作)として伝わるご尊像ですが、
実は「如来像」の造形をしておられます。
当山観音堂の由縁は一体何なのでしょう。
過去の災禍から守られ、寺の歴史を紐解ける資料はもう存在しないのでしょうか。
歴史に触れることは面白いですね。地蔵菩薩の存在も気になったりします。
当山は寺の由来や有する仏像群等、確かな資料が残っておらず史実に触れることが
できないものが多いです。
これから先の時代に向けては、やがて今を振り返る時が来たときのために、
その人たちのために形に残せるものは残さなくてはならないと感じました。
合掌
現在の御本尊阿弥陀如来像(伝・室町時代中期の作)
※一説には平安時代後期の作との見方もあるようで、史実であるなら驚くべきことです。
豊かな時代に
今年の春、九州長崎から一人の女子大生がお寺に来られました。
このホームページを見て、当山に興味をもって下さったそうです。
お寺ばかりではなく、様々なことに関心が高く、熱心に学ばれている学生さんでした。
こんな質問がありました。
「いま、お寺離れなどと言われてますが、どのように考えてますか。」
ひと言、事実だけどすべてがそうではない、とお答えしたことを覚えています。
この問題はとても複雑で、ケースも都市部、地方と様々あろうかと思いますが、
それを承知しているうえで、自分の考えを少しほど下記に述べます。
まず、寺離れの原因はひとつではなく、目に見えること見えないこと、
大なり小なりいくつもの因果や背景が複雑に関わっています。
そのなかのひとつとして「時代の豊かさ」から生じた精神面があげられます。
どういうことか。
豊かな今の時代には、溢れるほどの情報量とともに選択肢や答えも豊富に多岐にわたり、
家族のかたちや生活様式も様々、幸せの選択は「自己解決」によって導き出すことを
私たちは精神的に迫られていると感じます。
ひと言で表現すると、人に頼れない、甘えられない時代。
地域社会の環境変化に伴い、お寺と檀家のつながりは希薄化してきました。
「豊かな社会」が前提にあれば、満たされない「心の面」には自ずと蓋をしてしまう。
宗教に人のつながりや拠りどころを求めるのもどこか違うと感じてしまう。
このような時代にお寺はどのようなスタンスであるべきか。
本音を声に出しにくい時代。顔で笑い心が泣いているような時代。
寄り添い頼れる存在として、人様の声に耳を傾けようとそこにあるのか。
寺も僧侶も近寄り難く、余計な関わりは持ちたくないと思われているのではないか。
先日、お檀家様とお話していて聞いたことですが、
その方が知人をお寺のおまいりに誘おうとすると
「私はまだ早い」
とお応えになったそうです。
その知人の方のお歳を聞くと70才。
昔のお寺は50代から関わる方が大勢いらっしゃったそうです。
随分とお寺は変わりました。
すべてが同じではありませんが、今はお寺に対して葬儀や法事にだけ関わる所
という見方がとても多く、さらに目に見えぬ敷居の高さがあるのだと感じています。
しかし、本来仏教が「生きるための教え」としていまに伝わるものであるならば、
お寺は年齢関係なくどなたにも開かれ、法事ごとに限らず人が行き交える場所であり、
コミュニティであることが理想です。
人が生き生きと通い喜び、向き合える魅力や価値がここにないのであれば、
それは「寺や僧侶の在り方に問題がある」と私は受けとめています。
時代は目まぐるしく変わり、価値観が多様化の一途を辿るなか、
寺と僧侶には大変大きな課題が突きつけられています。
さて、この話に関連してのことです。
つい最近のことですが、私の携帯に近い世代の男性から連絡がありました。
「最近、迷っていることが多い。お寺で一緒にお経を唱えたい。」
私はその日のうちに来るように伝え、本堂でお経を唱えました。
そして偶然にもその日は、初めて夜の写経、キャンドル写経が行われる予定だったので、
一緒に写経をしていくように勧めました。
悩みごとをゆっくり聴くことは出来ませんでしたが、灯明の灯りのみで行う古式の写経に
身を預け、真摯に取り組んでくれました。
この機会が少しでも迷いを払う力になれたのなら良いのですが。
人は、人の上に立ち責任が大きくなるほど、他人に弱みを見せられなくなるものです。
その人も上の立場にあることから、私はなんて謙虚な人なのだろうと感じました。
彼は自分自身のことをメンタルが弱いと謙遜してましたが、
私は、メンタルが強いからこそ他人に正直になれるものだと、
心のなかでそう思ったのです。
豊かな時代であることと、心の強さ豊かさは決してイコールではありません。
いつだって誰かに頼りたくなるものです。
世代の壁を払い、寛容に人がつながり寄り添える環境が必要だと思います。
弱みを見せられない、見られたくない時代にも、昔も今も神仏は変わりなく
人の心の声を聴いて下さっています。
大丈夫、大丈夫と。
仏さまのもとには、心身健康な人にはそのままで足を運んで向き合い励んでもらい、
もしも迷いが生じ頼りたい時には、ここに壁がなくいつでも駆け込んでもらえるように、
お寺とは、いつの時代もそうありたいものです。
同時に私も弱みだらけの僧侶であることを知ってもらわなくはなりません。
合掌
響き~そこに喜びがあるか~
本当によいものとは、人を介して拡がっていく。
一人で多くに拡げるには「限界」がある。
ここで言う限界とは、よいものをよいままに保つという意味での限界です。
例えば、自分のもとに大変価値のある「鐘」があるとします。
その鐘の音をより遠くまで、より多くの人に響かせたいとするならば、
よほど強く打つ必要があります。
しかし、鐘とは強く打ちすぎると、よき音色を損なうものです。
鐘を打つ本人がもっとも近くでその音を聞くこととなります。
さて、どちらを選びますか。
鐘の価値を広く知らしめるために、より大きな音を鳴らし遠くまで響かせますか。
それとも強弱の塩梅によりその鐘の「もっともよい音」を知り、その強さで打ちますか。
この時に重要なことは、本人に苦がないこと。
もっとも近くにいる本人が良い音を実感し、そしてそれを信じていることです。
「自分自身が喜べているか」
という一点は、けして曖昧にしてはいけないことです。
こういったことは、例えた鐘に限らず、何事も同じではないでしょうか。
「自己満足」とはどこか否定的に捉えられがちですが、実は大切な要素。
他人の反応に精神をすり減らし過ぎて、自分自身の満足が置き去りに
されている風潮があるように思えます。
それはきっと不満を溜めるもととなり、気がつけば大切にすべきであった他人を
批判したりしているものです。
無理をし過ぎずに、まずは「自分満足度」を見つめ直すことも大切でしょう。
そして、自分がよいと思えるものを身近な人から急がず丁寧に届けていく。
簡単に遠くに、広くに、そして速くつながることが可能になった世の中だからこそ。
本当によいものは、きっと「人を介して」拡がっていきます。
価値は人により守られ、その価値を求める人達と不思議とつながるものだと思います。
何事も自分ひとりで背負いすぎることなく、緩みすぎず張りすぎずに、
ささやかな喜びを実感しながら過ごしたいものです。
合掌
秋季寺平を歩く~祖師団参~
真福寺発祥の地とされている高尾山麓寺平を皆さんとお参りしました。
5月に予定されていたお参りは急遽中止となり、今回こそと願い当日を迎えました。
天候にも恵まれ、私のこども達も含め19名で登りました。
600年も昔に仏を祀ったお堂があったと伝わるこの場所には、
現在、真言宗智山派の祖師である興教大師の石像が祀られております。
私が初めてここをお訪ねしたのは2016年のこと。
祖師像まで辿り着くための道がなく、辺りに詳しいお檀家様の先導をいただくことで
やっと場所を知ることが出来ました。
その後は木々に道標となる紐を結び、快く同行して下さるお檀家様のお陰もあり、
折あるごとにお参りを重ねてまいりました。
一方で、この山は安心して歩き進めるような参道ではなかったことから、
普段地元の方でさえ立ち入らないことが納得でき、そんな山中におられる
祖師をどこか寂しく感じておりました。
ところが昨年間伐がされたことにより、辺りは陽が射し安全に歩ける道が拓けたのです。
以前は大勢では難しいと考えていた寺平まいりでしたが、これでお檀家様にお声掛けが
できると思い、それを楽しみにしながら、一層祖師へのご挨拶まいりを重ねてきました。
お寺の行事としてここを訪ねるのは果たしていつぶりなのか。
既に他界された御住職様方がどのようになさっていたのか、その記録はございません。
このたび団参という形をもって祖師をお訪ねすることが叶いました。
秋の自然を目にして喜び、言葉を交わしながらマイペースで進む山歩きの醍醐味。
身も心も爽やかなエネルギーに満ちていきます。
寺の先師、この地域の先人、ご先祖様方の信仰の始まりであった聖地に、
長い時を経て、再び大勢の方が足を運んで下さったこと大変有り難く思います。
祖師のお姿が皆様の心に残って下されば嬉しく、今後も多くの方がここにおられる
興教大師覚鑁上人とご縁を結んでいただけたら幸いです。
合掌
次回は来年5月の日曜仏教会において春季寺平まいりをご案内致します。
また、参加された篤信のお檀家様が再び彼岸花を植えて下さいました。
数年後の花の姿を楽しみにしております。
寺平に咲いた彼岸花
平成30年と令和元年、それぞれ春から初夏にかけて、
一緒に寺平をお参りしたお檀家様が、興教大師像両側の土を掘り、
彼岸花の球根を並べるように植えて下さいました。
昨年の秋まではそのどれも芽を出すことがなく、半ば諦めかけていたのですが、
今年9月中頃にお参りすると、一輪だけが伸びているのを見つけました。
寺平は岡谷市川岸の高尾山麓に位置し、真福寺の発祥の地として伝わる場所です。
祀られる興教大師は真言宗中興の祖とされる学僧で、真言宗智山派寺院にとっては、
宗祖弘法大師とともに信仰、崇拝する祖師であります。
普段ほとんど人が立ち入ることのないこの山中に、ひっそりと祖師は祀られており、
石像台座には「昭和三十三年」と刻まれ、裏側にはその当時の施主の方々の
御尊名が残っております。
去る平成8年、真福寺新伽藍落成の年、役員の方々がお参りしたのを最後に
ここを訪れる人はほぼ途絶えていました。
あるきっかけから、5年前より再びお参りするようになり、繰り返し足を運んで
下さるようになった方が、色を添えたいと植えてくださったのが彼岸花です。
先日、彼岸明けに再度お参りすると、その一輪は綺麗に花を咲かせていました。
布施の心が、いままでこの辺りには見られなかった色となって祖師にお供えされ、
誠に有り難いことと思っております。
来年の秋、聖地にもう一輪二輪と姿を見せてくれるでしょうか。
来たる10月10日(日)午後2時からの月例日曜仏教会。
「秋季寺平を歩く~真福寺発祥地まいり~」
と題した行事のなかで、お檀家様を中心とした希望の皆様と一緒にお参りする予定です。
山歩きという「信州人らしい」楽しみとしても、ここを訪ねる意義を感じています。
自然に触れ秋を感じながら祖師を目指し、身心健康を願えるお参りとしたいです。
歩きのなかに祈りがある。とてもよいことではないでしょうか。
合掌
到彼岸
18年前、四国八十八ヶ所霊場の歩き遍路へ出発の際、
京都本山におられた先輩から頂いた大切なお杖。
出発に向けて頂いたお言葉。
「出来る限り一人で歩いた方がいい。」
四国で過ごしたのは4月の初旬から初夏にかけての44日間。
道中何人もの歩き遍路さんと出会い、一時歩みをともにしても、
またどこかで会いましょう、と伝えて別れました。
二十代の頃に大変貴重な体験をさせていただきました。
一本の杖をみて懐かしい気持ちになります。
さて、この杖、錫杖の先に付いている六つの輪は、
六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天上)を表します。
私たち「人道」を含むこの六つは、すべて迷いの世界だそうです。
そのすべての迷いから脱した先を彼岸(仏の世界)と呼び、
そこに渡るための修行を「六波羅蜜行」といいます。
六波羅蜜行(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)
これを勤めるのが、私たちのよく知る日本の文化、「お彼岸」です。
春秋、彼岸の入りから明けまでの期間、お中日ー中道(春分・秋分の日)を挟む
七日間は、自分の心と行いについても学ぶことが多いのです。
私はこのように捉えます。
『この世は迷い苦しみが繰り返されるけれど、有り難く人としてのご縁を生きている。
人に芽生える供養の心や思いやりの心は、「授かった徳」そのもの。
それを「育んでいける」のもまた人。
このことに気づき、日常に感謝、供養を取り入れるのがお彼岸であり、
それが六波羅蜜行にも通じ、また亡き人達にもきっと通じている。』
たとえ、お彼岸中にご法事やお墓参りを営むことができなくても、
朝起きて、心静かに手を合わせる時間をもつ。
これでも十分じゃないでしょうか。
いつどこに居ても、誰と居ても、人は何事も心を主とする。
この心は、誰でも一人で歩き見つめなくてはならない時があるのでしょう。
錫杖を振ると、六道の輪が互いにあたりシャンシャンとよい音を鳴らします。
秋のお彼岸、心地よい音を響かせたいですね。
この時期に咲く彼岸花の花言葉。
「再会を楽しみにしてる」
合掌
高尾霊園墓地~お彼岸にむけて~
真福寺のお檀家様のお墓がある岡谷市川岸の高尾霊園。
利用者の管理組合があり、毎年の役員様が霊園内整備等ご尽力下さっております。
今年のお盆は、墓参者の路上駐車を減らすことと周囲にお住まいの方の安全を守るために
初めて臨時駐車場を設けることとなり、組合役員様に設営のご協力を賜りました。
霊園はお参り時期になると、取った草に混ぜて傷んだ生花などが共用の場所に放置され、
後々役員の方が撤収作業をする際、その量は軽トラックの運搬二回分にもなるそうです。
今年の役員様がこの状況をなんとかしようと働きかけ、古塔婆を集める共用の場所に、
お下げした生花などを持ち帰る為のビニール袋を設置して下さいました。
この結果を聞いて驚いたのですが、片付けはごみ袋6個に収まったそうです。
一年目の取り組みでこれほど結果に反映されるとは正直思っておりませんでした。
お話を聞き、とても嬉しく思いましたし、お骨折り下さった役員様に感謝の思いです。
「みんなのお墓を美しく保っていこう。」
この思いを皆さんに伝え、そしてお参りに不便のないようにとの思いから
初めて取り組んだことに、霊園利用者からも十分に応じて頂けました。
誠にありがとうございます。
来年以降、この思いがさらに浸透し、美しい景観が保たれた安心してお参りのできる
霊園となっていくことを願います。
このことは、毎年の役員様の負担を軽減していくことにもつながります。
もうすぐお彼岸です。清々しいお参りにご協力下さいますようお願い申し上げます。
霊園に関してお気づきの点は、なんなりとお寺までお問い合わせ下さい。
組合役員皆様はじめ霊園利用の皆々様、今後とも宜しくお願い申し上げます。
合掌
※21、22日は一斉草刈り作業がございますので、お参りの際お気をつけください。
御礼ー香華机の寄贈ー
今年の春から夏にかけて初めて境内で試みた蓮の成長観察。
大賀蓮、孫文蓮、白蓮、桃一重、それぞれ一基ずつ。
見事に6輪も蓮華を咲かせてくれたのは桃一重。
蓮の姿は、葉、蕾、蓮華、どれをとっても本当に美しいですね。
お寺に来られた方も、花を間近に観て喜んでくださっているご様子でした。
残念ながら他の種類は蕾が出ませんでしたが、また来年も挑戦したいと思います。
今年、桜の便りを聞く頃によきご縁があり、境内へ植える上記の蓮を分けていただき、
苗植えのご指導に始まり、時折お寺まで足を運んで生育の面倒を見て下さっていた
松本在住の小原さんより、このたび、大変立派な香華机をご寄贈賜りました。
お大師さまの御影軸の香華机として和室に飾らせていただいております。
ありがとうございました。
こればかりではありません。
いま境内で夕暮れ時から夜中にかけて白い大きな花を咲かせているヨルガオ、
すくすくと成長を続け、これから真っ赤な花を咲かす蕾が膨らみ始めたモミジアオイ。
どれも小原さんが境内を彩って下さったものです。
心より感謝申し上げます。
南無大師遍照金剛
合掌
心づかいは見える
このたび、お檀家様の法事のお斎食にご一緒させていただきました。
献杯の後、美味しいお料理とお酒をいただきながら会話を楽しみ、
故人を偲ぶ時間が穏やかに流れて行きました。
一時間ほど経った頃でしょうか。
『あらやだ、おばあちゃん! コップ入ってなかったね。ごめーーーん!』
『ごめんね、おばあちゃん、お茶でいいかな。はい、どうぞ。』
このおばあちゃんとは、三回忌を迎えた故人様です。
最も上席に設けられた亡きおばあちゃんのためのお席。
この情景に私は心を掴まれました。
これが追善供養のひとつの徳積みの姿だと思います。
「心は見えないけれど、心づかいは見える。」
姿はないけれど、一緒に居られるかのように過ごす。
澄んだ水のように優しい気持ちに沁みていき、心が潤った瞬間でした。
美味しい料理にお腹が満たされ、ご親族さまの温かみに触れて心満たされた、
亡き家族を偲ぶ回忌供養の一日でありました。
早く世の中に安心して人と会える日常が戻るといいな。
合掌
境内に咲くヨルガオ
夕方、日没時から夜中にかけて咲く白い花です。
この夏の記憶
こども達の長かった夏休みが終わります。
夏休み中、植物への水やり当番に一緒に学校へ行き、息子のホウセンカを見つけると、
それは一際小さく、他の子たちのホウセンカの成長の影に隠れて気が付かないほどに
極端に小さく、唖然としてしまいました。
息子に聞くと、夏休み前は遊びほうけて水やりをほとんどしなかったとのこと。
それでも不思議と枯れていないのは、おそらくクラスの担任先生とお友達のお陰。
夏休みの終盤に再度観察に行くと、相変わらず小さいままではあったものの、
とても小さなピンク色の花を咲かせていました。
大きく成長することはなくても、枯れなくてよかった。
観察をさぼっていた息子は、夏休み明けにホウセンカの並ぶ学校の中庭で
仲間と顔を合わせ、何かを感じてくれるだろうか。
盆入りの13日から強い雨が降り続きました。
雨の降るなかで諏訪のお寺様のお手伝いで地域の棚経にまわりました。
皆さん、口をそろえて、こんなお盆はなんて珍しいことかと仰っていました。
一方ではコロナウィルス感染の心配をされる家もあり、玄関先での読経になった家が
何件もありました。
夏の花火大会やお祭りはまったく行われず、毎晩、遠くで響く諏訪湖の花火の音だけは
家まで届いていました。
岡谷の夏の風物詩灯ろう流しは70年の歴史に幕を下ろし、送り盆の夜に湖畔に集い、
夏の終わりを告げる花火を見上げ、千の灯籠に故人を偲ぶことは叶いませんでした。
夏に映える浴衣姿を見かけることはほとんどなく、帰省した若者が旧交を温め
賑わう様子も、大勢の県外の方々が観光で諏訪に訪れることもありませんでした。
自身も家族連れで遠方に出向くことは諦めました。
仕方がないことです。
なぜ?どうして?に対する答えは、
これは仕方がないことなんだと理解できる一方で、
何か得体のしれない変革が迫っているような、気味の悪さを感じさせられるのです。
しかも、対峙すべき対象がはっきりとわからない不安や怖さ。
人なのか、自然なのか。内なのか外なのか。
そんな矢先、お盆中に続いた大雨により、全国各地で何件もの土砂災害が発生しました。
この地域に15日未明に発生した土石流が家屋を襲い、尊い命が失われてしまいました。
未来あるこどもの命、子の成長を生き甲斐にしていたはずの母親の命。
尊い家族を失い、残された遺族がどれほど辛く悲しい思いをしているのか。
この不運による悲しみはどれだけ時間をかけたら癒えるのだろうかと想像すると、
それを察するにあまりあります。
人は人のつながりによって支えられ救われていく生きものであるのならば、
どうかお近くの方、お仲間が救いの声をかけていただけたらと願います。
「かける言葉も見つからない」
これも誠に正直な気持ちかもしれませんが。
いつか悲しみが癒えて、御霊が安らかな眠りにつかれますことを願います。
明日からこども達は学校の新学期を迎え、約一カ月ぶりの登校が始まります。
大きく何かが変わってしまった世のなかにも、変わっていくようにみえる自然界にも、
今までと変わりのない日常を迎えられることに感謝いたします。
仲間と顔を合わせ、何かを感じてくれるだろうか。
一際小さなホウセンカに花がついたことにも。
合掌
2021境内の蓮
この夏境内に咲いた蓮の花
お盆中も雨のなか咲いてくれました
静かにお盆を過ごす
記事内容の法要は大雨災害と今後の天候を理由に中止となりました
1951年より70回の開催を数え、岡谷の風物詩として心の拠り所とされてきた
湖上灯ろう流しが、その歴史に幕を下ろしました。
今年、岡谷市仏教会(須藤翠厳会長‐久保寺御住職)が大切なご供養を受け継ぎ、
日時場所を同じくして厳かに心静かに法要を営みます。
30基の灯篭が祀られます。
灯篭の3面には地元のこどもが絵を描き入れてくれており、残る一面には、
僧侶が供養を受け付けて戒名などを筆入れします。
塔婆を焚きあげて大きな送り火とします。
同じくご供養を受け付けて僧侶が筆入れします。
どなたもご来場いただき、お焼香をすることができます。
湖上に流れる精霊船を眺めながらご供養下さい。
また、夜空には夏の終わりを告げ、故人を送る花火があがります。
今は亡き大切な人を思い浮かべながら、みなともに心静かにお送りをいたしましょう。
真福寺では、先日、ご新盆さんの家のこどもがお父さんお母さんとお越し下さり、
灯篭の絵入れをしてくれました。
描かれたこども達それぞれの絵は特別な温かみに溢れていて、なんとも心安らぎます。
送り盆の夜に、きっとよい精霊供養ができるものと思っております。
8月16日(月) 午後7時より 岡谷釜口水門近くの湖畔公園にて
ご新盆の皆様をはじめ、どなたも連れ添ってお参りに起こし下さい。
この夏の終わりに、同時にみなさまには歴史をつないでいただけそうです。
合掌
みなさま、今年のお盆はどのようにお過ごしになられますか。
家族親戚集って例年通りというわけにはいかない寂しさもお察しします。
できる範囲、お心を伝えられる範囲でよいのだと思いますよ。
ご先祖さまの供養の支度を整えてまいりましょう。
お盆に向けての支度と心得
ご家庭にてお盆の準備がすすめらていると思います。
盆前にあわてることなく、今から少しずつ家内、お墓などを清め整えていただき、
安心してご先祖さまをお迎え下さい。
盆の準備にお迷いの方は次を参考までにご覧ください。
ご自宅での迎え盆とご供養
◆精霊棚
お盆の飾り付けには精霊棚と盆提灯などがあります。
※丁寧にはお仏壇から位牌を取り出し、お仏壇前に改めて精霊棚を設けて飾りつけ、
そこに位牌をおいて供養する形、地域によりしきたりがあります。
しかし「絶対のカタチ」ではございません。 多少負担ともなりますので、
常日頃の通りにお仏壇にて礼拝し供養差し上げることでも充分なのです。
◆盆供
お盆のお供え物、供物のことを「盆供」と言います。
お盆に行う供養のことも同じく盆供と呼びます。
◆迎え火と送り火
お盆の入り(8月13日 ※異なる地域有り)には、
「ご先祖様が迷わずに帰って来られるように」という気持ちをもって、
玄関前を照らすよう迎え火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでおいでなしておいでなして♪
お盆明け(8月16日 ※異なる地域有り)には、
ご先祖様を丁寧に送り出すために玄関前で送り火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでお帰りなしてお帰りなして♪
(諏訪地方は白樺の皮を焚いているご家庭が多いです。)
◆飾りつけとお供えもの
◎精霊棚
お盆に用いられる祭壇
(前述のとおり、お仏壇を丁寧に整えていただければ充分ですよ。)
◎盆花
●精霊棚の網に逆さに吊るす花 代表的なもの:ほおずき
(花瓶で綺麗な仏花を供えることで充分ですよ)
●禊萩(みそはぎ)の葉を束ねてお供えする 代表的な盆花のひとつです。
盆供、飾りの清めに使われていたことから、ミソギハギとも呼ばれていた。
実際に萩に綺麗な水をつけて祭壇、仏壇、盆供のお清めに使っております。
※丁寧には、蓮の葉に水を注ぎ、ナスやキュウリを細かく刻んだもの
(精霊および餓鬼への施食)を添え、そこに禊萩を供えます。
(綺麗な器にお水を注ぎ、そこに萩を供えていただくことでも充分ですよ)
◎馬と牛
お位牌の前に供えます。
馬はきゅうりで作ります。早くお家に帰ってきて下さいとの気持ちをもって供えます。
牛はナスで作ります。ゆっくり過ごして下さいとの気持ちをもって供えます。
(それぞれの足は割り箸を用いていただけたら充分ですよ)
◎盆提灯
お盆のみに飾られます。※新盆は白提灯が主です。
ご先祖様を迷わす迎えるための灯りです。
毎日暑いなかですので、みなさんがお体を悪くせず元気であることにより、
ご先祖さまに安心していただくことが第一です。
体調、健康に気をつけてお過ごし下さい。
ご心配なことなどお有りでしたら、遠慮なくお寺にご相談下さい。
真福寺施餓鬼供養法要(動画付)
8月5日10時より施餓鬼供養法要が勤修されました。
境内は美しい蓮の花が咲き、皆さんを迎えてくれました。
ご参列の皆様におかれましては、大変な暑さのなか、しかも長時間の
法要でありましたので、体には堪えたと思います。
誠にお疲れ様でございました。
これより迎えるお盆を大切にお過ごしいただきたいと思います。
とりわけ新盆の皆様におかれましては、故人の声無きお寂しいお盆となりますが、
どうぞ心をかたちにしていただき、穏やかに御魂をお迎え下さいませ。
合掌
総代役員様が法要の様子を動画編集して下さいました。
ぜひご覧下さい。
心をかたちに
第8回夏休みこども寺子屋を開催しました。
感染症対策を講じて午前と午後に分け、人数減、時間短縮により、
2年ぶりの夏休み開催を叶えることができました。
毎回思うことですが、寺子屋に集まるこどもは、日常にない何かを体験したがっている。
自分もこどもの頃はそうでした。夏休みは、特別な何かを体験したいのだと。
そういう点でお寺はこどもにとって非日常。その願いを叶えるための場所とも言えます。
こどもの願いを叶えてあげることに努めながら、軸として日常の過ごし方や心のあり方を
仏教に照らしながらわかりやすく伝える機会としたいのが、もっともの目的であります。
今回は手作りの散華を制作。
表面に写仏して自由に色を付けた仏画を貼り、裏面にはご先祖や浄土の萬霊に向けて
メッセージを書き入れました。
人に限らず犬や猫などの生きものも含め、有縁無縁のへだてなくあらゆる御魂に向けて。
お姿のみえないものや世界に向けて思いを馳せる。
これがこどもにとっては非常にハードルの高いものでありながら、いざ始めてみると、
こどもの純粋さが言葉となって現われてくる。
想像力を養う行為は心の栄養になり、こどもの仏心に光をあてることにもなります。
これからは毎年、このような機会を設けていこうと考えています。
やがてはお墓参りの心へと通じ、家の仏事を守る心の種ともなってほしいと願います。
一年生の時から毎年参加してくれた子が、今回小学校最後の寺子屋を巣立ちました。
毎回思うのですが、こどもの成長は早い。一年に一度しか会わないこどもばかりなので、
なおさらそう感じます。
今回も有志でお手伝いをしてくださるお母さま方がいらっしゃいました。
おかげで安心して進行することができ、大変ありがたく思います。
これからもぜひ地域の方のお気持ちとお力添えをいただけたらと願うところでです。
お寺を工夫して開放し、長期休暇のこどもたちの居場所と成長の一助となる環境を
精進して築いていきたいと思います。
合掌
夏休みこども朝活
こども達は、今年の夏休みも感染症予防のために活動の多くを制限されることに。
夏休みの朝といえば地域のラジオ体操ですが、これも残念ながら中止となったようです。
世情を鑑みれば致し方ありません。
真福寺は今月28日に第8回こども寺子屋を開催しますが、その前の夏休み始めから、
短期間地域のこどもを受け入れる何かができないか考えていました。
長期休暇の一日のリズムをつくるために朝の過ごし方は大切であり、
こどもたちに向けて、一週間お寺を開放することにしました。
朝7時から8時の一時間ですが、写経や座禅をしております。
仏器磨きも行い、お盆前にピカピカにしてくれました。
今後は草取りや香炉の灰替えなども一緒にやってみようと思います。
たったの一時間を過ごすのみですが、お寺の環境はこども達にとっては非日常的な場所。
清々しい気持ちを持ち帰ってもらえるよう、私もともに励みたいと思います。
「こども朝活」は今月26日(月)まで行っております。
一日でも毎日でも、参加希望があれば☎でお問い合わせ下さい。
たくさん遊び、たくさん学び、思い切った挑戦を!
明るい気持ちでよい夏休みをおくって下さい。
(大人にも欲しいな 夏休み・・・)
合掌
一本の道
あの時 こうしていたら いま頃 こうなっていたと思う
人の苦しみには、過去を振り返っての後悔のようなものが少なからずあります。
しかし、その「こうしていたら」という選択から拓かれた道は、
本当に存在していたのでしょうか。
もしかしたらそうなったのかもしれませんが、私はそういうものではないと話します。
「確かに拓かれた道」とは、振り返り後ろに延びている自分の歩んだ道のみであって、
他は存在することがなかった「想像上の道」です。
想像上の道が、確かに歩んだ道と比較して良い道であったと思う時に、
いま自分の歩む道に苦しみが生じます。
仏教では道が拓かれるのには必ず縁がともなっていることを説きます。
そう考えた時に、想像上の道はあくまで想像の域を出ず、その道が実現するほどの
縁の数々に巡り合えたかどうかなど知ることは出来ないのです。
つまりは、過去の縁の積み重ねこそがいまの自分の道であり、いまの自分なのです。
自分の道の苦しみから離れるには、この真実を受け入れることから始めねばなりません。
その道に正直になり、他と比較することに関心を持たないことです。
さて、次は未来の話です。
自分の将来にはいくつかの道があるものと考え迷われることもあるでしょう。
しかし、道は縁によって拓けるという仏教の視点からすれば、
実はここでいう道もいまは存在しない道です。
ただし、人生の歩みには選択の機会がいくつも訪れます。
その時の選択という縁によって新たな道を進むことになるのは間違いありません。
そして、ある選択を決めた時、他の選択肢からの縁は無くなるのです。
私たちが普段の生活で目にしている道は、何本も存在し、遥か先まで延びて、
その進路を戻ることも変更することも可能です。
しかし仏教でいう「人生の道」とは、
縁が瞬間瞬間重なり続けて目の前に結果として現れます。
その拓かれた結果がまた新たな縁と重なり、先の新たな道を目にすることになります。
後ろを振り返ってみると、自分の縁から生じた一本の人生の道が延びているのです。
人生の歩みには分岐点がいくつもあります。
足元にある道は因を縁として生じた結果ですが、因とは自分の心が大半を占めます。
つまり、これからも自分の心の在り方次第で選択の判断は変わってゆくはずなのです。
そのようにして、繰り返し人生の先に初めての道が生まれているのです。
この先に確かな道は見渡せず、いつまでもいつまでも目の前の縁の積み重ね。
その縁には、瞬間の自分の心の在り方が深く関わり、反映されていきます。
いまの自分が始点となって、まだ見ぬ将来の姿となっていきます。
誰もが今の自分に正直に、そして大切にその道を歩めたらいいと思います。
いつか後ろを振り返って自分の道を眺め、それを他と比較することなく、
微笑んで受け入れられる人生でありたいものです。
この道が最善の自分の道であったと。
もし、それでも正直になれず心の痛む自分がある時には、お寺にお越し下さい。
その時を語り、一緒に過ごしましょう。
合掌
先に延びて見えますか
後ろに延びて見えますか
蓮の成長を見守る
境内では蓮が育っています。
葉が大きくなってきましたが、蕾はまだ姿を見せません。
蓮を育て観察することが初めてで、この夏の開花を楽しみに追肥などしながらも、
成長が遅いものにはどう対処したらよいのかわからずに見守っております。
大変有り難いことに、3月に塩尻の郷福寺様にて蓮の苗の植え替えを教えてくださった
小原先生が、時々松本から車を走らせて、当山まで様子を観に来てくださるのです。
「大丈夫、これからこれから」
と安心な声をかけて下さいます。
毎朝早くに起きて外に出ると、そこでまず蓮の葉を覗くことが楽しみになっています。
今はまだ梅雨ですが、この先一気に暑くなるなかで成長が加速していくことを
期待しています。
寺にお越しになる方々が咲いた花の美しさに喜ばれる日が今から待ち遠しいのですが、
私はその前に、高く伸びた茎の先にある蕾、未開敷蓮華ををじっと眺めてみたいのです。
「未開敷蓮華」
それはきっと崇高であって、もっともエネルギーを内に蓄えている姿だと思います。
どこか仏教的で、どこか秘めたようなその姿を、一人拝むように眺めてみたいのです。
合掌
別れとはなにか
いくつものお別れの儀式に立ち会ってきましたが、いまだに慣れません。
自分が何をしたらよいのか、という点においては経験にともない慣れたと言えますが、
どうしても慣れていかないのは、自分の気持ちの面です。
慣れないというより、「わからない」という表現が正しいかもしれません。
通夜の読経に続き納棺の儀がありますが、その際のご遺族の様子というのは、
終始静寂に満ちていることが大半を占めるなか、激しく泣き悲しむ姿もあれば、
棺に集まり笑顔で明るい声を掛け合う姿もあります。
このような場において、人が「泣く」、あるいは「笑う」という姿に、
どこか「健康的な印象」を私は勝手に抱いてしまうのです。
しかも明るく声掛け合うような姿を目の当たりにした時など、
胸中推し量ることを忘れ、勝手に安心してしまうことさえあります。
勝手に・・・というところに、自分が僧侶としていかに未熟であるかがわかります。
さて、無常の風が止むことはなく、かなわないこととは、
どこで深い悲しみや心の痛みが襲うかわからないという点です。
通夜の際に故人に寄り添い明るく振る舞っていたご家族が、翌朝の出棺時になって
激しく泣き崩れるということがあります。
すべての儀を終え自宅に帰ってから、もっとも深い悲しみが訪れることもあります。
私がわからないのは、
いつ、どの場所が別れの時なのか、それは人によって違うということです。
そして、悲しみの深さや質もまた違い、さらには限られた時間のなかで刻々と変化する
心の姿さえも人によって様々なのです。
これは人の本質であって、わからないこともまた真理と言えます。
僧侶の役目はご葬儀のあとにも残されているのかもしれません。
あなたにとって、どの瞬間がもっとものお別れの時なのですか。
あなたの悲しみはどの瞬間からやってきて、どうしたら解けていくのですか。
正しい答えはみつけようもなく、
これほど悲しい思いから抜けていくにはどうすればよいのか?と尋ねられたら、
それは尽きるまで「悲しむしかない」としか答えられず・・・。
悲しみに効く薬が悲しむことだなんて。
でも、これも本質のように思えるのです。
悲しいの語源は、かなわぬ、と聞いたことがあります。
かなわないことは、到底わからないことなのかもしれません。
悲しみのなかで目の前の死を凝視することは大変辛いことです。
しかし、通夜では眠る故人様のお身体、お顔をよく見てさしあげてとお伝えします。
この手で働いて、この口で語り食事を楽しみ、この足で旅をして。
その目に笑みのしわを寄せ、また涙を流し。
風呂に浸かれば気持ちいいと声をあげ、怪我に体を痛めたこともあるでしょう。
ご縁のなかで心に刻まれた喜びや悲しみは、不思議とそのお顔に表れている。
その手はこどもを抱いた手、つないだ手、孫の頭を撫でた手。
誰かを背負った背中。
『すべては生きた証』
故人の生きた証を見てさしあげて、声をかけてあげられるのは、
その場に立ち会う人たちの誠に尊いお役目です。
火葬からお寺に帰って来た喪主様が、ご遺骨を手にして言いました。
半分泣いて、半分笑って、私にこう言いました。
『こんなに小さくなっちゃった。』
小さくなった父さんの身体を、今度は残された子が抱いている。
この時の表情は、どなたも不思議と穏やかであることが多い。
別れとはなにか、わからないことだらけだ。
合掌
忌明け
夕方、写経がしたいと一人の女性がお寺を訪れました。
初めての写経体験とのことでした。
納められた写経の最後には他界されたご家族のご戒名が。
一人静かに追善供養をお勤めになられたのですね。
あとで感想を尋ねると、彼女が自分と向き合う機会であったとも。
この日は、旅立たれたお父様の満中陰忌供養があった日。
そして昨年亡くなられたお祖母ちゃんの誕生日でもあったそうです。
菩提寺でのご法事に続き納骨も済まされたあと、いまいちどお寺に来て、
気持ちを整理するように、ゆっくり時間をかけ丁寧なお写経をされました。
その姿に亡き人の「徳」を感じました。
同じように、残されたご家族もまた徳を積んで前に進もうとしております。
満中陰忌の節目はお別れではなく、生きていく者と旅立ちの御魂が仏縁を結ぶ日。
ご浄土から微笑むご家族、ご先祖のお顔が浮かびます。
たくさん悲しんだ分、きっと心は耕され、新しい芽が育ち始めるのですね。
ご家族の笑顔と優しい言葉が印象的だった満中陰忌。
ありがとうございました。
合掌
真福寺ではいつでも写経体験を承りますのでご相談下さい。
菩提寺に限らず、お近くに足を運べるご縁あるお寺がございましたら、
たった一度でも、ゆっくりと時間をかけてお写経されることをおすすめします。
参道
5月の日曜仏教会に予定されていた真福寺発祥地「春季寺平まいり」は、
諸事情により開催日直前に中止となりました。
多くの参加希望者がおられましたので申し訳なく残念に思います。
その後、時あらため個人的に参りたいという方と連日登ってまいりました。
ここ数年のうちに、静かな寺平に人が通う機会が増えたことで「道」が蘇り始め、
さらに昨年の間伐事業が相重なり周囲に安全な道が拓けました。
寺の発祥地を伝え残すために、祖師興教大師像を祀って下さった65年前の役員様と
心を通わせ始めたような気がしており、今後もひとつの信仰の形として、
祖師のもとまで皆さんと歩くことを楽しみたいと思っております。
山国を故郷とする我々にとって、山を歩むことに健康と幸せを感じ取り、
その道が人と人をつなぎ、いつか「参道」となることは喜ばしいことです。
秋季寺平まいりも皆さんぜひご一緒に。
合掌
真言宗中興の祖
興教大師覚鑁上人像
薫風~お気持ちに感謝します~
3月末に塩尻市の高野山真言宗郷福寺様にて蓮の植え替え作業を体験し、
その際に分けて頂いた大賀蓮と孫文蓮の苗を真福寺境内に植え直してあります。
5月6日
大変嬉しいことに、植え替え作業のご指導をされていた塩尻市の小原さんが、
真福寺の蓮の成長を気にかけておられ、はるばるお越し下さいました。
ちゃんと芽と葉が出て成長が確認できたとのことであり、ひと安心致しました。
小原さんのご厚意により新たに白蓮も植えて下さり、境内に大賀蓮、孫文蓮、白蓮と
一体ずつならんでおります。
夏の開花、それぞれの花の彩りがいまから楽しみです。
ところで皆様、蓮の花は4日ほどで花弁が落ちてしまうことをご存知ですか。
私はまったく知りませんでした。
一時の開花ですので、興味ある皆様にタイミングよくお知らせできればいいのですが。
蓮の様子を見に来て下さった小原さんから、この他にも素敵なプレゼントを頂きました。
モミジアオイです。
夏に1.5メートル程の高さまで成長するそうです。
何処に植えようか少々迷いましたが、皆さんに見てもらえる処がよいと考え、
客殿玄関前の布袋尊の脇に植えました。
夏場に背が伸びれば布袋様が隠れてしまいますが、両脇に花咲くことで
それがお供えともなればという気持ちで植えさせていただきました。
小原さんありがとうございます。
一カ月後、6月6日の日曜仏教会は、青葉法話会と題して塩尻郷福寺の
副住職白馬秀孝君と私が法話の機会をもちます。
願わくば、再びご来寺をいただき、お会いすることが出来れば幸いです。
この日はもうお一方とのよいご縁が。
長崎県佐世保市から諏訪の実家に帰省した女子大生がお寺を訪ねて下さいました。
なんと、諏訪のご実家から高校時代に使っていた自転車に乗って。
かねてより真福寺のことを気にかけていたそうで、色々と熱心に質問して下さいまして、
お寺の活動や歴史のこと、また現実課題や地域創造に興味深々な学生の前向きな姿に
とてもよい刺激を受けました。
あっという間に時間が過ぎましたが、遠く九州からここまで訪ねて下さったのですから、
もう少しいろんな処を案内してあげたかったと思っております。
次の機会といっても難しいでしょうが、いつか帰省の折にはぜひ訪ねてお越し下さい。
いまの彼女の活躍の場である長崎における目的と行動力、その経験全てを応援します。
お寺によい風が吹き込んだ穏やかな一日でした。
合掌
花まつりの御礼
4月の日曜仏教会にて花まつりが奉修されました。
4月8日はお釈迦さまのお生まれになった日。仏誕2587年。
お釈迦様の御生誕を祝う仏教の伝統行事として全国寺院で行われる花まつりは、
家内の息災やこどもの成長を願う行事でもあり、多くのご家族に参加いただきます。
境内の見頃となった枝垂れ桜のもとでお祝いのお餅をつき、つきたてのお餅と甘茶を
口にしながらの花見を企画してましたが、コロナウィルス感染が地元に広がっているなか
拭えない不安があり、このたび飲食は控え、お餅をお土産として持ち帰って頂きました。
境内でのお餅つきは参加のお父さん方と力自慢のこども達が頑張ってつき、
持ち帰り用のお餅づくりとパック詰め作業はお母さん方が快く協力して下さり、
安全が保たれ大変に心強く、有り難い思いでした。
皆様に助けていただけたこと心から嬉しく、今後も是非頼らせてほしいと願います。
これも仏さまのご加護のもとと思うと、感謝でいっぱいです。
合掌
咲く花 散る花
境内の枝垂れ桜が満開を迎えました。
辺りの様子を窺うと目に映るのはどれも優しい色、そのなかに確かな生命力が
感じられ、誰もが好む季節を迎えたことを実感しているこの頃です。
先日、ご葬儀が終わった日の夜、ご遺族さんとお寺の夜桜を観ました。
その前には静かな夜の本堂で一緒にお経をあげました。
通夜葬儀は、ご遺族さんによりそれぞれ事情やご様子は異なり、
そこから時間をかけて立ち直っていく日々も様々です。
お寺という処は泣いていい、悲しんでいい、こどものように笑ってはしゃいでもいい。
仏さまのおられる大きな船は、人が心寄り添い、自分を受け入れられる処となればいい。
さらに明日からを歩む勇気が沸いてくるような頼れる乗り物であれば、なおいい。
きっと言葉の選択は間違っているかもしれないけれど、
「パワースポット」
突如として失った家族への深い思いを胸に、その夜、前向きな再出発を図ろうとする。
その家族の背中には、仏さまのご加護があったであろうことを感じさせるものがあり、
また、先に旅立たれたご家族の「徳」がこちらにも伝わってくるひとときでした。
僧侶の仕事もまた、ご遺族さまから何らかの形で心を満たしてもらっているのだと、
その有難みを感じることのできた一日でした。
今年の桜を皆さんはどんな思いで眺めていますか。
合掌
4月18日(日)までライトアップしております。
19時~20時 本堂も開放しておりますのでお参りいただけます。
蓮の苗を植えました
3月29日
春休み中のこども二人を連れて、塩尻市の高野山真言宗郷福寺様で行われた
蓮の植え替え作業に参加させていただきました。
初めての体験です。
一冬越した蓮根が泥の中で複雑に絡み合っていて、その中からよい苗を選んで
慎重に取り除いていきます。蓮根が除かれた泥土に何種もの肥料と水を加えて混ぜ、
再度入れ物に戻し、よい苗をひとつだけ植えなおすのです。
夏美しく咲く花ばかりをみていましたが、今回は育てる手間を知るよい機会となり、
こども達にとっても春休み自由課題としての好材料となりました。
3月31日
植え替え作業のあった日に、大賀蓮、孫文蓮の苗をひとつずつ頂戴することができ、
このたび教わったことを振り返り、こどもたちと一緒に真福寺の境内に植え直しました。
この日は今年の開運一粒万倍日、よい日を選んで苗植えを致しました。
何もかも初めての体験となりましたが、夏に美しい花を咲かすことができるでしょうか。
楽しみに観察します。皆さんもお参りの際は覗いてみて下さいね。
「蓮は泥中に育つが、その花の色は泥に染まることがない」
蓮は仏教のシンボルとされています。
泥を私達の煩悩に例え、そのなかにも仏性は育まれ、やがては水上に美しく咲く。
その花の様子を仏さまのお姿に例えています。
いまは写真のとおり、迷いのなか、煩悩しか見えていませんが~(笑)
合掌
郷福寺YouTubeチャンネル(^^)/ご覧ください!
『蓮の植え替え-2021年度版』
https://www.youtube.com/watch?v=dSGubbgza7I
真福寺境内に植えた蓮
郷福寺様での蓮根取り出し作業の様子(見た目以上に複雑に絡んでます)
僧宝~いつかこれを読みかえす時が~
春のお彼岸を迎え、境内は徐々に暖かな色に染まっていきます。
この寺族日記の投稿数が、気づけば260にもなっていました。
前の投稿で触れましたが、時折、読んでいるよと私にお声掛けして下さる方がいて、
とても嬉しく思っています。
誰が読むかもわからない、一方通行のブログ。
自分の知識と経験の少なさ、乏しい語彙力をさらけ出してるようなものでもあり。(笑)
それでもお寺に必要と思えた発信ツールを開始当時と変わらない気持ちで続けています。
好きな子に向けて書いた手紙を翌朝読み返し、どうも恥ずかしくなり消しゴムで消した
学生時代みたいに、いつか日記たちを振り返り消したくなることがあるかもしれません。
さて、今日は少し長く書きたいと思います。
先にいつも通りの駄文であることを詫びておきます。
お付き合い下さい。
いつか自分がこの寺族日記を読み返す日がくるだろうことを考えて、
「私がお寺で大切にしたいこと」について触れておきます。
これからも変わりたくない自分の一面として、ここに書き残しておこうと思います。
お寺で伝えたいことは、一言でいうと何ですか?
このように聞かれ、一言でなら、一僧侶として「仏法僧の三宝」とお答えします。
仏宝・・・仏さまと向き合える喜び
法宝・・・よき教えを生きる力に生かせる喜び
僧宝・・・よき教えにともに触れる人たちがいる喜び
三宝の説き方は僧侶によって少しずつ違うでしょうが。
日頃より、特に大切に思っているのが、三宝のうちの「僧宝」です。
僧宝とは僧侶のみならず
「よき教えにともに触れる人たち」の存在。
お寺につどい、または家につどい一緒にお経を唱えてくださる人たち。
ともに祈りを捧げてくださる人たち。
ともに輪(和)を築いてくださる人たち。
この人たちがいるから、私は毎朝一人で拝むことができる。
お寺を開いていきたいと思える。
どなたかとその場を共有できた時には、励まされ心から嬉しく思う。
「仏」「法」に皆とともに触れることができた時には素直に喜ぶことができ、
お寺の本質はきっとここにあるのだと感じました。
いえ、これはお寺でなくとも、社会の多くに通じることだとも思っています。
ともに守り、ともに歩める「仲間」がいることがいかに大切か。
環境違えども職種が異なろうとも、互いがどんなジャンルであったとしても、
信用のあるつながりはいつか僧宝となる。
仏教はそんな寛容さを秘めているんです。
このブログという発信ツールはSNS全盛の時代には少々古い。
でもこのお寺のホームページにはこれがあってよかったと思っています。
SNSは簡単に多くの人とつながることができ、常に情報を広角に届け、
また自分にとって必要な情報にたどり着くこともできます。
しかし、この溢れるほどの情報のなかに自分を見失い、
また本当の自分を隠そうとしてしまう方がいるのも事実です。
このブログを見る方の中には、この駄文でさえ頼りにして下さる人が少なからずいて、
なんとも「遅い速度」で(笑)つながっていくのです。
ホームページを見てくださっている方は、その時の感情や気分でこれを読んでもらい、
内容のうち捨てるものは捨て、拾うものは拾って下さればいいのです。
これは「僧宝の種(たね)」なんです。
いつか仏法にともに触れることのできるご縁となってもらえると。
実は、私もSNS(インスタグラム)を利用し始めてもうすぐ一年になります。
全国各地に素晴らしいお寺さんがあって、多くの素晴らしい青年僧が活動しておられ、
そのつながりに大変刺激を受けました。
そのなかのお一人が、やはり「僧宝」の大切さに触れていました。
SNS上であれば、それはまだ浅いご縁ではありますが、考え方ひとつでは、
同じ僧宝の価値観を有して心に実っていくご縁と思えます。
まことに豊かな時代。
必要なものは、求めればその多くは手にすることができる。
そんな現代の生活に、拠りどころとする神仏の存在は薄まっていると思う。
この豊かさに比例して、人の存在自体も豊かになっているかと問えば
決してそうではなく、人の苦しみと喜びの本質は変わっていない。
本当は苦しいのに、これだけ情報もあるし、物資も解決糸口もあるのだから、
甘えてはいかんのだと何かに頼ることなく、「強くあろう」とする。
「人はそんなに丈夫で潔白には生きられない。」
だからこそ、許される処、振り返る処、立ち上がる処として、
お寺が心の拠り所として開かれていなくてはならない。
たとえば、町に佇む教会のように。
ときには、人をつなぐ旅の宿のように。
各地からお寺に御朱印を求めてやってきます。
初めてのご縁であり、これが最後となる方も多くいらっしゃいます。
その一人を無下にはできません。
事実、御朱印だけ求めてくる方もいらっしゃいますが、それでも堂内を
お参りしていただき、こちらの仏さまとのご縁を結んでもらえればと願います。
お寺に多くの檀家様がいらっしゃって、私はみんなの真福寺と堂々と言えるように
ならなくてはいけないと思っています。
そのみんなの真福寺に初めての誰かがお参りをして、今日はよいお参りができたと
感じてもらえたのなら、それは寺族としても檀信徒としても喜ばしいことなのです。
これも「僧宝の種」。
いつかどこかでまわりまわってくれてたらいいと思います。
お寺に属してみて、世間様の無関心というものが一番寂しいと感じます。
私が間違っていると思えば、直接はっきりと指摘して下さる方がいれば嬉しい。
お檀家様にとって、ともに「僧宝」を感じあえるような菩提寺であってほしいし、
そのために寺族として活動を続けたいと思っています。
地域のお寺様とも、そのような絆であったのならと望みます。
三宝仏法僧の僧とは、
仏法ある処にともに触れ、ともに築き過ごしてくれる人達のこと。
ともに仏法を守り、お寺を開いて喜んでくれる人達や檀信徒様のこと。
「お寺を守り、開く」その意味を、自身この先もずっと考え続けたいし、
「皆とともに」ということを十分重んじて、願わくばそこに頼っていき、
また助けていただきたいとも願っています。
何年後かに、きっとこれを読み返す時がくるでしょう。
合掌
東日本大震災から10年
2021年3月11日
東日本大震災から10年の節目を数えます。
東北被災地の方にとっての10年、そこから遠く離れた信州に住む私の10年、
全く異なるものでしょう。
時間が流れる「感覚」は、幼い頃のもの、社会に出てからのもの、また年老いてから、
みな違うことは誰もが実感していることと思います。
過ぎ去っていく時間の質量感覚は人それぞれにも異なり、特にひとつの実体験による
感情記憶を境として、より大きく変化することがあるそうです。
被災地の方々の「10年間の思い」というものを到底計り知ることなどできません。
午前9時から観音堂におきまして、未曾有の大波にさらわれた多くの尊い命の鎮魂と
被災地の未来を守る方々への祈りを込めて、一字三礼の写経をお勤めいたしました。
波、死、苦、生、
経文には震災を連想させる字が続き、聖観音が希望の灯を届けてくださると信じて
五体投地書写を進め、筆を置いたのは午後1時30分。
自分の心に刻み忘れまいと、この先の10年に向けて手を合わせました。
このあと、午後2時46分になりましたら鐘楼堂で祈りの鐘を3つ撞きます。
ご浄土に御魂安らかであることを。
東北を愛する人たちの幸せ、未来を託されるこども達に健やかな成長がありますよう。
そしてもう一度慈しみの心の絆がつながりますように。
回向東日本大震災殉難横死者諸精霊
南無大慈大悲観世音菩薩
合掌
行動力
3月1日
住職である傍ら、まちづくりにも力を注いでいる青年僧が協力を求めてお寺にみえ、
ひと通りのプレゼンをして下さいました。
人は誰でも失敗に対して多少なりとも恐れがあると思いますが、
それにも勝り、心の底から挑戦したいことや望むことというものに
人生でいくつ出会えるでしょうか。
今日、それに出会えている人の姿を見た気がしました。
自ら行動を起こさずに現状を維持して静かに過ごし、失敗することも悩むこともない、
しかし周りがやることの評価だけはして、高みの見物ともとれる人は存在します。
一方で、なんとかしたいと率先して行動に起こし、先頭に立って挑戦し、
常に現場に出て同志を集う人もいます。
人は守られていたいのだから、痛みや苦労を覚悟のうえで前例にないことに関わろうと
する時は勇気がいります。
発起人として最後まで責任を貫こうとする人は尚更でしょう。
先頭に立つその人には勇気があるし、何より夢を叶えるだけの発想と自信があります。
苦労など吹き飛ばしそうなワクワクしたお顔をしています。
そして良き出会いにも恵まれる人だと感じます。
大きく何かが変わろうとする時、
必ずそこには失敗に挫けず邁進する先駆者がいるものです。
大げさにいうならば、歴史がそうでしたから。
心の底から叶えたいこと。
人生でいくつ出会えるでしょうか。
合掌
陰からの祈り~大念珠繰り~
このたび2月の日曜仏教会「立春写経大会」が開催され、そのなかで約一年半ぶりとなる
融通念仏大念珠繰りを行いました。
ご参加25名のうち、多くが初めての体験でした。
鎌倉時代に人々を苦しめた疫病を百万遍念仏によって鎮めたという歴史が京都の
知恩寺にあります。その地名が百万遍となるほど大念珠繰りで有名なお寺様です。
当山も念珠の会という行事が長く続いてましたが、コロナウィルス感染の影響を受けて
活動が止まり、今回大勢で荘厳な念珠繰りができたことは大変有り難いことでした。
いま直面している疫病に対する早期終息の願い、そして皆様の心の中にある様々な思い、
それを唱える念仏に込めながら念珠を回しました。
心をひとつにして影からの響き、陰からの祈りの実践です。
もうすぐ春ですね。
季節変わりの雪解けのように、世の中に長く分厚く残る不安もそろそろ解けてほしい。
明るく暖かな陽射しが人の心に注ぐことを願っております。
皆様、その後は般若心経のお写経に励みました。
どうか気持ちを新たに、この先の一日一日を健やかに過ごされますように。
このたびの写経奉納、感謝申し上げます
合掌
健康獲得
私事。
以前、人間ドックで高血圧症を指摘され、降圧剤による治療を勧められました。
自分でも驚くほどの血圧数値に怖さを感じたものの、当時の私は薬の服用を固く拒み、
ならば体重を落としなさいと先生より指導を受け、運動不足の体に鞭打とうと
毎朝3キロ弱のランニングをスタートしたのです。
強い雨が降らない限り、身体のコンディション、走路のコンディションや季節に関わらず
毎日欠かさず続けています。
それから2年が過ぎました。
体重は20キロ近く減り、血圧も下り、上下安定した数値に落ち着くようになりました。
先生と交わした約束と当初の目的は果たせたかなと思っております。
この間の運動により身体が目覚め、体力が戻ってきていることが感じられるようになり、
昨年は諏訪湖マラソンにエントリーを考えていました。(大会は中止)
毎日の運動は新たな目的を生み、体を動かせることの喜びを感じております。
今では、日課のランニングの位置づけが自分の中で変わってきました。
朝のランニングは私にとって寺の僧侶のお勤めと一緒であり、
本堂での読経や寺掃除とワンセットと捉えています。
『走る姿勢にも心が表れる』
走っていると、その日の自分の「心の中」がわかるようになりました。
何かとひらめくのもこの時間かもしれません。
読経と同じく一日の始まりには欠かせない私のお勤めとなっています。
継続は力と言いますが、目的をもって継続することが大切です。
たかが3キロ弱。
今では体力も付き、本当なら少し距離を伸ばしていきたいところ。
しかし継続の大切さを考え、無理のない量を課すことを選択して現状維持しています。
過信は決してしないようにと心掛けていますが、
自分の意志で体を改善させたことは、いつか自信になるかもしれません。
毎朝、自分の心に気づきながら、体を動かす喜びを感じながら一日が始まっていく。
人それぞれに、自分なりに続けられる何か、自分に寄り添う何か、
これがひとつでも持てると、それが自ずと生活軸ともなるのでしょう。
その生活軸が日常の枝葉を茂らせてくれます。
他人が気づいてくれること。
自分でしか気づけないこと。
他人が助けてくれること。
自分でしか助けられないこと。
ここの線引きを確かにして、健康状態を自らの心がけにより獲得していく自発性。
これは人の幸福観において大切なことではないかと考えるようになりました。
今年は諏訪湖マラソンに是非エントリーしたいです。
一緒に参加して下さる方いつでもお声掛け下さい。
合掌
片倉兼太郎家憲
1月の言葉の力には、岡谷製糸繁栄の一時代の礎を築かれた先人、
初代片倉兼太郎氏の家憲を紹介しています。
『己に薄うして人に厚うする事』
神仏を深く敬ったとされる初代片倉兼太郎は有数の神社仏閣に御寄進をされ、
出生地川岸村の檀那寺であった当山も、寺門興隆の為に誠に厚い支えを賜ったそうで、
そのお陰が今日まで継承されているのだと聞いております。
お寺の廊下には家憲が大きく貼られていて、一族の「精神」が常に目に留まります。
初代片倉兼太郎は、
「本業に精進し、漸次(物事の移り変わり)時をみて進んでいけば、
牛の歩みのように遅くても、いつか必ず彼岸(目的)に達する」
と伝えらたそうです。
まず本業に精進というのは、家憲の内容からすると、自分の日々従事する仕事を
「天職」として授かった事と受けとめ、真摯に務めを全うすることを心得としています。
そして、己に薄うして人に厚うするとは、まさに仏教でいう「利他」の精神です。
自分本位ではなく、他人の喜びや成長をまず先に考えること。
しかしながら利他は「自利あっての利他」でもあるため、己を高めないことには
人の満足、利他の成就はありません。
私がいまの仕事や使命によって人様のお役に立てるようになるには、
全くもって足らぬことばかりで、まだまだその道のりは遥か遠い。
今年も学びの経験多き一年にするのだと、自らを励まして精進します。
牛のように歩みが遅くても、目的に向かい努めてまいります。
合掌
護摩法要厳修ー疫病退散
1月4日午前10時より、観音堂において新春厄除聖観音初護摩供法要が
厳修され、厄除け、各願主様のご家内の安全と所願成就を祈願致しました。
昨年、私達は令和最初の年明けに世の安寧を願い、また東京オリンピック開催を
夏に迎えることなど、明るい話題のなかにその年への期待を膨らましていました。
しかしそのすぐ後、未知のウィルスが世界中を脅かす未曾有の事態に陥ったのです。
第一波、二派、非常に大きな第三波。
一年経とうとする今も、コロナウィルス感染の苦難から抜け出すことが出来ずにいます。
コロナ禍に失ったものが多くあるなか、得たものや新しく生まれたものもあります。
働き方の面、日常生活の面、一年のうちに世の中が一変しました。
歴史上にあった数多の転換期。それに近いものが再び迫っているのだと感じます。
この間に苦しみ耐えている人達、命をかけておられる人達が事実大勢いらっしゃいます。
このたびの護摩法要では、早くこの疫病苦の闇から脱却させてほしいと聖観音菩薩に
重ねてお祈り申し上げました。
この先は待つばかりもいられません。
禍を転じるのだという意思をもって、ひとつ、ふたつと、冷静に行動を起こしていく、
恐れに支配されるだけではない、そんな光射し込む年でありたいと思うのです。
合掌
京都総本山智積院の不動明王ご宝前において護摩祈祷加持された
疫病除のお守りが、このたび檀信徒皆様方に授与されました。
迎春 辛丑
令和3年西暦2021年新春を迎えました。
今年の初詣は新型コロナウィルス感染拡大防止の為、全国の寺社が参拝者の集中を防ぐ、
あるいは感染リスクのある接待や催しを取りやめるなど対応策を講じております。
新しい年を迎えてもなおコロナウィルス感染が収束に向かう兆しが見えず、
年始早々この話題を冒頭に書き込むことに一抹のさみしさを感じます。
昨年、コロナウィルスの世界的蔓延により世の中が一変しました。
たった一年足らずのうちにいままで変わらなかったものが変わり、
常識では有り得なかったことが極日常化していく様に正直戸惑っておりました。
世の中の変化に伴い、いよいよ寺院の在り方も見直され始めています。
しばらくはウィルスとの共存を覚悟しつつ、この先のお寺について考え深めていく
時期を迎えているのだろうと思います。
未来への希望を捨ててはなりません。
世が明るく変わることが感じられる一年を願い、一日一日を大切に重ねていくべきです。
私は天台宗の宗祖最澄上人のお言葉が好きです。
『一隅を照らす』
人に任せて世の中が明るくなることを望んで待つだけでは駄目です。
皆置かれているそれぞれの立場で「自分の身の丈」で輝くことが大切です。
身の丈でよいのです。個々が自らの小さな明かりを精一杯灯したその先に
世の大きな明かりがあると思うのです。
過去への感謝を捨ててはなりません。
人間は出来ることより出来ないことの方が多いのです。
自分の出来ない多くのことを、他の何処かの誰かが努めてくださっています。
命がけの方も大勢いらっしゃったはずです。
これからも変わらないであろう事実です。
『おかげさま』
私達が多くの「お陰によって」生かされていることは、この世の不変の真実です。
身のまわりの事をひとつひとつ受けとめながら世情を注視しつつ、
まずはこの一月を大切に過ごしてみましょう。
自分の小さな蝋燭を灯し、おかげさまと思える日を一日でも多く重ねたいと思います。
多くの笑い、出逢い、まなび、
皆さまにとって悦び多き年となりますことをご祈念申し上げます。
合掌
密~今年の世相~
今年の世相を表す漢字一文字に「密」が選ばれました。
流行語大賞には「三密」が選ばれ、私達の密に対する意識がいかに高かったかを
知らしめるものであります。
密集、密接、密閉。
コロナウィルスの感染を防ぐために、人が多く集うことや近くに寄り添い合うことを
徹底して避けるべく対策を迫られた一年のなかで、社会、経済には多大な影響が生じ、
いま私達は新たな生活様式によって過ごしております。
人との距離を保ち、いままでは良きことであった行いの多くを疑い見直すこととなり、
お寺も例外ではなく、葬儀、法事など檀務においても抵抗を感じた年でした。
密は「ひそか」と読めば秘め事を表し、「みつ」と読めば多くが寄せ合い集う様として
捉えていましたが、今年はコロナ禍にあり密を避けよと否定的に叫ばれてきたことから、
その反面で『親密』な温かみ、人の「親しみやつながり」の価値について考え直す機会が
生まれたのも事実であります。
さて、密教である真言宗には密の教えというものがあります。
それは、1200年以上昔に弘法大師が伝えられた「身口意の三密」の教えです。
身密とは体で表すこと(手に印を結ぶ)
口密とは言葉で表すこと(真言を唱える)
意密とは心で表すこと(観想する)
この三つの働きを磨き清める修行を積むことで仏となるという教えであります。
これらを平たく表現して、私達の身近な生活にあてはめることができます。
一つ、素直に手を合わせる、優しく手を当てる行為。
一つ、慈しみのある言葉、偽りなき言葉を伝える行為。
一つ、思いやる心、強く穏やかな心を働かす行為。
弘法大師が伝える三密を私達の生活のなかに生かしていく心掛けが、
今後平穏な暮らしを叶えるための「ひとつの道」となります。
しかしながら、この密教の三密こそが解っているようで実に難しい。
コロナ禍に避け続けている三密により感染を抑えながらも、生活上の抑制に不満を重ね、
人は他人を責めるようになり、あちこちで争いごとや誹謗中傷が起こっております。
振り返ってみれば、弘法大師が伝えた三密が欠如する状態に陥っているのです。
目に見えないウィルスへの恐れとその心が、目に見える禍を呼び込んでいる風潮のなか、
あらためて真言密教の三密が伝わることが、人の道徳の面でも、そして良い意味での密を
日常に取り戻すという面においても必要なことだと感じます。
「人は出来ることより出来ないことの方が多い」
今年も自分の出来ない多くのことを他の誰かが行ってくれていたのです。
命をかけて事に尽くされていた人もたくさんおられます。
例年同様に感謝の心で年を締めくくりたいと思います。
皆様、今年一年ありがとうございました。
合掌
真福寺 弘法大師像
「三密加持すれば速疾に顕わる」
弘法大師『即身成仏義』
二年まいりのお知らせ
今年も残すところ半月となりました。
先日は諏訪の平も初雪が降り、寒波到来しいよいよ冬本番ですね。
お寺はこれから大掃除をすすめ、清々しく年越しをするための準備に取り掛かります。
さて、今年の大晦日二年参りでは、各方面の寺社が新型コロナウィルス感染対策を
様々な手段で講じることについて連日報道により知るところです。
当山では、毎年お寒いなかを参られる皆様の体を温めてもらうために厄除汁や甘酒、
そしてお清めの般若湯など振る舞っておりますが、今年は誠に寂しく残念なのですが、
ご接待のすべてをご用意できないこととなりました。
なお、縁起物は例年通り、本堂において販売いたしております。
「除夜の鐘」は例年通りに順次人数制限なく撞いていただくことができますので、
お誘い合わせてお越し下さい。
(打鐘後に手指消毒をさせていただきます。)
大晦日二年参り
23時 お焚きあげ供養(古札などお持ち寄り下さい)
23時20分 先祖供養
23時40分 除夜の鐘
年明け1時 終了
どなたもお参りいただけます。
堂内、境内を温めて皆様をお待ち申し上げます。
今年最後の日曜仏教会
12月6日(日)、今年最終となる日曜仏教会が開かれました。
今回は京都友禅和紙を使ってのワークショップ。
正月に向けた箸袋と御朱印帳づくりを楽しみました。
新型コロナウィルス感染が再拡大し、大きな楽しみを求めることができない世情のなか、
近くにささやかな喜びを見つけることがとても大切なことと感じます。
ご参加皆様の新年の年明けには、手作りのものを手にして家内に明るい笑顔が
見られるといいなと願っております。
このたびはこども達の参加も多く、境内の石拾いを手伝ってもらいました。
15分の間にたくさん石を拾い集めてくれたおかげで、庭が綺麗になり感激です。
ご褒美に模擬の10円を100円づつ渡し、この日だけに設けた駄菓子屋で
買い物を楽しんでもらいました。
大人の参加者には身近な仏教仏事に関する3択問題を10問挑戦してもらいましたが、
「身近」というにわりに難しい問いだったようで、問題をつくる私も勉強になりました。
本来仏教は私たちの身近にあるものなのですが、その教えを必要とせずに暮らせる毎日に
仏教の存在は遠く関心のないものになっていきます。
しかし仏教は「生きるための仏教」であり、その教えは私たちが健やかに暮らすための
拠りどころとなるはずなのです。
お寺は誰かが亡くなってから足を運ぶだけではなく、生きているうちに求めて通い、
そこで何かを学び、そこに何かを置いていき、そしてそれが励ましや喜びにつながって
いくものと思うのです。
お寺や神社は地域多世代交流の処として相応しく、寺は仏教の教えが流れていることを
これから長い時間をかけて伝えていくことが、当山の日曜仏教会の趣旨であります。
何よりそれをご来寺の方が受け取ることで心潤い喜んでもらいたいと願い、
来年からも精進し努めてまいります。
多くのご参加の皆様、お手助けしてくださった皆様ありがとうございました。
合掌
ご本尊のお力~私の知るリーダー~
京都の本山で僧堂生活をしていた頃の我々の寮長(同期修行僧の長)は、
とても立派な方で、今でもお世話になる機会があります。
まだ入寮したての頃、長時間の正座ができない仲間が何人も居て悩みのひとつでした。
その寮長が克服の糸口に施してくれたのが、「正座の会」というものでした。
毎晩、正座を苦にする人たちが畳教場の本尊前に集い、10分程度の正座をする。
ただ、それだけのことです。
毎日、寮長も仲間と一緒に「座る時間」を共有しているようでした。
一時間以上の正座を強いられる本山のお勤めに対して、その程度のことを続けた
ところで正座に慣れるものかと、その様子を見た当時の私には半信半疑でした。
結論から言うと、その仲間は早くに正座を克服していったのです。
互いに信頼を築き、ともに耐える気持ちを養ったのかもしれません。
私たちの不動のリーダーであった寮長は元々お医者さまでした。
何か根拠があったのかもしれない。
根拠はさておき、私にはそれが人をまとめる指導力と厳しさ、
そして何よりも利他の精神に満ちた人の優しさに映ったのです。
まもなく卒業から20年になる今も、それを鮮明に覚えています。
話は変わり、先日小学2年生の息子が悪さをして、叱ることがありました。
この件を息子にどう叱ったら伝わるのか、反省できるのかわからなくなりました。
どうしたかというと、その場で理解させることをあきらめて本堂へ行き、
ただ一緒に静かに正座することに決めたのです。
その理由や根拠など持ち合わせていません。
ただ二人で座ろうと思ったのです。あの頃の寮長の姿が心にありました。
息子には大変厳しいことだとは思いましたが、姿勢を正して動くことなく、
30分間座るぞと告げて始まった、ご本尊前での二人きりの正座。
今の時代、これは体罰ともとれるのでしょう。
答えをもたない微力な親の、根拠のない表現の仕方。
私にとっては親としても反省をする時間でした。
実は、息子と正座した静寂の30分間がなんとも心地よかったのです。
小学2年の息子はどうだったのでしょう。
それを聞くことはあえてしませんでしたが、すっきりとした表情をしていたと思います。
そして、30分間よく動くことなく正座を続けたなと、私は正直驚きました。
「自覚を促す」
これが、ご本尊のお力です。
いまは十分な反省ができなくても、時間をかけて自分のしたことを理解して、
今後同じ過ちのないようにしてほしいと思います。
おそらく私自身、親としての反省の機会も続くでしょう。
いくつになっても、我が子と根拠もなくご本尊の前で座ろうと思います。
私の修行時代には、一緒に悩み、反省し、喜んでくれるリーダーがいました。
そのリーダーはきっと、ご本尊のお力があることを知っていたのだと思います。
合掌
小さなまちの小さな店に
私よりずっと若い僧侶がSNSで発信されたメッセージを一部抜粋して紹介します。
昔はお寺に親しみがあるのが
ごく当然のことでしたが
生活の考え方の多様化により
また信仰の継承がなされず
仏事が疎かになる時代となってしまいました
なぜこのような現下に陥ったのか
昔はお寺で子どもたちが駆け回る景色が
当たり前であったのに
私たち僧侶がお寺の敷居を勝手に
高くして近寄り難い存在にしてしまったのです
―――――――――――――――――
私はこのメッセージに共感をおぼえました。
時代という一言で片付けるわけにはいかない。
そう思うのです。
『物の興廃は必ず人による』
弘法大師のお言葉です。
この先に僧侶がどう行動を起こし、
どのような縁を結んでいくのか。
これに尽きるのではないでしょうか。
先日、下諏訪町のとある店に立ち寄りました。
若いご夫婦が営む、駄菓子とクラフトビールとコーヒーを扱うお店です。
下諏訪町といえば、近年関東圏からの移住者が増え始め、
その方たちが小さく営むお店が町の人の心を温め、
町の内外から人が集まるようになっています。
人が気兼ねなく交われる居場所が町のなかにいくつか存在しています。
その店はお寺よりもお寺らしいというか。
店の人は僧侶よりも僧侶らしいというか。
うまく表現できないのですが、本来お寺にあるべきもの、
あってほしいものを持ち合わせているのです。
よい町には必ずそういうお店が存在します。
そういうお店があるエリアはよい町になっていくと感じます。
小さなお店に足を運ぶことは、お寺を考えるにはとてもよい機会です。
いま、全国で多くの若い僧侶がお寺づくりに悩み、向き合い始めております。
合掌
発心・修行・菩提・涅槃
境内の紅葉が進んでいく一方で、落ち葉掃きに時間を割く日々が続いています。
掃いて集めた葉を段ボール箱に収めることの繰り返しに少々刺激が欲しくなり、
つい遊び心で始めてしまった落ち葉アートです。
さて、お寺では11月の日曜仏教会が行われました。
今回は焼き芋と腕輪念珠づくりを楽しみました。
総代さんと友人の協力をいただき、一度に35人分の紅はるかを焼きました。
境内に漂う焼き芋の良い香りにみなさん喜んで下さいました。
とても甘く焼きあがったなかで焦げてしまったものもありましたが、
これも焼き芋の魅力のうちだと思っています。
腕輪念珠づくりは、指先に集中してもくもくと取り組む時間にデトックス効果が
あるんです。お好みの念珠を手首につけることはできましたでしょうか。
真福寺の月例行事は4つあります。
実はこの構成を四国巡礼に真似ております。
27歳の時に43日間かけて四国八十八か所霊場を歩き遍路した
際の気持ちを振り返りながら、ひと月のルーティンを考えました。
一、徳島ー発心 (ついたちまいり)
二、高知ー修行 (日曜仏教会)
三、愛媛ー菩提 (写経会)
四、香川ー涅槃 (てらよるヨガ)
月初めの「ついたちまいり」は発心の道場。
身を正し、気持ち新たに出発する日と位置づけ、
お寺はそんな思いで皆さんを迎え、本堂でおつとめをして、
そして朝粥を一緒にいただき、お見送りするのです。
「日曜仏教会」は修行の道場。
その催す内容は月ごとに変わります。
仏教に触れる機会、地域の人と交流する機会と位置づけ、
これは参加者にとってもお寺にとっても学びの行事なのです。
「写経会」は菩提の道場。
自分の菩提心を育てる機会と位置づけ、
大切な何かに想いを馳せる、祈る、そして自分の様子を知り、
心の軸を整える自分磨きの行事です。
月末の「てらよるヨガ」は涅槃の道場。
ひと月の内省の機会と位置づけた一時間のヨガ。
断捨離につとめて自分を癒す時間、心身ともにリフレッシュして翌月につなげて
いく為の時間、自分の心と身体を満たして自宅にお帰りいただくための
貴重な自分時間と非日常空間です。
皆求めるものは一緒ではなく、自分ひとりでも求めるものが一定せず
心の様子は移り変わっていきます。
どうぞその時の自分の興味関心でご参加いただけると幸いです。
どなたもご参加いただけます。いつでも気軽にお越し下さい。
合掌
後悔も人生経験
小学2年生の息子が手紙をくれました。
『いつもあそんでくれてありがとう』
とても嬉しかったけど、どこか申し訳ない気持ちになりました。
なぜかというと、私は寺族としてお寺が職場でありながら住まいでもあるため、
こどもといつも一緒にいられるのに満足するほど遊んであげていないのです。
それでもありがとうと言ってくれるなんて、こちらこそありがとうです。
日頃楽しませてもらえているのは親の方。
保育園に通う3歳の娘は口が達者でよく喋りますが、
こどもならではの言い間違えや思い込みを聞くのも楽しい。
◇ジャングルジムのこと
一週間前・・・ジャングルジム ➡ジングルジャム
(この程度なら十分わかる)
つい先日・・・ジングルジャム ➡じんぐるぶし
(もはや遊具ではない!)
◇学校のこと
昨日の朝・・・『お父さん、みこねぇ~、大きくなったら学校行くんだ~』
『お父さんももう少し大きくなったら学校行ったら~?』
(もう人生折り返してます!)
あらためて、これから学校に進むこどもの将来は大切で明るい。
大人の多くは昔を想い、あの頃はよかったとか、あの時をやり直せたらどうのとか、
そう思うこと、後悔のひとつやふたつはきっとありますよね。
私はもう学校に行き学ぶことは叶いませんが、成長するという意味で
もう少し大きくなることはできます。
いや少しどころか、まだまだ学ばなくてはならないことだらけです。
後悔も人生経験のうち。
親としての後悔もないようにしようと息子の手紙から思いました。
『あの頃、もっとたくさん遊んであげれば良かった』って。
『もっといろいろ教えてあげれば良かった』って。
こどもの将来、大人としての将来、時の長さや質は違うけれど、
「今日がまだ見ぬ未来へのはじめの一歩」ということに
誰も変わりはないのです。
さあ、今日をどう過ごしますか。
合掌
ほとけにであう
僧侶になってから聞かれたこと。
「仏に出会うってどんなことでしょう。」
仏さまに出会うということ。
その答えはひとつじゃないですよね。人それぞれかと思っています。
例えば、朝の陽を喜び、ありがたく感じること。
例えば、日暮れどきの空に感謝を想うこと。
日の出に関して言うならば、元日のご来光が特別なことではなくて、
毎日の朝日にそんな気持ちで向き合えるか。
日暮れに関していうならば、今日もベストではなかったけれど、
どんな一日であれ反省があり、ありがとうの気持ちが持てるかどうか。
これはあくまで、私が漠然とそう思っているだけのことです。
さて、どうでしょうか。
こう考えた時、人の心とはなんて身勝手かと思うのです。
自分の都合で手を合わせたり、平気で背を向けたり。
人の「ものさし」こそが神仏に向き合う難しさともいえます。
インド 霊鷲山で観音経を唱える(2019年2月)
でも、誰もいままで一度はあると思うのです。
朝日を見て一日が希望に始まり、沈む夕日を見て一日を感謝に終えたことが。
とてつもなく大きな力に包まれていると、理由もなく深く感じたこと、
それが仏さまに出会うということなのではないでしょうか。
お釈迦さまの掌を飛んでいただけだったという孫悟空の話が好きです。
自分の力など大したことはない。
これまでの何事も、これからの何事も神仏の中のこと。
無常の世がどう変化していこうとも、自分がどう流されていこうとも、
変わらない大きなものがきっとある。
人の心のなかにもきっとある。
誰のなかにもきっとある
そんな宗教性を謙虚に受け入れて生きていけたらいいと思います。
そんな気持ちで仏さまに、そして目の前のコトに手を合わせてみて下さい。
きっと出会えると信じています。
みなさんにとって、ありがとうと思えて終われる日が一日でも増えますように。
合掌
諏訪湖
第7回こども寺子屋開催の御礼
夏休みのこども寺子屋が延期され、このたび10月3日(土)開催されました。
新型コロナウィルス感染対策を講ずるために、開催前よりご家庭に体調面、行動面の
管理などをお願いし、内容も時間短縮、定員減、大きな発声を要しないプログラムと
致しました。
有志サポーターとして集って下さいましたお母様方、中学生のお力添えをいただき、
こどもに目を届かせて安全を保ちながら、且つ順調に進行することができました。
本当に心強く、主催側として余計な力を入れることなくプログラム対応できたことに
感謝の思いです。
『ぼくが命をいただいた三日間』
という映画を見ることで、
日頃の食事、いただきますの言葉について考える機会をもちました。
いただきますに込められた意味
『自然界の恵みへ』
・・・育ってくれた命、いただく命への感謝の言葉
『万人の思いへ』
・・・いつか口にする恵みの命を育ててくれた人たち、
食材としてここに届くまでに携わった多くの人たち、
そして美味しく食べれるように料理してくれた人への感謝の言葉
このことについて常に思いを巡らせることなどできませんが、
声に出す「謙虚なカタチ」は習慣としていきたいものです。
『いただきます』
ワークショップは4グループに分かれて京都友禅和紙を使ったご朱印帳づくりを行ない、
それぞれサポートのお母様方、中学生が指導して下さいました。
好みで選んだ模様の和紙が表紙となったご朱印帳を持ち帰り、今後ご家族と
神社やお寺へお参りの際には、ぜひそれを手にして出かけてほしいと思います。
ご縁を重ねていくなかでご朱印が集まることで、自分の朱印帳に愛着が沸き、
寺や神社を身近に感じてほしいと願います。
最後に十善戒写経を行いました。
締めくくりの願いごとには、
「早くコロナが収束して平和が戻ってほしい」
と書いたこどもがもっとも多かったです。
大人の講じる感染対策に素直に従い、世の変化に流されるままに流され、
いくつも失った思い出づくりの機会があったであろうこども達こそ、
日々よく耐え忍んでくれているなと思うのです。
こどもなんだから、もっと自由に夢や願いを描けないものかな、という気もしましたが、
きっと身近な親や先生方あるいは世の人の思いを解ろうとしてくれているのでしょう。
こどもたちにもありがとうの気持ちです。
卒業を迎える6年生のこども達も参加してくれて、
今回開催が叶ったことに感謝いたします。
お支えくださったサポーターの皆様ありがとうございました。
来年は、きっと夏休みの一日をへとへとになるまでこどもたちと過ごす寺子屋が
実現されることを信じ、日々精進したいと思います。
合掌
お彼岸に思う
秋の彼岸、こどもを連れてご先祖さまのお墓に香を手向け、石塔を磨き、
手を合わせてまいりました。
我が家の先祖ならびに先代住職方が眠るお墓はお寺から100mほどの所にありますので、
お盆や彼岸以外にもたびたび訪れては草をとったり、花を手向けたりしております。
このお寺に住ませてもらっている我々は、これから先もお墓の世話をすることが
できるでしょう。
そして成長するこども達も、将来はきっとそうしてくれるものと信じています。
霊園をみると、お手入れのされていない聖地、石塔が増えております。
まさにこの様子を表すように、お檀家様や葬儀で関わった方などからは、
将来お墓をみる人がいないのだという話を聞くことが増えました。
実際に近年墓じまい、また仏壇じまいをされる方がいらっしゃいます。
現在、核家族化は実に全体の90%に迫り、且つ少子化が進み、
家内仏事の継承に大きな影響を及ぼしています。
お墓に関していうと、墓は家族で入るものという考え方は既に変わってきております。
それに伴い、お墓購入の選択肢も多様化し、家墓ではなく合葬思考が強まり、
永代供養墓、夫婦墓、特に樹木葬は需要があるそうです。
意志として家を継がない、墓を継がない、仏壇を継がない、
あるいは物理的に継げないという現実。
新時代を生きる私たちはこの先どうしたらよいのでしょうか。
幸せな未来の形とは、はたしてどのようなものなのでしょう。
世の中が変わるということは、生活における人の考え方や求め方も変わります。
死生観の変化もそのひとつにあります。
いままで長く大切にされてきた価値さえも変えるべきところは変わり、
変わらないことが尊いと思えるものは変えないで保つ。
その柔軟さが問われ、変化に頑なに逆らっては淘汰されてしまうものもあるでしょう。
私たちはとても難しい問題に直面しているのです。
お墓については最近こんな話がありました。
先々の自分達の墓を事前に備えておこうと、聖地区画を購入しておいたところ、
それを知ったこどもが、将来、お墓の掃除や維持が大変だから返してきてくれと。
私はおそらくこどもは遠く離れて暮らしているのだろうと考えお尋ねすると、
同じ町に住んでいるのだという返事を聞き驚きました。
後に残る人たちに迷惑や負担をかけまいとする考えは「終活」ブームを生みましたが、
残る人たちの考え方は決して一致しておりません。
施しともいえる終活が結果満足に至らないとなると本当に難儀なことです。
葬式仏教という言葉があり、お寺は人が亡くなってから行く処、
僧侶は人が亡くなってからがお仕事、という意味が含まれています。
しかし、この解釈のみとするならば大きな間違いです。
お寺は生きているうちに訪ね、仏教は生きている人が触れるべき教えなのです。
僧侶は多くの人と接して布教教化につとめながら、同時に人から多くの話を聞き、
将来のよい形をみなさんと一緒に考えるようにしなければなりません。
ご縁ある人たちと楽しいことも辛いことも共有するのが寺の在り方です。
後の人に迷惑をかけたくない、この一心で物事を決めてしまうこと。
面倒なことはしたくない、この一心で遠ざけて考えてしまうこと。
そこに「諦め」の感情が含まれているのなら、まだ決断は早いと思うのです。
お寺に是非お話をしに来ていただきたいと思います。
迷いがあれば慌てることなく話し合いと相談の機会をもって下さい。
お墓や仏壇は「心のバトン」です。
バトンを渡すべき人がいるのなら、その人に早くから心を伝える姿勢をもつことです。
子育て世代の方には、お墓参りはこどもと一緒に行くことをお薦めします。
出来る限り仏事をともにすることをお薦めします。
なぜなら、心のバトンとは、ある時突然に渡せるものではないのですから。
日頃の供養は、自分達を養うことでもあり、生きる力そのものです。
合掌
慈しみ
秋の風を感じるようになりましたね。
朝、庭にいると鳥に追われる蝉を見かけます。
夏場に懸命に鳴いた蝉たちの最期。
強いものが弱いものを喰らう。
生きる為の世の常、大自然の掟とも言えます。
能力高く、知恵をもつ人間も生きるために毎日のように
多くの命をいただいています。
知恵をもつことで大自然を自分達の都合に合わせて活用し変化させ、
豊かな暮らしを手に入れた人間は、まさに強者の立場にあり、
なお進化を図ろうとしています。
インターネット社会となって久しく、人対人は直接的接点をもつ必要がなくなりました。
コロナ渦にある今、オンライン機能を充実させた新たなビジネススタイルや
コミュニケーションシステムが普及し、令和の世はこのような社会に加速して
向かうのだと疑いありません。
まさに、歴史上災い転じて進化し続けてきた人間の強さと感じております。
しかし一方でコロナ渦に感じたことは、人間の「目に見えぬもの」に対する恐れです。
目に見えぬものによる支配により、人は人を責めるようになり、許さなくもなりました。
目に見えぬ恐怖から生まれた傷つけ合いは「人間の弱さ」です。
インターネットの普及によって人は匿名で言葉を発信することを許されるようになり、
インターネット上は名もなき人の言葉に溢れています。
その膨大な言葉たちは、建設的な議論やポジティブなメッセージもあれば、
一方で大変ネガティブな内容が蓄積されているという事実があります。
そのひとつが、匿名による個にむけた攻撃です。
悪しき言葉がさらに強い攻撃性をもつ言葉を呼び、大きな塊となって個を攻め続け、
とことんまで弱らせていったその先に悲劇があります。
自分を見えぬものとして人に力を加え、結果傷つけることも弱さです。
攻められて苦しむ側にとって、相手が見えないことは恐怖でしかなく、
目に見えぬ恐怖という点では、ウィルスと一緒です。
姿形を変えて拡がり、理なく侵入するウィルスそのものです。
新型コロナウィルスが拡がりをみせ、人の生活を変え始めた頃、
多くの人は口をそろえてこう言いました。
『私たちに気づきをもとめている』
『私たちは試されている』
地球はひとつの生命体です。
大きな生命体に共存する人間は、目に見えぬものに等しく恐怖を覚えました。
人はきっと弱い生き物。誰も一緒だと思います。
恐怖を受ける側の気持ちや痛みを、きっと理解できるはずなのです。
人の言葉は人を通じて生き続けます。
私たち自身が目に見えぬ恐怖の存在になってはいけません。
真言宗は、地球さらには大宇宙という生命体を大日如来と捉えております。
仏法は遥かにあらず、万事には気づきがあるものです。
そして、常に試されていると思って間違いありません。
人の世を豊かにする更なる進化に潜む新たな恐怖や悲しみを生まないこと。
それは私たち一人ひとりの仏性、思いやりの心ひとつです。
次の写真は平成25年4月に篤信のお檀家様より、
先祖代々菩提の為に寄贈いただいた参道の石碑です。
合掌
第7回真福寺こども寺子屋の開催案内
全国的に大変厳しい残暑が続くなか、諏訪の平では秋の気配も感じ始めたこの頃です。
この夏は新型コロナウィルス蔓延の影響を受け、その過ごし方は特別なものとなり、
地域住民の諸行事はまったく行われず、お寺が夏休みに開催していたこども寺子屋も
延期とさせていただきました。
私どもの地域は、こども達が集って賑わう諸行事やお祭りも例外なく中止となり、
寂しかった夏として我々の記憶に残ることとなりそうです。
寺子屋の延期を決めて以降、多くの親御さんから開催を待つ声をいただいていたなか、
なかなか詳細をお伝えできずにいましたが、このたび予定通り秋の開催を決めました。
詳細は、ホームページ『新着情報』をご確認下さい。
安全面を重視するために、募集内容や設営に制限を設けての開催となりますが、
ご理解をいただきたいと思います。
そして参加のこども達とは、今回も充実した時間をともにしたいと決意致しております。
今年は秋の寺修行、ご参加を楽しみにお待ち申し上げます。
合掌
お地蔵さま
こども達が高尾霊園の六地蔵のお帽子、前掛けの交換をしてくれました。
色褪せて、ずっと気になっていましたが、これで安心してお盆に入ることができます。
こども達には心からありがとうと言いたい。
今年の市内小学校の夏休み期間は例年の3分の1程に縮小。
しかもどこにも連れていってあげられそうもありません。
新しい生活様式というものに我々はなかなか馴染めませんが、
むしろこども達の方が新しい波に抵抗なく乗れていると思いませんか?
明るく過ごしてくれているこども達の心を大人達が乱してはいけませんね。
お寺の境内、お墓、道端、いろんな処でお見かけするお地蔵さま。
昔から地域住民の暮らしやこどもをお傍で守ってくれていると伝わりますね。
きっと住民の願いを込めて祀られたものばかりでしょう。
願うからにはお世話もしないといけません。
守っていただくには、守ってさしあげなくてはなりません。
きっと昔々のこどもたちは、地域のお地蔵さまに心を育ててもらったのですね。
今年は記憶に残るであろう特別な夏になっております。
我々はこれからご先祖さまのお墓のおまいりに向かいます。
変わりなくお盆が迎えられることに感謝いたします。
合掌
季節を感じて
今年の梅雨は長い。
とにかく雨が降り続き、庭作業が進まず気持ちも沈みがちでした。
時は夏の盛り8月に入りました。
客殿玄関に飾られている金沢風鈴が心地よい音を響かせています。
毎月一日の朝は、ついたちまいりがあります。
お参りのみなさんと本堂でお勤めをし、その後客殿でついたち粥をいただきます。
毎月、日を定めてみなさんとお顔を合わせ、一緒に功徳を積みたいと思います。
毎日コロナウィルス感染症の話題が尽きず、常に不安を抱えているせいか、
この夏は日だけが過ぎ去っていくような感覚をもっております。
夏のお祭りや花火大会など、大いに賑わう地元の恒例行事がことごとく中止となり、
季節を感じとれる機会の多くを失ってしまいました。
季節を感じるひとつとしてあげられるお盆が近づいてまいりましたが、
みなさま、今年はどのようにお過ごしになられますか。
家族集って例年通りというわけにはいかないところもおありかとお察しします。
できる範囲、お心を伝える範囲でよいのだと思いますよ。
ご先祖さまのご供養の支度を整えてまいりましょう。
お盆に向けての支度と心得
ご家庭にてお盆の準備がすすめらていると思います。
盆前にあわてることなく、今から少しずつ家内、お墓などを清め整えていただき、
安心してご先祖さまをお迎え下さい。
盆の準備にお迷いの方は次を参考までにご覧ください。
ご自宅での迎え盆とご供養
◆精霊棚
お盆の飾り付けには精霊棚と盆提灯などがあります。
※丁寧にはお仏壇から位牌を取り出し、お仏壇前に改めて精霊棚を設けて飾りつけ、
そこに位牌をおいて供養する形、地域によりしきたりがあります。
しかし「絶対のカタチ」ではございません。 多少負担ともなりますので、
常日頃の通りにお仏壇にて礼拝し供養差し上げることでも充分なのです。
◆盆供
お盆のお供え物、供物のことを「盆供」と言います。
お盆に行う供養のことも同じく盆供と呼びます。
◆迎え火と送り火
お盆の入り(8月13日 ※異なる地域有り)には、
「ご先祖様が迷わずに帰って来られるように」という気持ちをもって、
玄関前を照らすよう迎え火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでおいでなしておいでなして♪
お盆明け(8月16日 ※異なる地域有り)には、
ご先祖様を丁寧に送り出すために玄関前で送り火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでお帰りなしてお帰りなして♪
(諏訪地方は白樺の皮を焚いているご家庭が多いです。)
◆飾りつけとお供えもの
◎精霊棚
お盆に用いられる祭壇
(前述のとおり、お仏壇を丁寧に整えていただければ充分ですよ。)
◎盆花
●精霊棚の網に逆さに吊るす花 代表的なもの:ほおずき
(花瓶で綺麗な仏花を供えることで充分ですよ)
●禊萩(みそはぎ)の葉を束ねてお供えする 代表的な盆花のひとつです。
盆供、飾りの清めに使われていたことから、ミソギハギとも呼ばれていた。
実際に萩に綺麗な水をつけて祭壇、仏壇、盆供のお清めに使っております。
※丁寧には、蓮の葉に水を注ぎ、ナスやキュウリを細かく刻んだもの
(精霊および餓鬼への施食)を添え、そこに禊萩を供えます。
(綺麗な器にお水を注ぎ、そこに萩を供えていただくことでも充分ですよ)
◎馬と牛
お位牌の前に供えます。
馬はきゅうりで作ります。早くお家に帰ってきて下さいとの気持ちをもって供えます。
牛はナスで作ります。ゆっくり過ごして下さいとの気持ちをもって供えます。
(それぞれの足は割り箸を用いていただけたら充分ですよ)
◎盆提灯
お盆のみに飾られます。※新盆は白提灯が主です。
ご先祖様を迷わす迎えるための灯りです。
毎日暑いなかですので、みなさんがお体を悪くせず元気であることにより、
ご先祖さまに安心していただくことが第一です。
体調、健康に気をつけてお過ごし下さい。
ご心配なことなどお有りでしたら、遠慮なくお寺にご相談下さい。
合掌
お寺でヨガ
今月より茅野市にあるthe BIRTH&days代表インストラクターの北原愛さんを
お寺にお迎えして、1時間のヨガレッスンを始めました。
お寺で「夜」のヨガ
お寺に「寄る」ヨガ
ということで、
『てらよるヨガ』という毎月行事です。
北原さんの指導のもと、本堂に穏やかな時間が流れ、
荘厳な一体感も生まれました。
日頃使われていない体の動きだったり、意識することのない呼吸だったり、
そういう部分に意識を集中させて実践するヨガは、とても内観的。
慌ただしい日常に、自分に向き合う穏やかな時間はとても貴重。
ひと月の終わりに心と体を整えてリラックスしてもらうこと。
そして、夜のお寺でのひとときから心を満たしてお帰りいただけたら嬉しいです。
毎月25日 19時~20時
定員20名
学生からご年配の方まで、男女問わずにどなたもご参加できます
参加費
当年度初回1,000円/当年度2回目以降500円
毎回申込み制(お寺にご連絡下さい)
安心してご参加いただけるよう安全面の対策を講じて設営いたします。
ヨガに興味ある方は、ぜひこの機会に始めてみませんか。
自発的な健康づくりにエンジンをかけましょう。
合掌
不忘念~雨上がりに見た蓮~
長く続いた雨が止み、境内の様子を窺うと水連が咲いていました。
仏教の象徴とされている蓮の花は、いつ何処で見ても綺麗で癒されますね。
真福寺境内の蓮
つい最近のことですが、小学校の頃の同級生のお母様と話す機会に恵まれました。
記憶のなかでは、ゆっくりお話をしたことはなく、初めてのことなのかもしれません。
身のまわりのことなど様々な話題に触れ楽しい時間を過ごしました。
そのなかで、やはり遠い昔を振り返ったお話をされました。
私が小学校の頃、どれほど悪戯ばかりして周囲を困らせていたか。
人を泣かせていたか。
すでに忘れており、それを聞いて恥ずかしいやら、申し訳ないやら。
僧堂修行から帰ったばかりの頃、中学時代の同級生のお祖父さんとお話させて
いただく機会がありましたが、その時もやはり似たような中身でした。
みなさんにある私の記憶は、ほぼ等しく当時の悪行ばかりのようです。
いまさらごめんなさいと言っても何の説得力もなく、
重ねてごめんなさいと言いたくなります。
そして一言、それが立派になったもんだわ・・・と言われた時には、
なんとも言えぬ、どうしようもなく「複雑な」気持ちになります。
昔に比べればまともになった、ということなのでしょう。
さて私自身はどうかというと、
いまは僧侶として全うにお勤めさせていただけていることに感謝しております。
ひとつ確かに思うことは、それはお寺のご本尊さまのおかげなのです。
毎日欠かさず、早朝の清々しい時間にご本尊様のもとでお勤めをすることが、
私の「内省」の時間にもなっていて、そして身を正すことにつながっています。
お寺が素晴らしい処であることが、お勤めを重ねることでわかるようにもなりました。
お釈迦さまが最期に説かれたとされる「八大人覚」のなかに、
(八大人覚ー少欲、知足、寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論)
『不忘念』という言葉があります。
簡単にいうと、仏の教えを失うことなく、心に留めて過ごすことです。
初心ともいえるものでしょうか。
戒めともいえるものでしょうか。
これがあれば、恐れることはないのだと説かれています。
今日一日を始める時、この言葉に励まされているといっても過言ではありません。
とはいえ、暮らしのなかでは一瞬で欲望に流されそうになることもあります。
気を抜けば、すでに流されてしまっていることだって多々あります。
正直、私は昔とそう変わらず、法衣に守られているだけなのかもしれませんね。
そんな自分が、仏教は大切だ、この勤めが大切だと念じて身を正せるのは、
やはりこの寺のご本尊様のおかげ。
素晴らしい仏さまのもとに、皆さんにも足を運んでいただきたいと
心から思います。
蓮は水中の汚泥に染まらず花を咲かせます。
人も迷いの中から花を咲かせることができるのではないでしょうか。
合掌
辰野町童謡公園の蓮
ワークショップ~ご朱印帳づくり~
真福寺日曜仏教会にてオリジナルのご朱印帳を作製しました。
京都友禅和紙の模様が素敵で、表紙選びにワクワクします。
表裏異なる絵柄にしてもよし。
仕上がりは想像以上に可愛らしいものになります。
ご自分の朱印帳に愛着をもち、神社仏閣などの御朱印めぐりが
身近なものになっていただけたら幸いです。
ワークショップ開催にお知恵を貸して下さった「紙TO和JAPAN」さん
ありがとうございました。
自らの意思で神仏のもとへ歩み、「感謝」や「祈り」に心を込める。
おまいりで心を整えて自分の日常に実ちて帰る。
人に内在する心の面に向き合っていくことが、きっとこれから求められます。
時々、ご家族や大切な人とそんな時間を共にできたら、幸せなことだと思います。
合掌
真福寺日曜仏教会―毎月第1日曜日14時(変更月有り)
8月の日曜仏教会はお休みです。
9月は「秋彼岸奉納写仏」を行います。事前にお申込み下さい。
アンテナ
今日は朝から雨が降ったり止んだり。
湿度高く、蒸し暑いいかにも梅雨らしい一日。
夕方、晴れ間が覗いたので外に出ると、東の空に虹が架かっていました。
綺麗な虹を眺めたのは久しぶりです。
自然は刹那的に美しいお姿を創造して私たちに見せて下さることがあります。
それはいつなのか知ることはできませんが。
人にはそれぞれにアンテナがあるそうです。
良いご縁や好機と呼べるものがまわりには必ずあり、
それに出会える人とそうでない人に分かれているようです。
その差は自分のアンテナをいつどのように働かせているか、
あるいはその高さや感度によるものでしょう。
それが人の頭から伸びているとするならば、
私たちは「考え方ひとつ」でアンテナの働きを変えることが
できるのだと思います。
梅雨の時期の一日雨降りは憂鬱なものですが、
雨上がりが生み出す夕暮れ時の景色に期待している人はきっといるのです。
お釈迦様の諸行無常の教えの通り、状況は常に動き続けています。
今、私たちの目の前にあることは永遠ではありません。
喜びも続きません。
悲しみも続きません。
必ず目に見えて変わる時がきます。
いつどんな時でも仏の光は射し込んでいるのだと思います。
大日如来が様々なお姿で説いてくださっている法のなかに
私たちの命は生かされています。
合掌
両輪
お寺のホームページを開設して、6年半となります。
ご覧になって下さっている檀徒様から時々声をかけていただきます。
『見てるよ』
この一言でも嬉しく思います。
13年間住んだ京都から岡谷に帰って、当時の責任役員様に言われたのが、
『副住、お寺のホームページくらい作れや』
の一言でした。
お会いする度に、早く作れ、時代がどうとかこうとかと。
(寺門興隆の為に厚くお支えを下さっていた責任役員様は、
ホームページの運用が始まった数年後に他界されました)
広くに開かれた観光寺院などと違い、いろんな意味で中が見えにくい、
知りにくいお寺というのが大変に多い。
当山のような田舎の静かなお寺でも、新しいご縁をいただく機会に恵まれますが、
その方々が初めてこちらに足を運ぶ際に何をされるか。
スマホ片手に生活する情報社会においては、まずこちらのことを確かめるのです。
敷居が高いとか、お寺って入りにくいと感じていればなおさらでしょう。
お食事などで初めて訪れるお店に対し、あらかじめイメージを持っておきたいという
行為と変わりありません。
どんなお寺なのかな。
このお寺にはどんな人がいるのかな。
ぼんやりとした輪郭がここに浮かびます。
そしてこのお寺とご縁の人にむけては、続けて情報を届けたいと思うのです。
お寺で何が行われているか。
お寺にいる者が何を考えているか。
お寺の四季、風景。
文書伝道の『真福寺だより』が檀徒に向けて年2回(夏季号・新春号)発行されます。
これはお寺の事業を報告する為に、以前より住職、総代様が大切にしていたものです。
ホームページは伝える「鮮度」に目をむけたツールで、同じく文書伝道に入ります。
手にする紙面とインターネット、双方が両輪となり、
真福寺を知ってもらうための発信、布教活動の手段ともなっております。
実は、このホームページも今の時代には古いものであります。
今はSNS全盛の時代であり、人とつながるもっともなツールのようです。
真福寺も最近になってようやくインスタグラムを開設しました。
人と速く広くつながる為に、多くの人が如何にしてSNS機能を駆使しているのかが、
ごく短い間でもよくわかりました。
真福寺でも必要に応じて利用し、この機能を活かしていきたいと思います。
振り返るとホームページの開設には住職が大反対しておりました。
この時代に携帯電話やパソコンをまったく扱わない住職は、
今でもお寺にはホームページやPC作業など必要ないと言います。
おかしな話ですが、本当は私もそう思っています。
しかしそれは、私が幼い頃から身についていた「お寺像」に対してのものです。
ではなぜ、このようなツールに頼るのかというと、上記にあげたことがすべてです。
月に数回も更新してすごいと言ってくれる僧侶の仲間がいますが、
自身そんなことはまったく思いません。
私の修行時代の仲間には、毎朝20名程訪れる参詣者とともに朝勤行をして、
勤行後には「欠かすことなく」参詣者を前にして法話をする僧侶がいます。
これがどれほどすごいことか。
それに比べたら、人を前にせず月数回だけメッセージを発信することなど
大したことではないのです。
それでもペースを崩さず継続してこれたこと、自分に合った形を守れていることで、
静かに航海が出来ているように思います。
このシンプルなホームページの作りからわかるように、あくまで「一方通行」であり、
お寺や布教にどのような因果を生んでいるのかが見えにくいです。
だからこそ思うのが、
やはりお寺は人に足を運んでもらわなくてはいけない。
僧侶は人のもとへ積極的に足を運ばなくてはいけない。
人から人へ伝わる、つながる「実感」を大切にしなくてはいけないということ。
人と「会って接する」こと、
人と「会わずに接する」こと、
どちらもバランスよく大切に守っていかなくてはいけません。
毎月の寺行事が再び動き始めたいま、あらためてお寺に来てよかった、
お寺っていい処だなと感じてもらえる人をつなげていきたいと思います。
合掌
過渡期~感謝・発心~
6月1日を境として、各地で社会活動が徐々に再開し始めました。
地元小学校もいよいよ通常登校。
いままでと同じように、行ってきます、行ってらっしゃいと声を交わすのですが、
家を出るこどもの背中を見送り安心した一方で、
長いことすまなかった、とも思えました。
この期間をこども達がどのように記憶し、将来思い出す時がくるのか。
この日の晩、全国で160の花火業者により一斉に花火が打ち上げられました。
これは新型コロナウィルスの早期終息を願うとともに、人命を預かる現場の最前線で戦う
多くの医療従事者への「感謝と励まし」の気持ちを贈るものでもありました。
なんて素晴らしいことだろうと心から思いました。
花火の歴史を遡れば、亡き人の鎮魂の他、疫病により国難に陥った時の祈願として、
生きる人たちへの力強いエールでもあったのです。
『過去にあったものは その先にもある
過去になされたものは その先にもなされる
日の下に新しいものはない』
時代は繰り返されているのだとも感じました。
これから徐々に活動のアクセルは強く踏み込まれて行きますが、
すべてが元どおりになるのではなく、大きく変化が伴っている、
いまが「過渡期」であることを強く思います。
自信が過信になっていたことはなかったか。
必要以上に望むことはなかったか。
移り変わりに目を逸らしていることはなかったか。
いまやってはいけないことの多くは、
本来やってもよかったことばかり。
いままでそうやって社会が保たれ人々の営みがありました。
どうして、いま考え直しをせまられているのでしょう。
再構築の着地点はどこにあるのでしょう。
お釈迦様の言葉にある
『足るを知る』
このことが失われていたのだと感じています。
そして、人はひとりでは生きられないという実感にも欠けていました。
これからも苦境に立ち日々戦う人達、その技術や知識にも
心から敬意を表し感謝しなくてはならないと感じます。
お寺の月行事もついたち参りのみなさんとともに再開しました。
発心。自分ができることを日々成していこう。
一隅を照らす!!
合掌
月行事の再開
しばらく行事を休んでおりましたが、6月より月例行事を徐々に再開していきます。
新型コロナウィルス感染が収束に向かうためには、今後も気を緩められず、
安全対策には十分留意したうえで、ご来寺の皆様と過ごしたいと思います。
どうぞこれからの楽しみのひとつとしてお参りにお越し下さい。
合掌
毎月の行事(6月~)
◆1日 ついたち参り(朝まいり会) 午前6時半より
お勤め後に参拝者といただく朝粥は、7月から振る舞えるよう願ってます。
◆21日 写経会 午前9時より
毎月の行事(7月~)詳細は追ってお伝えします。
◆第1日曜日 日曜仏教会 午後2時より
◆25日 おてらヨガ 午後7時より ※申込み制・定員あり
心つなぐ
新型コロナウィルスの感染拡大により全国に緊急事態宣言が発令され、
人命を守るための活動自粛が徹底して続いております。
お寺も例外ではなく、予定の法事はキャンセルが相次ぎ行事も進んでおりませんが、
5月中はお寺で「毎日」写経ができるように準備を整えています。
今のお寺の環境を安全な場所として、且つ有意義な時間を過ごすための
居場所として考え提供しております。
写経は基本、午前午後ともに3名(ご相談下さい)まで承っております。
観音堂で写経奉納祈願のおつとめを済ませた後、大広間の写経道場でゆっくりと
お写経(般若心経か十善戒を選ぶ)をすすめていただきます。
納経後はお庭を眺めながらお茶を飲み、少々体を休めてもらい、
お家にお帰りいただきます。
ごく限られた時間ですが、ご来寺の方とお話を交わせるひとときを大切にしております。
毎日を家で過ごし、その時間を大変長く感じるようになってからというもの、
一日一日を同じものと捉えてしまうこともあるでしょう。
仏教が伝える諸行無常の教えからすれば、本来今日という日は唯一無二。
今日と同じ日は、過去にも未来にもひとつとしてないのです。
写経の功徳は、洗心し清々しい気持ちを持ち帰っていただくことにあります。
現在、日々多くの人がこの難局と戦い、耐え忍んでいます。
極めて苦しい状況に立たされている方が大勢いらっしゃいます。
かつて日常にあった「あたりまえ」は失われつつあります。
様子はこの数カ月のうちに一変しました。
一方ではつながりを頼りとして支え合い、多くのありがとうの声が聞こえ、
一方では、他人を許せなくなり、非難の言葉が聞こえてきます。
この先益々、善悪ともに人間「らしさ」が露呈するでしょう。
人間らしさには「祈り」があります。
皆さんのお写経には興味や楽しむ心に加え、祈りがこもっていることを感じます。
この写経の時間を心の励みとし、祈りをつないでほしいとも願っております。
合掌
一心祈願疫病退散~娘と描いたアマビエ~
励ましの桜
境内の枝垂れ桜が満開を迎え、これより5月初めまで見頃となります。
この春は、いままで有ったあたりまえの日常を失い、
いままでには無かった不安感や疲弊感を知り、気持ちが沈みがちです。
先が見えない閉塞感から、私たちにはまだまだ耐える力が必要です。
遠く山々は頂きの雪が溶け、辺りの様子を窺うと咲く花は咲き、出る芽は出て、
「自分の時」をナニモノにも惑わされることなく力強く生きる命の姿があります。
そんな自然の営みを感じること、季節の彩りを観ることはとても励みになります。
暖かい日、気晴らしのお散歩の際にはお寺の桜をひととき眺めて下さいね。
2020年春の風景が、美しい色で皆さまの心に残りますように。
合掌
4月24日(金)までは19時~20時にライトアップしています。
安全に心掛けてお参り下さい。
頭のなか
学校の休校が長く続くなか、こどもは毎日のほとんどを家の中で過ごしています。
課題や自分の興味あることなどする以外ずっとテレビや録画を見ている様子を見て、
「この子たちの頭のなかは大丈夫か?」
と気になってしまいます。
そんななか、学校の担任先生から新しい課題をいただきました。
『お家のまわりをたんけんしよう!』
こんな家の周辺地図に、辺りを歩いて見つけたものを自由に書き込もうという課題。
外に出る機会を失っているこども達にとっては有り難い。
少しは外の空気に触れた方がいいよ。
先生の優しさともとれる課題でした。
ということで、暖かい時間にこどもを連れて辺りを散歩します。
不要不急の散歩ですが。
高架下に、天竜川を渡る小さな橋が三沢から橋原に架けられています。
普段はまったく使うことはありませんが、探検と称して歩いてみます。
私が、(草がいっぱい生えちゃってるなぁ・・・)
と心のなかでつぶやきました。
するとその直後、
後ろをついてくる小学三年の娘がボソッと言いました。
『この橋は、ムダ毛の処理が必要だなぁ・・・』
実に面白い。
「どうやらこどもの頭のなかは大丈夫そうだ。」
そう思った次第です。
この課題に取り組む近くのこどもたちは、ぜひお寺や隣の熊野神社にも
探検に来てください。
聖域に入ると、きっと楽しい発見があるはずです。
合掌
お寺カード
お寺を広く楽しく伝える「お寺カード(テラカ)」を創りました。
諏訪の名刹仏法紹隆寺の御住職であられ、諏訪圏域青年僧にとって、
寺院活性の先駆け的存在でもある岩崎僧正の勧めをいただき、
これに共感し、当山も創作の輪に加えていただきました。
名刺サイズの布教ツール。
なんだかこのサイズ感がわくわくしますね。
裏面には説明が添えてあります。
当山では御朱印、お写経、ご祈祷を求めて来られた方などに添えてお授けします。
寺院を巡っての収集、財布などに収めて身近にもつお守り代わり、
人それぞれに楽しめそうですね。
みなさまの寺院への興味と発信につながれば幸いです。
合掌
【お寺カード】
考案者:諏訪市 高野山真言宗仏法紹隆寺御住職
お寺の有する「仏像」・「諸堂」・「寺宝」・「自然」、四種カテゴリに分かれます。
真福寺は現在ご尊像を伝えるカードのみですが、
他のお寺を巡れば様々なカードに出会えますよ。
情報サイト『諏訪旅』に掲載されました!
春の行事の中止について-終了しました
新型コロナウィルスの感染拡大が急加速し、多くの人達が不安な毎日を送っています。
新年が明けた頃は、こんなにも静かで気の沈む春を迎えるとは思ってもいませんでした。
昔から寺や神社でおみくじなどの類は一切手にしないし、気にもしてきませんでしたが、
今年は令和初の年明けでもあったことから、おみくじを引いてみたりもしました。
そのくらい、新しい年に期待や希望、さらに気の引き締めを感じていたと思います。
檀信徒皆さまの尊い御寄進を預かり、ご本尊様の脇に大日如来と不動明王が
勧請されてから最初の一年を迎えようとしています。
お寺の長い歴史に新たに仏様をお迎えして、私たちの拠りどころとしてお祀りし、
末永く続く法灯そして寺門と檀信徒のご守護を願ってまいります。
報恩の勤めとして、お檀家様にお参りいただきお伝えする機会を得たいと思い、
この春いくつかの行事を企画しておりました。
枝垂れ桜が見頃の時期にあわせて特別企画のコンサートも予定しておりました。
しかしながらお寺もウィルス感染対策を迫られ、すべてを中止することになりました。
なんとか皆さんとともに明るい気持ちになれる機会を実現したいと考えておりましたが、
安心安全に足りる対策を講じることが出来ないと判断し、中止を決めた次第です。
寒い冬を越し、これからの行事に期待してくださった方も多くいらっしゃり、
決定は残念ですが、この先の月行事の再開を楽しみにお待ち下さい。
今年を象徴する一字としてきっとあがるであろうと思われる、
「粛」という字。
その意味は、つつしむさま。静まりかえっているさま。
とあります。
今は「動くべき人と、動くべきではない人」がはっきりしていなければならない時。
そう感じております。
年始、めずらしく引いたおみくじの中身をなぜが重要なことと捉え、
ずっと自分の身近に置いてありました。
『強いてしようとすると 思わぬ災いにあいます つつしんで事を行え』
不安があり、悲しみもあり、目に見えぬものへの怖さもあり、
何より心の脆さを素直に感じています。
静かに世の安寧を祈り、自分に出来ることを成していきましょう。
合掌
4月1日時点の枝垂れ桜のつぼみ
毎日新型コロナウィルス関連のニュースが続き、未知ウィルス感染拡大への強い不安、
またそれにより尊い命を落される方がいる悲しい現実を知り気が沈みます。
今年は美しい満開の桜を拝める日が一際待ち遠しい。
お供えと煙草
春彼岸が近づく頃には境内の梅の花が開き、春到来を知らせてくれます。
高尾霊園にある永代供養塔やすらぎ観音にはたくさんのお花がお供えされています。
毎月観音さんのご縁日にお参りすると、いつのまにかお花が供えられていて、
不思議とここを訪れた方とお会いすることがありません。
お花を見ると、そこに「心が残っている」ようで嬉しくなります。
別に、供養塔の「線香台」に煙草の吸い殻が置いてあることが頻繁にあります。
いつも同じ銘柄の煙草の吸い殻が一本。
昔のテレビドラマで、墓前に火をつけた煙草を供えるシーンがありましたね。
実はこちらに眠る仏さまが生前愛煙家だった(・・?
それとも愛煙家が灰皿代わりにここを使ってる(・・?
前者だといいのですが。
ここは共同の供養所ですので吸い殻はお持ち帰り下さいますよう
お願いいたします。
さて、春は出逢い、事の始まりともなる節目の季節ですが、
新型コロナウィルス感染の拡大状況を毎日ニュースで知らされ、
世間は厳格な防止策を迫られるなか組織活動が消極的となり疲弊し、
春らしく新しい何かが始まるという期待や気配が感じられません。
ぜひ、日中はお出掛けいただき季節の風や色を感じて下さい。
心にも澄んだ風が通うような気がして心地よいものです。
晴れた日には寺やご先祖のお墓へのお参りもいいですね。
合掌
ご卒業
『マスクどこにもないねー』
最近、こんな話題ばかりですね。
新型コロナウィルス感染防止の為、出掛けの際の必須とされるマスク着用。
薬局など店頭には、そのマスクの在庫がまったくありません。
用途は感染対策に限らず、今後は花粉が飛散する季節ともなり、
大変に悩まされますね。
情報過敏になり、あっという間に不足に陥った他の日用消耗品もあります。
こんな状況下にあればこそ、思考の中心に自分を置かないことが大切と感じます。
自分(達)中心に事を図らないことで、視界や発想、招かれる結果は違うものになります。
現在事態は深刻、極めて重大化しており、様々な人が困難を強いられています。
生活や職場の環境、身心健康面、経済活動、その影響は計り知れません。
お寺の行事活動も例に漏れず、先々の判断に悩まされています。
十数年前の本山奉職時、修行僧の生徒監をしていた時期があります。
12月、28名の生徒とともに四国八十八カ所札所の巡礼に出ました。
道中、複数の生徒が不調を訴え病院で検査を受けました。
実は当時大流行していたノロウィルスに生徒が感染し、瞬く間に全体に感染が
拡がってしまったのです。
精神的にも体力的にも、正常な巡礼を継続出来る状態ではありませんでした。
しばらくして、保健所から行動停止を言われました。
私達が立ち寄るところすべてに消毒が必要となり、多大な被害を被らせてしまう。
本山上局に指示を仰ぎ、帰山することとなりました。
八十八カ所成満を迎えることなく、愛媛県の御寺院を最後に巡礼を断念しました。
京都本山に戻ってからも、症状が終息するまでは全員寮で隔離の生活を送ったことを
鮮明に覚えております。
その時自身4度目のお四国でしたが、生徒はみんなが初めての四国巡礼。
ともに成満できなかったことは、生徒にとっても私にとっても苦い思い出。
これもその後に生きた体験のひとつになったのですが。
つい、ひと昔も前のことを思い出した次第です。
3月はお別れ、船出の季節。
ニュースで知った、在校生、親御さん不在の思い満たされることのない卒業式。
そんな人生の節目となるお別れの様子に、寂しいお気持ちを察し心が痛みました。
近年、卒業式で歌う学校が少なくなったと聞く
『仰げば尊し』
「思えばいと疾し」という歌詞のとおり、
振り返ればあっという間の学校生活だったと感じます。
そのくらいに不思議と過ぎ去る時って早いものですね。
この歌に、体験した辛いこと楽しいこと、人生の節目における振り返りを促されます。
学び舎を振り返った時の「我が師の恩」とは何が思い浮かびますか。
教えの庭にお世話になった先生方はもちろんです。
他にも自分の成長を支えてくれた人達って、たくさんいると思います。
ご家族の存在。
同じ釜の飯を食べた仲間もそうですね。
通学路には登下校の安全を守るボランティアの方が、毎日朝夕見守ってくれています。
校外にはよく褒めてくれた人、よく叱ってくれた人、楽しい時も悩める時も、
寄り添って話を聴いてくれた人の存在はなかったでしょうか。
将来の夢を抱くきっかけになった人はなかったでしょうか。
過ちを犯した時に、許してくれた人はなかったでしょうか。
思いを巡らせば、
「ありがとう」を贈る人が周りにたくさんいることに気づきます。
この先に多くの時が過ぎた頃、良き出会いや経験だったと気づかされ、
遠い昔に感謝することも少なくありません。
卒業を迎えるこども達には、きっと尊いご縁があったのだと信じて、
新しい船出にエールを送らせていただきます。
ご卒業おめでとうございます。
合掌
信頼
以前、フリーアナウンサーの中野美奈子さんがテレビ番組で
自分が感謝している恩人としてあげられたのが、
同じくフリーアナウンサーの笠井信輔さん。
笠井さんは現在、闘病生活を送っておられます。
なぜ中野アナは笠井さんに感謝しているのか。
悩みを抱えていた頃に、3階のスタジオから15階のアナウンス室まで、
エレベーターを使うことなく毎日一緒に階段を登り、仕事の相談から、
日常のささいなことまでいろんな話をされたのだそうです。
それが日課となっており、当時とても頼りにしていたと明かしています。
これを聞いてその程度のことかと思ってしまうかもしれませんが、
社会人として経験を重ね、一人前の扱いをされるようになってからは、
実は孤独と戦っている人って大勢いらっしゃると思うんです。
中野アナが感謝しているような心開いて寄り添える存在って、
なかなか見つからないのではないでしょうか。
社会経験を重ね、なお多くを求め、求められていく成長過程には、
取捨選択のなか何かを切り捨てたり、面倒な日常は避けて通ることもあるでしょう。
自ずと合理的な考えのもと、「近道」の価値を教え、教わることが多くなります。
便利になった私達の生活には、常に近道が用意されています。
3階から15階まで上がるのに階段を選択する人って少ないでしょうね。
時間と労力の無駄だからです。
ですが、お二人は毎日ともに階段を登ることを選び、その一歩一歩に費やした時間に、
とても大切な「会話と呼吸」を共有して重ね、二人の間に『信頼』を築いたのです。
中野アナにとって先輩の笠井アナは、「代わりの効かない心の支え」だったのでしょう。
毎日、自分と一緒に遠回りをしてまで時間を費やし支えてくれるような方って、
みなさん、身近に居られますでしょうか。
本山での修行時代にお世話になった先生が仰ってました。
『大切なものを見つけたければ、たくさん無駄もしなさい』
真言宗の布教には「同行二人」という言葉があります。
いつでも弘法大師がともにあるという、信仰と功徳の深さを表す言葉です。
中野アナは、笠井アナと毎日通った階段トークにかけがえのない価値を感じており、
感謝をしています。
まさに同行二人、偽りない信頼関係がここにあります。
そんな恩人とも呼べる絆、とても素敵な話だと思いました。
合掌
つなぐ仏教
2月はお釈迦様が入滅された日(ご命日)を迎えることから、
ご法事の際など、お釈迦様のお話をさせていただいております。
実はお釈迦様のご命日をご存知ない方がほとんどです。
これに限らず、ご法事や法要を重ねてきて感じていることですが、
お檀家様にとってお釈迦様がとても遠い存在になっています。
お釈迦様が遠い存在になり、次世代への伝わりが薄れていくのは
大変寂しいことに思えています。
現代人にとって、暮らしの面、こころの面において寺や仏教が身近になく、
葬儀に立ち合い初めて仏教に触れるという現実があります。
2月15日はお釈迦様のご命日にあたります。
本山奉職時にお仕えさせていただいた、今は亡き総本山の化主猊下が、
2月14日のお逮夜に、釈迦涅槃図を指しお釈迦様のお話をして下さいました。
猊下はお涙を浮かべながら、
「仏教は素晴らしい」と仰られたのです。
あの日のことは15年経ったいまも忘れることはありません。
仏教は「生きるための教え」が詰まっています。
私たちの暮らしのもっと身近にあって良いのです。
これからも様々な機会において仏教のお話をたくさんしていこうと思います。
仏教離れ、寺への関心が薄れる真っ只中を勤めていく青年僧にとって、
仏教のバトンをつなぐことは使命であり「楽しみ」と考えています。
合掌
予告―コンサートー
昨年4月、元号の変わる節目に本堂で開催しました真言声明と御諏訪太鼓の
コラボコンサート。たくさんの喜びの声をいただきました。
この春、一年ぶりのコンサート開催に踏み切ることとなりました。
令和の幕開けに本堂に開眼されました金剛界大日如来像、不動明王立像の
一周年報恩として開催いたします。
今回は長野県内高野山真言宗のみなさんとも企画共演することとなりました。
昨年の秋、高野山真言宗の声明グループ「六大」さんからお誘いをいただき、
地元で真言宗智山派声明グループ「谷響」を集い、諏訪市博物館において、
六大さん、御諏訪太鼓山本麻琴さんと心ひとつにして共演を実現しました。
同じ真言宗といえども宗派が異なれば声明の節博士や所作は違います。
その点を聴かれる方の楽しみのひとつとなるよう表現し、コンサートは成功しました。
この貴重な体験をその時だけのものとせず、今後も宗派の垣根を越えてつながり、
ともに魅力発信したいという想いも共有できました。
この嬉しいご縁を深め、魅力とパワーある山本麻琴さんとのご縁とともに
新しいチャレンジをしてまいります。
合掌
令和2年4月24日(金) 19時真福寺本堂で開演
六大×谷響×山本麻琴コンサート
詳細は追ってお伝えさせていただきます。
ご期待下さい!!
昨年の記事
而今
晩酌はほとんどしませんが、外で酌み交わすお酒はいつでも楽しみ。
この正月も好きな日本酒を美味しくいただきました。
三重県の而今(じこん)というお酒が好きですが、なかなか出会えません。
禅の言葉で「にこん」と読み、いまを生きる、いまを深める、という意味だそうです。
今年もどこかで而今に会えるといいなあ。
呑みすぎて、大切な意味を置き去りにしてしまうことばかりですが。
令和2年が明け、みなさん年始をいかがお過ごしでしたか。
ご自宅でゆっくりとされた方、国内外旅行に出掛けた方もいれば、
休む間もなくお仕事をされた方もいらっしゃるでしょう。
今年の正月は全国的に天候が穏やかで、初詣にお出掛けの方も
安心してお参りできたのではないでしょうか。
私もお寺に住んでいながら外に初詣をしております。
毎年、大阪高槻の妻の実家に寄った際、近くの三輪神社にお参りをしています。
今年は名古屋にあります成田山萬福院にも参詣し、御護摩祈祷をしていただきました。
賑やかな成田山、こちらには本山奉職時よりお世話になる先輩方もお勤めであり、
お会いしてご挨拶することができ、有り難い年初めでありました。
みなさま新たな目標を抱え、それぞれのスタートを切っていることと思います。
いかなる年も今日「一日」は唯一のもの。
同じ日が再来することはなく、それゆえ日々発心に始まり反省に終わる。
「一年」も同じことが言え、誰もが年末年始の時の移り変わりには身を正す。
人の感覚っていうのはアテになることもあれば、そうでないこともあり、
どちらかというと感覚に惑わされていることが多い気がします。
何かを待つ時の長さ。
過ぎ去った時の速さ。
真実からすると、
自分が置かれているのは、常に「いま」です。
而今。生きるのは「いま」なんですよね。
いまは唯一であり無常。良いこと悪いこと、そればかりが続くこともない。
一日の繰り返しもそう、日々是好日。
みなさん、令和2年を善き一年にしましょうね。
合掌
迎春 庚子
令和2年新春を迎えました。
昨年は常に令和最初のという冠がつく特別な年でありました。
西暦2020年の今年は21世紀における節目。
夏に東京オリンピックが開催され、記憶に刻まれる年となることは間違いないでしょう。
さて、今年は子年。
十二支の始めになります。
釈迦涅槃図に描かれるねずみは、弱り横たわるお釈迦様に
天上から届くはずの薬が木に引っかかるのを見て、それを取りにいきます。
しかし猫に邪魔をされてしまう。
お釈迦様は亡くなってしまいますが、真っ先に駆けつけた動物は、そのねずみでした。
(涅槃図絵解き:諸説あります)
十二支の動物たちもお釈迦様の死を嘆いたのです。
仏法は生きとし生けるものの拠りどころとして説かれていたのですね。
新しい旅の始まり。
たくさんの笑い、出逢い、まなび、
皆さまに悦び多き年となりますことをご祈念申し上げます。
合掌
令和の幕開けに開眼された本尊両脇、大日如来像、不動明王像。
光背ならびに台座が一新された本尊阿弥陀如来像
大晦日二年参り
旅
市の仏教会の皆さまと京都研修旅行に行ってまいりました。
お香づくりのもととなるの高級資材や製作作業場の見学、
大本山妙心寺法務職員様の丁寧なご案内のもと七堂伽藍の参拝、
さらには京都の美味しい料理を堪能し親睦を深めるなど、
一年の締めくくりに大変有意義な時間を過ごしました。
妙心寺塔頭寺院内の掲示物にあった言葉に目が留まり、
それが印象に残りましたので紹介いたします。
帰れるから 旅は楽しいのであり
旅の楽しさは 我が家に帰るからである
修行時代、旅は家を守る人がいるから旅となるのだよ、
と教わったことを思い出しました。
私を快く送り出してくれ、留守を守る家族を想います。
お寺であればなおさらでしょう。
この言葉には続きがあります。
この旅も人生の旅であり 土に帰る旅である
ひとときの旅は人生の旅の一部ということでしょうか。
そして、人生という旅から帰る場所は「土」なのだと。
思い浮かんだ弘法大師のお言葉があります。
『阿字の子が 阿字のふる里 立ち出でて
また立ち帰る 阿字のふる里』
私たちの命は、御仏、大日如来のもとから生まれてきて、
娑婆での一生(修行)が尽きた後は、再び御仏のもとに帰っていく。
先に示した「土」とは御仏の浄土。
大日如来の「密厳浄土」、阿弥陀如来の「西方浄土」。
私たちの生命の旅には帰るところがあるのですね。
なんとも有り難いお言葉です。
人生は娑婆と言われ、不如意ゆえ修行の旅でもあります。
それを仏に成る旅だと教えて下さっているのが仏教です。
先に紹介した掲示物の言葉はこのように締めくくります。
後の人々に 大切な置き土産も忘れてはいけないね
お釈迦様や弘法大師、多くの先師が伝え残してくれた置き土産こそが、
身近にある「生きるための仏教」ではないでしょうか。
さて、今後の旅の途中で少し考えてみたい。
いま自分は何処で何をしてるのかなって。
合掌
一年の旅がもうすぐ終えようとしております。
少々早い挨拶ですが、本年もありがとうございました。
大晦日は二年まいりにお寺へお越し下さい。
本堂で心静かにお参りをして、年の節目の風に身を引き締めながら、
力強く除夜の鐘を鳴らしましょう。
体温まる厄除け汁、温かいお酒、縁起物等をご用意してお待ちします。
みなさま良い年をお迎えください。
感謝合掌
仏道を成ぜん
12月8日は三仏忌のひとつ、
お釈迦さま「成道」の日。 長年の不断の修行が結実し、お悟りを開かれた日です。
御年35歳であったと伝えられています。
それから80歳でお亡くなりになる(入涅槃)まで旅を続け、
多くの人々との出会いのなかで仏法を説かれたそうです。
「如是我聞(にょぜがもん)」ー私はこのように教えを聞きました
その教えを聞いてお釈迦さまをお慕いし崇拝した多くのお弟子さんが、
拠りどころとすべき教えを後世に伝え残してくださったのです。
それが2,500年つながる仏教なのですね。
仏教は生き方を説き、生きる力を与えてくださっています。
仏教は何を伝えているのですかと尋ねられて、ひとつお答えするとすれば、
それは「因縁」です。
命ある私たちに起こる物事のすべては、原因と呼ぶ「因」を縁として生じています。
良い一日を過ごしたければ、朝の時間を大切にしましょう。
良い朝を迎えたければ、就寝の仕方が大切になります。
良い就寝を望むのなら、心と体が休まる環境が必要です。
ここでクセモノなのが「心」です。
目に見えない心が体を支配しているからです。
お釈迦さまは、心が人の意思では思い通りにならないと気づき、
同時に心の姿により拓ける「道」が異なることを知りました。
十方数々の因が存在しますが、その最小単位は「人の心」です。
人を救う勇気や優しさに結び付くも心、
大切な人を殺めることに結びつくも、
その起因は心であったのです。
慌ただしく過ぎゆく日々のなかに、手を合わせて心を整える時間が
ひとときでも保てたら、それだけでも幸せの種ではないでしょうか。
その小さな功徳の積み重ねが遍く及ぼし、皆ともに仏道が歩めることを願います。
合掌
童心
小学2年生の娘が学校でまん丸のどろ団子を作り、
まわりに砂をつけて、つるつるすべすべにして固め、
ピッカピッカに光っていました。
とてもどろ団子には見えないほど綺麗な玉。
それは家の自分の机に、丁寧に箱に入れて、
長いこと大切にしまってありました。
すごい執着で他人は触らせてはもらえません。
その箱は、自分の大切な「宝物」を入れる箱のようです。
大人の私から見ると、どこが大事なんだか、宝なんだか、
理解し難いものばかりがいくつも入っています。
そのひとつが、どろ団子・・・。
2歳の娘がその箱を見つけ、中のどろ団子が気になって仕方なく、
隙あらば、机から箱を出して、どろ団子に手をつけようとします。
宝箱の持ち主は常に警戒しています。
先日、目を離したとき、娘はついにどろ団子を手にしました。
2年生の娘が気づき、慌てて取り上げ、息子に渡します。
『触らせないように持ってて!!』
弟に任務を課します。
ところが息子にとって、どろ団子はまったく興味のないもの。
任務を遂行することなく、机にポイ。
そして、どろ団子は再び2歳の娘の手に。
姉は大慌てで取り上げようとしますが、
時遅し!
娘は反射的に、それを壁に向けて投げてしまいました。
長いこと宝物として収められていたピッカピカのどろ団子は、
砕けてしまったのです。
2年生の娘は、大泣きです。
どろ団子が壊れたことで、久しぶりの大泣きです。
どろ団子への分厚い執着が涙となり溢れだします・・・。
任務を放り出した弟は困った顔。
この後、どろ団子(ごとき)で喧嘩になるのかな?
こどもの心を無視して、笑ってしまいそう。
その時でした!
2歳の娘が割れたどろ団子を拾って、口に入れてもぐもぐしてます。
どろ団子を食べて口の中がまっくろになり、
なんとも言えぬ険しい顔になってます。
ずっとお菓子だと思っていたのですね。
それを見た2年生の娘が、一転笑い出しました。
こんな決着があるんですね。
大人は、やっと我慢を解いて笑えました。
童心っていいですね。
宝を創り出せる心を持ち、
人を許す心を持つ。
執着がいつか尖ることを知らず、
成長のエネルギーになっているのですから。
合掌
6年生へのエール~一隅を照らす~
川岸小学校のふれあい参観にて、「教えてお父さんお母さんのお仕事」という
テーマのもと、6年生担当の講師としてお呼びいただき、
お寺の仕事紹介をする機会がございました。
昨年は1年生にむけてお話しましたが、今年は卒業を控えた6年生ということで、
伝え方の内容を見直してお話したつもりです。
自分が30年前にお世話になった小学校の教室で、
4ヶ月後に学び舎を巣立とうとしている6年生を前にして、
とても感慨深く、懐かしい想いが致しました。
あの頃の自分を探すように、6年生にエールを送りたい。
そんな特別な感情で時間を過ごしたように思います。
天台宗の宗祖最澄のお言葉に『一隅を照らす』というものがあります。
私の好きな言葉です。
「自分の居場所で精一杯に尽くしなさい」
そんな意味の言葉と捉え、大切にしております。
参観日の日、6年生にはお伝え出来ませんでしたが、
この最澄上人のお言葉を桜に例え、自分からの応援メッセージとして
ここに残します。
―花からのメッセージ―
遠くの山上にポツンと寂しく一本の桜が咲いている
誰も近づくことのないその場所で―
誰の為に咲くのでも 誰に喜ばれるから咲くのでもない
花は自分の時が来て精一杯に咲く
人にも「自分の時」があるだろう
最澄上人は、一隅に尽くす人のことを「国宝」とまで言って下さっています。
人と比べることなく、自分を信じて咲いてほしい。
あなたが一生懸命に咲かした花は、何処にいても尊い。
卒業を迎える頃、諏訪の平の桜のつぼみ達はまだまだ寒さに耐え、
暖かい春の陽を浴びる時をじっと忍んで待っています。
その頃に、この花のメッセージが心に届いたら嬉しいです。
頑張れ6年生!!
合掌
水瓶
人を育てる職に就く大人同士、その職場において起きていたいじめが
発覚し、大きくニュースされたのは最近のこと。
こどもに教える立場にある大人の日常行為であったことが衝撃となりました。
衝撃の中身は、漠然と教育者に抱いていた理想を覆されたような
感情であったと思います。
この事案を他人事、教育者視点のみ捉えて議論して済ますのではなく、
広く大人社会のその陰にある問題として考える必要があるように思います。
多くの大人は、自分のこととして、また自分の置かれている環境に照らして考え、
普段、看過されている問題はないか見直す機会にできないでしょうか。
大人はこどもにこう教えます。
『悪いことをしてはいけません。悪いことをすると○○になります。』
『善いことをしましょう。善いことをすると○○になります。』
善悪の行為に因果の報いで例えて説明しているのではないでしょうか。
きっとこども達は、善い行いをすると大人に褒められることを知っています。
善い行いの先には、成長や嬉しいご褒美があるのだと期待しています。
『偽善』という行為を批判的に捉えてしまう大人もいると思います。
しかし、こどもの善の行いは、褒められることを期待してのことが多く、
最初はみんな偽善なんです。
それでも、大人がその行為と気持ちを見逃さずに認めてあげて、
大人自身、反省も含めて「模範たる姿勢」を常に示してあげられたのなら、
こどもは自分の善を信じられるようになるのではないしょうか。
やがて自然とした善の行為が身につくようになり、
いつか、偽善は本当の善に変わっていくのだと思います。
それは大人だって、いくつになったって一緒だと思うのです。
もう大人だから、と考えず、
恥ずかしいとかも考えず、
こどもに教えたことを大人が信じて、
そしてやり直しを信じていいのだと思います。
「自分はまだ未熟なのだ」と。
お釈迦さまはこのようにおっしゃったそうです。
『一滴でも水が滴り落ちるならば、やがて水瓶を満たす。
善をなすのを急ぎなさい。のろのろしていると心は悪を楽しむようになる。』
人は、職場は、社会は、誰でも何処でも善悪をあわせ持っています。
水瓶を満たし、気づかずに溢れ出てしまったのは、
善であったのか、それとも悪であったのか。
外野から一方的に責めることはできません。
合掌
マンパワー
このたびの台風19号の被害に遭われた皆様には、
心よりお見舞い申し上げます。
三日間、県内中野市の災害現地ボランティアに加わり、
生活復旧に向けた作業支援をさせていただきました。
すでに報道により広域にわたる甚大な災害状況につき周知されておりますが、
まだ知られていない被害地域も多くあります。
千曲川決壊による家屋の床上浸水や農作物の被害は誠に深刻であり、
家の電気が通らず、体を休める場所さえも確保できない方が多くおられます。
自宅での安心を取り戻すまでには、まだ相当の作業がかかるものと思われます。
私の作業はたったの三日間でしたが、現地の皆様の心労と疲労は今後も続きます。
お困りの皆様からの様々なニーズは変化もしながら増え続くと思います。
今後も多くの励ましと「マンパワー」が被災地支援に集まることを願い、
一日でも早く穏やかな日常が戻りますことを心より祈念申し上げます。
合掌
140
10月に入りました。
朝方肌寒くなり、キンモクセイが香る境内には桜の葉が落ち始め、
これから秋深まっていくことを感じております。
時期遅れて境内の彼岸花が咲いております。
このたび、群馬磯部温泉で、京都本山の僧堂生活時代の仲間との同窓会がありました。
卒業してから18年、ほぼ毎年一度、各地で開催して集っております。
みなさん研鑽努力を続けて力を発揮し、それぞれにお寺を守りご活躍の様子です。
いまでは宗派や地域などの要職につく人もいて励みになります。
大変お世話なった生徒監さんも愛知からお越し下さり、とても嬉しく思いました。
夜が更けるまで楽しいお酒を酌み交わし、美味しい食事をいただき、
近況を語り合いながら旧交を温めることができました。
今年は初めて同窓会ゴルフにも参加させていただきました。
人生初のゴルフ。場所は太平洋クラブ高崎コース。
新しいことを始めようと心に決めてはみたものの、練習を始めて一カ月にも満たず、
まともにクラブも振れないままこの日を迎えました。
コース上の何もかもが初づくし。
一緒にまわった仲間の親切に甘えさせていただき、終始イロハを教わりながら、
楽しく無事に初ラウンドを終えることができました。
初めて見たゴルフ場全ホールの壮大な景色がすごく美しくて感動。
あっちこっち、とっちらかるボールに向かって走ることも気持ちのよい運動になり、
また、そんな風景のなか仲間と談笑しながら、のんびり過ぎていく時間が贅沢に思え、
これこそが醍醐味だろうと思いました。
(初スコアは↑のとおり)
満喫した群馬での二日間。
車を走らせる道中にも、たくさんの彼岸花が咲いていたのが印象的でした。
彼岸花の花言葉のひとつ。
『また会う日を楽しみに』
合掌
樹の根
日本でラグビーワールドカップが開催されています。
ラグビーのルールはわかりませんが、各国代表選手の大きな体が激しくぶつかり合い、
一丸となり敵陣に進む勇姿に感心をもって、テレビ観戦しています。
少し前、企業のラグビーチームの成長を描いたドラマが最終回を迎えました。
そのなかでこんな言葉がありました。
『いま一輪の花が咲いたとしても、その根が腐っていれば、
やがてすべて枯れてしまう。』
私たちの日常は、手にするもの、目に映るものに価値をつけて生活しがちですが、
実は目に映ることのない多くにも因や影響を受けいて、
支えとなる大切な部分は、姿を見せていないのです。
建築物の柱なんかはその一例。
人生に巡るご縁もそう。
仏教で捉えると、それは拠り所としている「法」であったり、
「彼岸」であったりするわけです。
幹が成長し、枝葉が茂り、実をつけて花咲かせる多くの樹々。
その樹の根は見えませんが、根を「ご先祖さま」に例えることもできます。
たくさんの花も実も、雨風にさらされて倒れることのない幹も、
その陰にあるのは、土のなかに張っている根。
ご先祖さまへの供養の心は、目に映らない世界に向けるのみではなく、
いま生きている私たちの栄養にもなり、慈悲の芽となり、長い時間をかけて
成長してつながっていくものであります。
いまは秋のお彼岸。
お彼岸は、此岸から彼岸への心のバトン。
ラグビーのルールをひとつ知りました。
前へ進むには、自分より後ろにしかパスが出せないんですね。
心のバトンも、私たちの後に続く人達へつなごう。
合掌
六大の響き
このたび、諏訪市博物館にて、高野山真言宗、真言宗智山派、
それぞれの若手僧侶による声明、そして御諏訪太鼓伝承者である
山本麻琴さんとの共演コンサートを行いました。
『六大の響き』という名のもとに開かれたコンサート。
高野山金剛峯寺を総本山とする、高野山真言宗『六大』の皆さまによる
南山進流の声明。
京都東山の智積院を総本山とする、真言宗智山派『谷響』による智山声明。
そして、宗家小口大八氏が復元し新たに築かれた御諏訪太鼓は、時代を超えてなお
諏訪の平に響き続け、伝承者山本さんの情熱により全国各地さらには海外に届き、
皆に愛され守られている「諏訪の響き」です。
これら3つの共演が、会場に足を運んで下さった多くのお客様を前に実現しました。
同じ真言宗といえども、長い歴史に分派されていくなかで、現在に伝わる諸作法、
身に着ける法衣、そしてお経の唱え方など異なる点がいくつもあります。
ご来場のみなさまに各宗派が唱える声明の違いを見聴きし楽しんでいただくこと、
御諏訪太鼓の響きと共に会場が一体となることがテーマであったように思います。
六大の代表者、諏訪の古刹仏法紹隆寺の岩崎宥全御住職にお誘いをいただき、
私たち智山派の若手僧侶にも貴重な経験の場を用意して下さいました。
長野県内の高野山真言宗若手僧侶で構成される六大の皆さまは、
毎年声明コンサートの演出を重ねており、そんな先輩方と共演させていただけることは、
自身とても楽しみでありましたし、智山派の私たちにとって良い刺激となり、
成長の機会となりました。ありがとうございました。
このたび感じたことは、声明コンサートは声明を手法とした「布教」だということです。
若手僧侶に課せられた担いのひとつ、布教活動。
様々な手法があるかと思いますが、声明を聴いていただくなかでお客様に語りかけ、
お客様と心通わせながら、仏教や僧侶を身近な存在として感じてもらう。
これからもそんな布教活動を大切に考えていきたいと思います。
六大のみなさん、山本麻琴さん、諏訪市博のみなさん、ご来場のみなさん、
また会いましょうね。
合掌
共演の一会~声明コンサート~
諏訪市に在ります仏法紹隆寺(高野山真言宗)の岩崎御住職にお声掛けをいただき、
声明公演の貴重な機会を得ました。
諏訪市博物舘が名刹仏法紹隆寺を大きく特集する企画展のなかで、
関連して開催される声明コンサートです。
長野県内の高野山真言宗僧侶で構成する声明グループ『六大』は、かねてより声明演出の
機会を重ねられております。六大の皆さん、そして共演される御諏訪太鼓山本麻琴さんと
同じステージで、私たち真言宗智山派の青年僧も声明をお唱えさせていただきます。
9月14日(土) 19時~20時
場所 諏訪市博物館エントランスホール
主催 諏訪市博物館
出演 高野山真言宗『六大』-ろくだい
真言宗智山派『谷響』‐こっきょう
御諏訪太鼓太鼓打師 山本麻琴氏
いくつかの流派をもつ真言声明。
その唱え方、節博士の違いは聴いて明らかな部分が多くございます。
南山進流として伝わる高野山の声明、そして京都東山に総本山を構える
真言宗智山派の声明。
この違いを荘厳な響きのなかに感じ取りいただけると思います。
高野山真言宗、真言宗智山派それぞれの声明、御諏訪太鼓の共演の一会に
ぜひ足をお運び下さいませ。
合掌
雨男
8月20日(火・友引)、天気曇り。
こどもの夏休み、ゆっくりと時間をとって遊びに連れていってあげられなかったので、
最終日となったこの日朝早く、白馬にある遊具付キャンプ場でのBBQに出発。
(スマホで天気確認:午前10時頃まで傘マーク有り)
午前9時頃、白馬到着と同時に雨が降り出しました。
炭に火がまわりBBQの準備が整った頃には大雨になり、遠くでは雷が聞こえ、
こどもは屋根下から一歩も出られず、誰が雨男で誰が雨女かと言い出し・・・。
せっかくの一日、どしゃ降りのなかでのBBQは可哀想だと思いながらも、
これも夏休みの記憶の一頁かと、白馬ひとつ屋根の下雨止むことを待ち望み、
カレーを作り、肉野菜などを焼きくつろぐことにしました。
(スマホで天気確認:えっ!午後5時頃まで傘マーク!?)
昼は午後1時を過ぎ、強い雨のまま。
食事を済ませた後は雨が止むことの希望を捨て、外で遊ぶ楽しみを諦めました。
わざわざここまで来たのになあと心のなかでつぶやき、雨に体を濡らしながら
車にBBQ道具を運び撤収。
午後2時前、予定より早くキャンプ場を出て、近くの温泉に入り着替えることに。
そこで目を疑うことが――
これで一日終わりかなと残念に思いながら、風呂で雨に濡れた体を洗い流し、
その後露天風呂に出ると、いままでの雨がすっかりと止んでいたのです。
空が明るくなってきている・・・天気とは天の気分か・・・。
順番は違いますが、
風呂を出て綺麗さっぱり着替えた後からキャンプ場に戻り遊ぶことにしました。
午後3時を過ぎ、やっと外に出られたこども達は水を得た魚の如く走り回り、
汗をかき、服を汚して遊ぶ様を見て、明らかに順番違うよなと思いながらも、
こどもはそんなこと気にしてないだろうと納得することにしました。
先々の楽しみ、行事やイベントがあると人は天気予報に一喜一憂。
しかしながら天気はその日になってみないとわからないもの。
その日のうちにも急に様子を変えるもの。
大いなる天の気まぐれ。
森羅万象は人に都合よく働いてくれるものではないのです。
上映中の映画『天気の子』のように、個人が意のままに日々の天候を操れたら、
きっと世界は欲求や生活バランスを大きく崩し、大変な事態が起こりますね。
不如意と知りながら、人は天に一喜一憂するのでしょう。
それはまだ「元気の子」な証拠。
雨男合掌
お盆を迎え
早朝、辰野町の童謡公園に足を運びました。
池の蓮が綺麗に咲いています。
腰を下ろしてじっとこの一点を見つめていると、
浄土の世界を感じることができます。
今年もお盆がやってまいりました。
ご先祖様、亡き人を偲ぶひとときを大切にしてください。
お盆の始まりを思い、気持ち良く晴れた日の朝、まだ涼しいうちに出掛け、
蓮の花に有縁無縁のへだてなく供養を心を向けました。
お盆に向けての支度と心得
ご家庭にてお盆の準備がすすめらていると思います。
盆前にあわてることなく、今から少しずつ家内、お墓などを清め整えていただき、
安心してご先祖さまをお迎え下さい。
盆の準備にお迷いの方は次を参考までにご覧ください。
ご自宅での迎え盆とご供養
◆精霊棚
お盆の飾り付けには精霊棚と盆提灯などがあります。
※丁寧にはお仏壇から位牌を取り出し、お仏壇前に改めて精霊棚を設けて飾りつけ、
そこに位牌をおいて供養する形、地域によりしきたりがあります。
しかし「絶対のカタチ」ではございません。 多少負担ともなりますので、
常日頃の通りにお仏壇にて礼拝し供養差し上げることでも充分なのです。
◆盆供
お盆のお供え物、供物のことを「盆供」と言います。
お盆に行う供養のことも同じく盆供と呼びます。
◆迎え火と送り火
お盆の入り(8月13日 ※異なる地域有り)には、
「ご先祖様が迷わずに帰って来られるように」という気持ちをもって、
玄関前を照らすよう迎え火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでおいでなしておいでなして♪
お盆明け(8月16日 ※異なる地域有り)には、
ご先祖様を丁寧に送り出すために玄関前で送り火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでお帰りなしてお帰りなして♪
(諏訪地方は白樺の皮を焚いているご家庭が多いです。)
◆飾りつけとお供えもの
◎精霊棚
お盆に用いられる祭壇
(前述のとおり、お仏壇を丁寧に整えていただければ充分ですよ。)
◎盆花
●精霊棚の網に逆さに吊るす花 代表的なもの:ほおずき
(花瓶で綺麗な仏花を供えることで充分ですよ)
●禊萩(みそはぎ)の葉を束ねてお供えする 代表的な盆花のひとつです。
盆供、飾りの清めに使われていたことから、ミソギハギとも呼ばれていた。
実際に萩に綺麗な水をつけて祭壇、仏壇、盆供のお清めに使っております。
※丁寧には、蓮の葉に水を注ぎ、ナスやキュウリを細かく刻んだもの
(精霊および餓鬼への施食)を添え、そこに禊萩を供えます。
(綺麗な器にお水を注ぎ、そこに萩を供えていただくことでも充分ですよ)
◎馬と牛
お位牌の前に供えます。
馬はきゅうりで作ります。早くお家に帰ってきて下さいとの気持ちをもって供えます。
牛はナスで作ります。ゆっくり過ごして下さいとの気持ちをもって供えます。
(それぞれの足は割り箸を用いていただけたら充分ですよ)
◎盆提灯
お盆のみに飾られます。※新盆は白提灯が主です。
ご先祖様を迷わす迎えるための灯りです。
毎日暑いなかですので、みなさんがお体を悪くせず元気であることにより、
ご先祖さまに安心していただくことが第一です。
体調、健康に気をつけてお過ごし下さい。
ご心配なことなどお有りでしたら、遠慮なくお寺にご相談下さい。
合掌
希望の樹~寺子屋にて~
地域のこども達が夏休みに入り、今年も寺子屋を開催しました。
昨年までは午後からの半日開催であった内容を朝からの一日開催に改め、
小学生40名、サポーターの中学生2名を迎えました。
今年は『令和希望の樹』を制作。
こども達が大樹の周りに好きな色を選んで手形を押し、花開かせ、
葉形の紙にこども達が未来への願いを書き、生まれ年守り本尊の梵字を筆入れし、
それぞれの手形花に葉を添えました。
今年1年生の子たちが6年生になるまで客殿の大広間に飾ります。
仏教は、生きていく為の拠り所となる教えだと私は考えます。
こどもの頃からその教えに触れることが心健やかな成長を助け、
導いてくれるものなのだと信じ、毎回の寺子屋において、
ほんの少しずつですが仏教のお話をします。
多くのお子様をお寺にお預かりし、寺子屋を営む者として、
こども達の希望を集めた樹をお寺に飾ることで、自分も一緒に成長させてもらおうと
励みとし、同じくお寺を訪れる方々の励みともなれば幸いです。
合掌
夏のはじまりに
7月の東京盆、毎年お手伝いさせてもらっているお寺の棚経。
毎年この時期の東京は蒸し暑く、汗をかきながらのお勤めとなるのですが、
今年は陽射しが少なくとても涼しかった印象。
この夏は冷夏予想であり、ここ諏訪も夏らしさには遠い毎日ですね。
とはいえ、7月海の日には諏訪の風物詩、湖上花火が数千発打ち上げられ、
地元民、観光で訪れた方々にこれから夏本番を迎えることを知らせてくれました。
さて、今年もお盆がやってまいります。
これからお盆に向け準備を進めていき、まずは墓地の草刈りを行いました。
辺りでは同じようにお墓の草刈り、手入れに訪れる方をお見かけします。
綺麗に整えられたお墓がある一方で、草が石塔を隠すほどにまで伸び茂り、
しばらく人の来訪を感じ取ることの出来ないお墓もあります。
お寂しいことですが、致し方ない事情も含まれるのが現状です。
そういえば、どこかのふるさと納税の返礼で、お墓の清掃サービスがありましたね。
これには今の時代背景を知るものとして、不思議と納得させられたものです。
地元の者として思うのは、これからの田舎墓地は合葬のみを選択手段とするのではなく、
有縁無縁のへだてなく時に手を差し伸べ、手をつなぐ慈悲と支え合い精神が、
将来のこども達と健康なふるさとを守ることにもつながるということです。
実際、そのようになることは簡単に望めるものではありません。
それが叶うよう、日頃から地域互いに「頼る・助ける」とか「世話になる」とか、
互助解決のきっかけになることを重んじておく必要があります。
これより梅雨が明ければ、きっと諏訪地方にも夏の暑さがやってきます。
お墓の手入れなどは、今頃の涼しい日、時間を選んで行うとよいでしょう。
出来ることなら家族連れで行い、墓地で顔合わせする人とは挨拶を交わし、
安心してお盆を迎える感覚を得たいものです。
打ち上げ花火は、その昔、ご先祖さまの供養、「鎮魂」の為に行ったのが始まりです。
この地域においても今もなお、その意味、その心を失ってはおりません。
お盆に墓を参り、心静かに御霊に向き合うという「つなぎ」の勤めにより、
夜空に見上げる花火は、儚くもひと際美しく心に響くものとなるでしょう。
また、美しい花火に、遠い地に眠る先祖を偲ぶことが出来ます。
有縁無縁のへだてなく合掌を—。
葬送を考える
賑やかで期待に満ちていた令和時代の幕開け。
ここにきてそのムードも落ち着きつつあります。
早いもので今年も半年が過ぎました。
このたび、本宗各寺院が集い、葬送について学ぶ機会がもたれました。
枕経、通夜、葬儀について講師の御住職様よりお話をお聴きし、
さらに納棺の作法と意味を御住職様の実演によって学びました。
情報と意見交換を含め、通して「心得」を教わることが出来たように思います。
さて、昨今の葬送の在り方については、常々話題になり考える機会があります。
世の中の葬儀形式やニーズ、受け入れの間口が急速に変化しているからです。
これから先、もっと広い視野より情報を集めて学び、地域にも照らし考えを深め、
見極めていかなくてはならないと感じています。
ひと言でいうと葬儀には地域差があります。
寺院そのものの意義も地域により異なるのかもしれません。
地域や世代間の課題を考える点において寺院の責任は小さくはありません。
葬儀には、世間の意識や基準があり、葬儀社の立場があり、
寺の歴史的立場があり、多くの価値観が混在しております。
そして、現代は多様化に伴う「取捨選択」の時代であり、
葬儀の意義そのものがその対象となっており、
葬儀の在り方が縮小化されていることは否めません。
講師の御住職様が、誰のための葬送作法なのかということを強く仰っておりました。
一番は亡き人、次には遺族親族であることです。
深い悲しみにある遺族が支え合い、故人と遺族のご縁の方々にも支えられながら、
なんとか故人とのお別れをしなくてはなりません。
故人の御旅立ちを見送ったあとから迫る寂しさのなかに、
『これで良かったのだ』
と、『安心』を与えることができるのは僧侶の大切な務めです。
そのために、いまいちどその意義を遺族の心に灯すため、
「柔軟に伝えていく手法」の必要性を感じております。
葬儀に関わる方、それぞれのお立場をわきまえつつ実践していき、
ひとりでも多くの方に『安心』してもらえるように尽くさなくてはいけません。
このたびの講習会はその点において大変勉強になり、
あらためて考える機会をいただきました。
寺院、僧侶に対する厳しい意見は多く、それを真摯に受け止めつつ、
何が欠けているのかを見直していくことは必然的な作業であることのひとつ。
同時に、寺院、僧侶だからこそ出来きることや求められていることを知ることも
大いに必要であり前向きな作業となります。
合掌
言葉の力~いただきます~
京都本山での修行時代、日々食前に作法としてお唱えした偈文。
『五観の偈』
一には 功の多少を計り 彼の来処を量るべし
二つには 己が徳行の全か欠か 多か減かを忖れ
三つには 心を防ぎ過を表すは 三毒には過ぎず
四つには 正しく良薬を事とし 形苦を救わんことを取れ
五つには 道業を成ぜんが為なり 世報は意に非ず
今月のホームページ「言葉の力」では、その一(はじめ)に唱える偈文を
お伝えしています。
『功の多少を計り 彼の来処を量るべし』
日々の食事は、それを美味しく作ってくれる人がいる。
材料ひとつにまで思いを馳せば、まず私たちを生かしてくれる自然の恵みが有り、
それらがどれほど多くの人の手にかかってここに食事として届いたのか、
想像を巡らせることができます。
「いただきます」という言葉には、二つの気持ちの柱があります。
ひとつは私たちが食事としていただく尊い「生命」に対するもの。
もうひとつは食事を作る人、食材を作る人、運びつなぐ人など、
それぞれに込められた「想い」に対するもの。
ここに寄せる気持ちがいただきますという言葉、合掌の姿勢に通じます。
気持ちが先か、姿勢が先か、というとその答えはわかりませんが、
私は姿勢をつくることから教わりました。
まずは姿勢をつくることから、想像力や思いやる心を養っていくものと
いまは考えています。
食事を正しくいただくことは、「心の栄養」ともなっていくのでしょう。
先日、新潟佐渡まで過疎課題に向き合う研修機会として行ってきました。
道を歩いていると、自転車ですれ違う地元の小学生から、
大きな声で、「こんにちはー!」と挨拶をいただきました。
船に乗ると、居合わしたこども達から同じように挨拶されました。
それは自発的なものであり、こども達に自然と身についている姿勢と感じたのです。
とても嬉しかったし、正直、驚きました。
地元の大人が、関心をもってこども達に接する様子が目に浮かびます。
こどもに挨拶の大切さを伝えたければ、挨拶を日常的に実践している
大人の存在が必要です。
合掌の姿勢を伝えたければ、同じく手を合わせることが身についている
大人の存在が必要です。
大人の姿を見て、こども達は良きも悪しきも吸収していきます。
先に健やかな気持ちをつくること、育てることは難しいですが、
健やかな姿勢が身についていくことで、その先に徐々に心が潤っていくものと思います。
家庭では、日頃から『いただきます』の声の響きを大切にしたいものです。
合掌
『五観の偈』 意味
一には 功の多少を計り 彼の来処を量るべし
食事に含まれた恵み、多くの想いと労が加わり届いていることを思いましょう。
二つには 己が徳行の全か欠か 多か減かを忖れ
食事をいただく前に、自分の行いを振り返り反省するゆとりを持ちましょう。
三つには 心を防ぎ過を表すは 三毒には過ぎず
食事は心を整えて、好き嫌いや不満を離れる努力をしましょう。
四つには 正しく良薬を事とし 形苦を救わんことを取れ
食事は命の糧。 自身の健やかな体と心を保つものと考えましょう。
五つには 道業を成ぜんが為なり 世報は意に非ず
食事で得た力で仏道を歩み、よく働き、自他の身心向上に生かしましょう。
この先に
今年度一回目となる寺の所有地一斉草刈りの日、現地視察に行くと、
なんと、一帯の草すべてが刈り終えていました。
毎度人手と時間を要するその作業を、いつ、どなたがして下さったのか?
周辺でお尋ねしたところ、すぐにお答えをいただけました。
近所にお住まいの方が、なんとお一人で連日朝早くに刈って下さっていたようです。
このことには大変驚き、恐縮いたしております。
本当にありがとうございました。
毎年、夏秋3回、総代様、有志のお檀家さまのお力添えのもと一斉作業を行います。
広い複数の管理地での作業は重労働ながら生産性はなく、
みなさんに重なる苦労を感じております。
それにもかかわらず、毎回総代みなさんがまとまり時間を割いて下さり、
渾身的なご奉仕をいただけていることは誠に有り難いことです。
一方で、この先の不安も感じております。
以前はこれらの土地を借り、田畑として耕作をしてくださった方々がいました。
地域内の高齢化が進むなかで、そのような方は居られなくなり、
利用のない土地を多く抱えているのが現状です。
そこはしばらく有効な活用がなく草だけが延々伸び続け、荒地にならないよう
定期的に人の手によって整備、浄化作業のみを続けているのです。
地域全体としても同じことがいえます。
高齢化、人口減、若年層の流出が顕著に進み、空き家、空き地が増えていく状況。
こどもが通う校舎は生徒が減り、空き教室が多く存在したまま老朽が進んでいく。
地方寺院に関していうなら「墓じまい」や「お墓のおはか」という話題にわかるように、
檀家が家墓の継承を断ち、石塔の処理による聖地返還の事例が少しずつ増えはじめ、
ここにも空き地化が進んでいくのです。
これからもなお進むであろう地域の人口減は様々なところに空虚を生み、
そのうえで労力と負担は増していくため、この先々はより支え合い、
「つくしあいの心」が必要になるのではないでしょうか。
仏教の説く諸行無常。
ものごとに実体はなく、すべてのものごとは移り変わってゆくという教え。
唯一変わらないのは、仏法という『本質』だとしています。
本質を観る鍵なるものは、「人の心」だそうです。
「すべてのことは心から始まる」
自身、ものごとの上っ面ばかりを見ているような気がしています。
未熟なリにもまわりの人達からの大切なご意見、助言をいただきながら、
お寺を柔軟に活かして開けるような努めをしたいと考えています。
合掌
クローバー
辺りではたくさんの花が彩鮮やかにして咲き誇り、木々の若葉が青々と茂り、
自然の息吹を力強く感じる季節を迎えております。
先日、こどもに四葉のクローバーを探してほしいと頼まれ、
境内のたくさん生えている場所に向かい一緒になって探しました。
しばらく探してみましたが、なかなか見つからないものですね。
父の力、まったく及ばず、早々にあきらめました・・・。
しかしこどもは翌日もあきらめることなく探し、やっと見つけて喜んでいました。
こどもの純粋な探求心は根気につながり、あきらめない心を養ってもくれている。
そんなことを大人目線で思ったりもしましたが、一方で境内のその場所に何気なく
再度足を運び感じたことがあります。
『四葉のクローバーを探すために多くの三つ葉が踏まれている』
話が逸れますが、5月30日、当山で宗派の布教師による講演会が開かれます。
講師は青少年育成を理念として長きにわたり尽力する数々の活動が評価され、
正力松太郎賞を受賞されております。
その先生の言葉に、はっとさせられるものがございます。
学校では、「人に迷惑をかけてはいけない」と道徳で教えてくれる。
仏教では、「自分が迷惑をかけて生きていることを自覚しなさい」と教わる。
やはり仏教は寛容であり、自分は如何にして生きているのかを突き詰めて
いくものなのだなと、この言葉に感じるのです。
人が社会を生きるには、人に迷惑をかけないようにと心掛けなくてなならない。
その前に、人は多くの人に世話になり、姿かたちに表れないものも含めて
多くの迷惑をかけないと生きていけないという事実があります。
人の生老病死はそれを避けて通れないのです。
日頃お檀家さまとお唱えするお経『智山勤行式』も、経本をめくり最初に読むのは
『懺悔の文(さんげのもん)』です。
私が行ってきた数々の悪業は
すべて 人のもつ三毒(貪瞋痴)による身体・言葉・心より生じています
一切をいま反省いたします
このように自己の反省を行った後から仏さまの教えを読み進めていくのです。
人が操作して創った価値に魅せられたり、あるいはそれに惑わされたりすることで、
本来の価値が粗末に扱われてしまうこと、それは私たちの日常に多々あることです。
こども達は純粋に価値を探し求め、その行動だけで心も体も成長していく。
大人はそんなこどもの傍で何かに気づかされ、わが身を振り返る脚下照顧の機会となる。
これから先も、「喜びと反省」は葉の表裏のように有り続けていくのだと知るのです。
合掌
5月30日(木) 記念講演会についてはこちら
http://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20190430post-292.html
5月18日、境内はクマガイソウ、つつじが綺麗に咲いています
花からのメッセージ
新しい時代、令和を迎えました。
令和
beautiful harmony ―美しい調和
素敵な響きですよね。
昭和の時代は64年と大変長く、続く平成の時代も31年の時を経ました。
私は昭和51年の生まれ。
生まれてから十数年の昭和の記憶に比べると、
30年過ごした平成の時代は深く記憶に残っております。
夢中になり打ち込むことのある毎日のなかに悩みもあった思春期。
ひたすらに仲間と楽しみや刺激を追い求めた学生時代。
僧侶の道を進むことを決意してから得た多くの経験と変化。
一成人、一社会人として関わらせていただいた方々から授かった学びとご縁。
言葉で表し切れないほど迷い、葛藤し、そして芽生えや感動があった平成の記憶。
あらためて「感謝」しなくてはならないことばかりであります。
令和はどのような日々を重ねていけるのでしょうか。
世の中はどのように変わっていくのでしょうか。
やがて平成の記憶が色褪せていくなかにおいても、多くの人が時代の節目に
抱いた祈りや期待を、自身の心と行動に留めていけると素晴らしいと思います。
あきらめることなく失望することなく「希望」が生まれることを信じ、
この時代に精進を重ね、そしてなお楽しみを追って過ごしたいと願うのです。
争いをせず、争いの種を広げず、慈しみ分かち合いを重んじていけますように。
心に素敵な時代として刻まれる令和と成ることを祈念致します。
合掌
―花からのメッセージ―
遠くの山上にポツンと寂しく一本の桜が咲いている
誰も近づくことのないその場所で―
誰の為に咲くのでも 誰に喜ばれるから咲くのでもない
花は自分の時が来て精一杯に咲く
人にも「自分の時」があるだろう
吉兆
4月28日のお昼頃お参りくださったお檀家様から
いただいた一枚の写真です。
ふだん目にする虹とは違う。なんでしょうかこの空の現象は。
恵みを感じる素敵な風景写真です。
枝垂れ桜の下には何かが置かれています。
なんでしょうか。
花御堂です。
誕生仏が祀られています。
この日の午後、お寺ではGW親子てらこやが開かれました。
腕輪念珠づくりや真言密教の瞑想(月輪観)体験など。
親子一緒に過ごす寺子屋のなかで満開のお花見を楽しみ、
お釈迦さまへの甘茶がけ作法をしました。
お母さん方の親睦の時間。
親子でとりくむ共同作業の時間。
生活に活きていくお釈迦さまの教えを伝える時間。
そんな時間を楽しく過ごさせていただきました。
同じ日にこんな空の様子があったんですね。
私は気づきませんでしたが。
長い連休に多くのこども達、多くのご家族に幸せな時間が訪れることを
期待させるものであります。
合掌
石彫りの業者様からいただいた写真です。
作業中墓石に映り込んだ色に気付き、空を見上げて収めたそうです。
桜の開花ー琴と野点ー
4月22日、境内の枝垂れ桜が開花し見頃を迎えました。
この日は朝から暖かな陽気となり、午前境内では枝垂れ桜の下で
琴が演奏され、お抹茶と季節の茶菓子が振る舞われました。
枝垂れ桜のもとでというより、澄み切った青空のもとでと表現した方が
よいくらいの春の快晴に恵まれ、季節に趣ある野点となりました。
22日はまだ五分咲に満たないほどであります。
今後一週間が見頃となり、5月始めまで満開の枝垂れ桜が楽しめると思います。
25日(木)には10時から金剛界大日如来・不動明王の造顕と
本尊阿弥陀如来の光背、台座ならびに両祖大師修復満了にともなう
開眼法要を迎えます。
当山に刻まれる「新たな歴史の始点」と捉えてよいと思います。
光明を放つ有り難い仏さまと満開の桜がみなさんをお迎え致します。
ぜひお参りにお越しいただき、ともにお祈り下さい。
合掌
幻想美
このたび4月14日夜に本堂で行われる御諏訪太鼓と仏教音楽声明の
共演に向け、境内の特別ライトアップを致しました。
毎日見ている伽藍にお化粧をして幻想的な美を創造しました。
本堂は青龍山真福寺の山号にちなんで龍をイメージしております。
隣の観音堂は聖観音の慈悲深さを明るく温かな黄色に表現しております。
暖冬であったことから桜の開花は早いものと予想しておりましたが、
4月になると思うほど気温があがらないばかりか、寒が戻り雪まで降るお天気。
コンサート当日のライトアップでもっとも見応えを期待していた境内の枝垂れ桜は、
残念ながら開花が遠く、あきらめることとなりました。
22日午前10時からは琴の演奏と花見を楽しみながらのお茶会、
28日午後のGW親子てらこやにおいても花見を致しますが、
この頃には満開の桜が楽しめると思います。
合掌
相互合掌の心
この春、息子が卒園を迎えました。
3年間同じ担任先生にお世話になることが出来ました。
こどもの迎えの時間、先生が私たちに伝えて下さる一日の様子やご指摘、
そして時折いただけるアドバイスに私たちも励まされました。
こどもの心のなかは計り知れないところがあります。
何処で成長のきっかけを得ているかは、大人にはすべて掴みきれないものです。
長い時間を保育園で過ごし、親の知らないところで先生方から育てていただいた部分、
その恩恵がたくさんあったのだと思います。
先生、ありがとうございました。
さて、テレビをつけると、いま学校で起きている問題が多く取り上げられています。
その中には、教師と生徒間に起きる問題も少なくありません。
なんとなく息苦しさが伝わる教育現場、そして社会構図。
何故でしょう。
いつも何故なんだと考えさせられます。
家庭でこどもにとって親が健康であることが大切なように、
学校でのこども達の成長には、先生方の心と体の健康が
極めて重要なことなのです。
希望のもてる未来でありたい。
家庭のなかにそのヒントがある気がしております。
大人が感謝を伝えているか。
大人が目標に向けて過ごせているか。
大人に反省の姿があるか。
親として大切なことではないでしょうか。
こどもは幼い頃から親をよく見ており、親をよく知っています。
大人は不都合をこどものせいにせず、学校のせいにせず、
家庭でこどもと話し合う機会を失わずに、こどもと一緒に成長するのだという
謙虚で前向きな姿勢でいたいものです。
新たな時代には多くの人が希望を抱いています。
「ありがとう」と「ごめんね」に気付き、伝える価値をいまいちど膨らまそう。
『相互合掌の心』から活力を育もう。
多くの人にとって、良き春の到来、新たなスタートとなることをご祈念申し上げます。
合掌
お知らせ
親御さんとも交流し、情報交換できる場がほしいと考え、
GW、4月28日に『親子てらこや』を開催します。
FAXでお申し込み下さい。
0266-24-2887
(詳細はこちら)
諏訪の昇陽
3月の諏訪。
とても空気の澄んだ朝です。
昇陽が美しいですね。
2月、インドのガンジス川から拝んだ日の出はとても感動しました。
あたりまえのことなんですが、不思議だなあと思うことがあります。
同じ太陽を見てるってことです。
角度、見方、環境が変われば、心変われば、違って見えるものです。
夜書いた手紙を朝読んでみて、書き直した経験ってありませんか。
自分の意見と違う人と接してみるといい。
その理由は、自分の欠点や見えてなかった部分に気づかせてもらえるからです。
習慣が変わるといい。
凝り固まった心に動きが生まれるからです。
人は同じところに留まらないほうがいいのかもしれません。
さて、もうすぐ暖かな春ですね。
お寺の行事が始まります。
毎月の写経会、念珠の会、御詠歌の会、朝まいり会、寺カフェ。
この他にも行事がございますので是非お越し下さい。
4月14日(日)は御諏訪太鼓と声明のコラボコンサート。
http://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20190130post-279.html
4月22日(月)は琴と野点~お花見茶会~
http://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20190316post-285.html
4月28日(日)はGW親子てらこや。
http://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20190309gw.html
お寺の行事はどなたもご参加いただけますので、
お気軽にお越し下さいませ。
美しい自然に囲まれた諏訪は、ノープランでお出掛けしても
私たちを楽しませ、癒し、恵みを感じさせてくれます。
ふらっとお出掛けして、春と希望を見つけましょう。
合掌
インド仏跡巡拝
このたびインドを旅してまいりました。
バラナシから始まり、聖なる川と呼ばれるガンジス川にて沐浴礼拝を体験。
ガンジス川から望む日の出がなんとも美しく、感動。
感謝を込めて手を合わすことができ、良い旅の始まりとなりました。
ーーーーお釈迦さまの聖地ーーーー
【ルンビニ ー御生誕の地】
お釈迦さまがお生まれになった場所にて
※現在のネパール
お釈迦さまがお生まれになった聖地として、
ルンビニー園は1997年に世界遺産に登録される。
『天上天下唯我独尊』
人として生まれた尊い命 たったひとつしかない尊い命
アショーカ王は即位20年の節目にこの地を訪れ、お釈迦さま御生誕の地である
ルンビニー村の税金を8分の1に減税した。
【ブッダガヤ ー成道の地】
お釈迦さまがお悟りになった場所にて
大塔
菩提樹 お釈迦さまが瞑想しお悟りになったとされる場所
金剛宝座
菩提樹を前にして勤行
【サールナート ー初転法輪の地】
お悟りになったお釈迦さまが初めて説法を行った場所にて
僧院跡
ダメークストゥーパ
ストゥーパ:お釈迦さま入滅後、真身舎利が祀られた。
釈迦転法輪像
【ラージギル -説法の地】
お釈迦さまが多くの説法を重ねた場所にて
霊鷲山 お釈迦さまが法華経を説いたとされる山にて勤行
霊鷲山から望む夕日
【バイシャリ】
お釈迦さまが何度も訪れ好んだ場所であり、最後の旅の出発点でもあります。
バイシャリ王宮はリッチャビ族が治めていた初の共和の国ともされる。
アショーカ王柱が綺麗に1本残る。
レリックストゥーパ発掘跡
リッチャビ族が持ち帰ったお釈迦さまの舎利が収められていた
現在は屋根が設けられている
お釈迦さまも最後の旅にこちらを発つ際には名残を惜しんだといいます。
立ち止まり、後ろを振り返りこの街を眺めて言ったそうです。
『バイシャリは美しい。 これが最後の眺めになるだろう。』
この頃には自身の死が近いことを悟っていたようです。
【クシナガラ -涅槃の地】
お釈迦さまが入滅された場所にて
沙羅の樹 お釈迦さまはこの樹の下で涅槃に入られた(80歳)
釈迦涅槃像
大涅槃堂と沙羅双樹
荼毘塚
お釈迦さまを荼毘に付した場所
ーーーー旅の風景ーーーー
ガンジス川沐浴と火葬の風景
3~4時間かけて灰になるまで火葬され、聖なる川とされるガンジス川に流されます。
正覚山
遠くに見えるのが、お釈迦さまが苦行を積んだとされる山
印度山日本寺
現在は真言宗智山派の青年僧(飯田市)が常在して日本寺を守り、
御本尊様に仕え、日々参拝客を迎えております。
この機会に表敬訪問を致し、朝勤行、瞑想に参加させていただきました。
日本寺付属の菩提樹学園に通うこども達には、日本寺僧侶を通じて希望を聞き、
クレヨン105箱と自動鉛筆削り2台をお届けさせていただきました。
こども達がクレヨンで描いた絵
ニームの木
路上では殺菌、薬用効果のあるニームの木が売られています。
インド人はこれを歯ブラシとして使うそうです。
実際に朝のガンジス川では、この木で歯を磨くインド人を見かけました。
噛んでみると、なるほど苦い。
チャイ
本場のチャイはとても美味しい。
ほぼ毎日飲みました。
キャパオーバー・・・。
すべては自己責任なのでしょうか。
賑わう街にも静かな村にも牛は随所に見られ、聖なる動物として大切にされています。
気を抜いて歩くと糞を踏みます・・・。
バスの横を通る像!!
広大な土地で作られた野菜や果物が街の至る所に並ぶ
旅の始まりとなったバラナシの朝
信号はなく、クラクションが絶え間なく鳴り響く街の喧騒
ストゥーパでの発掘調査
すべてのことは留まることなく移りゆき 過ぎ去っていく
弟子たちよ 自身で行く道を照らし 心に私の教えを照らし
怠ることなく過ごしなさい
これがお釈迦さま最期の言葉として伝えられております。
インドの街、現地の人々の生活を見て、考えさせられることが多々ありました。
独特の匂い、濁った水と空気、乏しい明かり、日本とはかけ離れた生活の姿。
欲にひたすら素直であり、日本人の建前といったものはないように感じます。
広大な国のなかに生と死、激しさと祈りがリアルに在り、
それでいて懐深く、とてもゆっくりと時間の流れがあるようなのです。
お釈迦さまの聖地を訪れて風光に触れ、さらにインド人の生活の一部を知り、
とても有意義な体験を得る旅となったことに感謝します。
合掌
布教
本堂での御諏訪太鼓と声明のコラボコンサートが企画されております。
諏訪大社太々神楽を伝承する御諏訪太鼓の伝統は、
諏訪の人々にとってひとつのブランドといってもよいでしょう。
私たち僧侶も、仏教音楽である美しい智山声明をお唱えして、
皆様の心に響き悦んでもらえるような荘厳な舞台を目指します。
平成の時代は生活様式が大きく変化し、新しい価値が次々と生まれてきました。
多様化する社会環境のなかで仏教寺院、僧侶の在り方には問題提起がなされ、
少なからず危機感をもつようになりました。
古より大切に受け継がれてきた仏教は、幕開ける新時代のなかで
どのように展開し存在を示していくのか。
そもそも必要とされているのだろうか。
この企画は大切な「布教」の機会とも考えております。
先の時代を担う青年僧として布教活動は欠かせぬものとなり、
やりがいを持つべき責務として素直に捉えております。
散華にはすべて手書きの布教メッセージを添えます。
自分なりに出来ることをひとつずつ、一歩一歩。
合掌
コンサートは4月14日(日)。
詳しくはこちらをご覧ください。
勇猛精進
今月の言葉の力を「勇猛精進」としました。
新年の始まり、また新しい時代へ移りゆく年でもあり、
一年の安寧を願うばかりでなく、自らの志を一層堅固なものとして
日々を重ねたいという思いから、精進という言葉が相応しいと考えます。
目標、目的を確かなものとして、自分を見失わずに一日を大切に重ねてゆく
姿勢が求められます。
さて、亥年といえば猪に因んで「猪突猛進」という言葉が浮かびます。
その突進する姿から、目的に向かって迷わず事を前進させる印象がある反面、
愚直にまっすぐ突き進むという少々危ういイメージから、
冷静な間(ま)を心がけよ、とも教えられています。
この機会に『変化』を求めている人も多いでしょう。
変化とは、「浄化」の後にやってくるもののようです。
浄化作業とは人により様々でありますが、
そのひとつとして、今までのすべてを抱え込むことなく無駄を捨てる作業があります。
生まれたスペースに新しい考えや習慣を招き入れることで変化が起きるのです。
さあ、何を招き入れるのか。
お寺の将来にも、癒しと両輪となって気づきの作業が得られるような
取り組みや居場所が求められている気がしております。
自らの行動を「考動」とする意識を働かせながら、
精進を重ねていける年にしたいと考えます。
合掌
迎春 己亥
明けましておめでとうございます。
2019年新春を迎えました。
平成時代は四月末をもって三十年間の歴史に幕を閉じ、
五月から新しい時代を迎えます。
日本は来年の東京オリンピック開催を控え、新時代の幕開け早々真価と力量が問われ、
都心に限らず各地が期待に応えるべくおもてなしの価値を高め、
今年はその発信力と国内ムードが相高まり、印象に残る一年となりそうです。
さて、今年は亥年。守り本尊は当山の御本尊である阿弥陀如来です。
阿弥陀如来の位は「不退転の位」と言われています。
不退転の決意という言葉の如く、新時代の始めに改めて確かな目標と
希望を抱いて猛進してみたいものです。
たくさんの笑い、出逢い、まなび、感謝、
皆様にとって悦び多き年となりますこと心中よりご祈念します。
檀信徒皆様、つながりをいただいている関係皆様
ならびに当山ホームページをご覧下さっている皆様、
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
合掌
大晦日 二年参りの様子
新たな年に向かう人達の希望が鐘の音となり響きました
お寺にサンタクロースがやってきた
クリスマスイブの日、自転車に乗ったサンタクロースがお寺にやってきました。
お寺の境内でクリスマスとは違和感がありますけども。
2009年から8年間かけて自転車に乗り世界一周を果たした
小口良平さん(諏訪圏出身)を中心とした12人のサンタクロース達です。
この様子はLCV-NEWS+アイ にて
(17:00 18:00 19:00 23:00 25:00)
妻の実家である大阪のご両親からのプレゼントを届けて下さり、
こども達は大喜びで興奮してました。
このまちに育つこども達の喜ぶ顔が見たくて、夢を届けたくて、
地道に心通わす活動をしてくださっている方々がいることを嬉しく思います。
そして純粋なこども達の心が健やかに成長し、夢が膨らむことを願います。
小口さんはじめとするサンタ役皆様、温かいお気持ちをありがとうございました。
さて、クリスマスが終わると年末年始はお寺や神社にお参り。
拠り所とする対象がコロコロ変わる日本人って不思議。
でも、それによって人の心が健康に養われ、生きる力が得られるのなら、
その不思議さや曖昧さもまたいいと思うのです。
少々早い挨拶となりますが、
檀信徒皆様、つながりを頂いている関係皆様、
ホームページをご覧下さっている皆様、
本年も有難うございました。
良い年をお迎えください。
大晦日は二年まいりにお寺で会いましょう。
合掌
大晦日二年参り お待ちしております
今年も残すところ十日ほどとなり、年越しの準備に入っていきます。
年賀状はできるだけ早めに済ませます。
これから大掃除ですが、毎年入念に取り組みます。
年末大掃除は、自分の過ごした場所に居られる神々や仏様への
一年無事の御礼でもあります。
今年も大掃除に取り組める満足な体があることをまず実感するのです。
そして、大掃除をすることで一年間の心の垢も落ちていくことでしょう。
大掃除、年越しの準備が済むと大晦日には二年参りですね。
「去る年に感謝と反省 来る年に希望と発心」
お寺では美味しい厄除け汁、甘酒、お酒、縁起物をご用意しております。
本堂御本尊へのお参りにお体が冷えませんよう暖めてお迎えいたします。
除夜の鐘は人数制限がありませんのでお誘い合わせて、
道中気をつけてお越し下さい。
古札、お墓の傷んだ塔婆、縁起物等のお焚き上げもしておりますので
お持ち寄り下さい。
23時からは本堂におきまして年最後の先祖供養を行います。
お経本をお渡ししますので一緒にお経をあげましょう。
大晦日の除夜の鐘によって皆さんの心が清まり、
志一層堅固なものとして新年の幕が明けますよう祈念しております。
合掌
防災 ~灯明の心得~
「真福寺方面で何やら音がして、オレンジ色の光が見えた。」
先日の夜、消防への通報があったという。
「真福寺のあたりで何かあった?」
知人から私の携帯電話にも連絡が入る。
直ちに確認し、しばらく周囲の見回りをしましたが異常は見当たらず、
しかし消防車両とパトカーが何台も近所を走り、物騒な様子が続きました。
実際はお寺からだいぶ離れた場所での車両火災だったそうです。
さて、時は師走。
火の扱いには気をつけ大事を起こしてはなりません。
お寺はもちろんのこと、ご家庭の台所やストーブなど火の元もそうですが、
お仏壇のろうそくも十分に気をつけるべき点です。
『危ないから、ろうそくの火はつけなくてもいいよね。』
生活の安全第一を基準とすれば、その通りだと思います。
仏さま、ご先祖さまも家が火事になってはお悲しみになるに違いない。
それでも、あえて私からはお灯明について、
ろうそくに火を灯す行為の大切さをお伝えさせて下さい。
ご家庭でも毎日お仏壇のろうそくをつける方はいらっしゃると思います。
お寺では毎朝のお勤めにろうそくを灯します。
灯明とは、「お供えの要」のひとつであります。
神仏やご先祖さまへのお供え。
同時にご自身へのお供えとも考えて下さい。
帰宅し、生活空間の暗がりに明かりをつけた時の安心感は
誰でも経験あることでしょう。
静寂のなかに灯されるろうそくの火には、
心に沁みるような温もりを感じることができますね。
これらは智慧の光が射し込む功徳です。
智慧とは、不安や迷いを除く光明です。
ろうそくの火を灯すのは、神仏、ご先祖さま、あるいは亡き人に対する
敬意を込めた心づくしなのです。
さらに自らの心の働きに灯される智慧の明かりでもあり、
この明かりが起点となり、行動を起こす「導き」をいただくこともあるのです。
危ないからろうそくの火はつけない、とお考えの方も
お大切な日には、手を合わせるひとときだけ灯明を供えてみてはいかがでしょうか。
たわいもない習慣ですが、灯される導きの明かりには、
ふと何かに気づかされることもあるのですよ。
そして、
『ろうそくはしっかり消して安心できるところまでが作法であることをお忘れなく!!』
この一連の作法に心を込めて、決して火事は起こさぬよう気をつけましょう。
師走につきお供えの機会も多く、防災また防犯にもご用心下さい。
合掌
お芝居
おかや演劇祭に行き、演劇観賞をしました。
稽古場も時々見学させていただくことがあり、妥協のない姿勢に見入っておりました。
初日公演、わくわく、ドキドキした気持ちで開演を待ちました。
定刻、会場内が暗くなり、映画鑑賞とは異なる緊張感。
―――――――――――――――
終始、前のめりになって観賞しました。
躍動する役者の魂こもった演技。迫力。
心の揺れ、気持ちの高揚がひしひしと伝わり、とても感動。
場内に満ちる拍手喝采。
演出者からの前説で、
一緒になって舞台を創り上げるような気持ちで観てほしい、
という言葉をいただき、そのとおり、まさに感情移入し満足できました。
本気になって仲間と何かを創りあげることって素晴らしいですね。
25日(日)、岡谷カノラホールで最終公演があります。
是非もう一度観賞したいと思っております。
山間の小さな町。
6月の祭りの時期に現れた不思議な少年は、
雨と、切ない思い出と、小さな奇跡を運んできた・・・。
「ごめんね、雨ふらせちゃって。」
心が洗われるような素敵なストーリー、渾身のお芝居を楽しめたこと、
切ない気持ちと感動を持ち帰ることができ、とても嬉しく思います。
今日は他の演劇も楽しんでみようと思います。
合掌
元気の源
生きていくうえで「口による行い」は重要です。
一つには呼吸
二つには言葉
三つには食事
『口は災いのもと』
自分の「発言」に気をつけなさい、とのことだが、
実際には口により招かれる災いはこれに限らない。
たしかに上記のどれを粗末にしても悪因となります。
しかし、いずれ悪果を招くからいまの行いを正すという考え方は、
単に未来への恐れであり、ある意味で執着とも言えるでしょう。
純粋にいまを楽しみ、いまを良いものにしようという考えのもと、
「いまを生きる力」として行いを捉えることができるはずです。
『口は元気の源』
このくらいの解釈がちょうど良いですね。
ー言葉の力ー
言葉には力が宿っています。
言葉は届いた心に響きます。
ひと言が人を勇気づけ救い ひと言が人を傷つけ迷わす。
自分の感情を離れ 相手を思いやる言葉であれば
きっと人を磨くことができます。
言葉は人を創ります。
不満の言葉で満たすなら 物事を咀嚼して価値を見出し
前向きで喜びのある言葉を生む方が良い。
多くのお陰に気づくことが きっと人を豊かにします。
いつでも心に蘇るあの人の言葉。
言葉には生きる力が宿っています。
あらためて・・・
一つには呼吸 ・・・焦らず深呼吸 毎日一度は外の空気を
二つには言葉 ・・・言葉は生きもの 言葉がカタチを生む
三つには食事 ・・・いただくという心 かたよらない心
口による行いから元気の源!
合掌
心の姿
植木職人さんが庭木の剪定をしてくださっています。
毎年、秋の剪定作業を終える頃より一気に冷え込み冬に向かいます。
今は境内の木々がもっとも葉を落とす時期。
春に桜を見て、美しいと思った。
夏の青葉を見て、たくましいと思った。
秋になり、紅葉の彩りを求めた。
しかし、やがて葉が枯れ落ちる頃になると、
掃き掃除をしながら、その葉の多さに億劫になる。
綺麗に掃き終えたあとに風が吹き、再び葉が落ちて広がると、
つい溜息が出そうになる。
溜息もその風に吹き消されるのだが。
「心はどこへいった?」
人間の心とは弱く、その姿は移り変わり易いものだ。
自分に都合よく流れてしまう。
ありのままを受け入れることが心の強さであるならば、
私は毎年この時期になり、己の弱さを感じる。
おそらくこの心は冬になると、毎朝積雪を恐れ目を覚ますのだろう。
『人のこころは勝手に動いてしまう。
こころを整える行いをしなさい。』
身近にあるお釈迦さまの言葉が身に染みる。
合掌
紅葉の様子(11月5日)
日常にある 笑いと焦り
娘に続き、息子も来年は小学生となります。
お世話になっている保育園でも、小学校入学に向けた保護者面談が行われ、
息子の「現在地」について先生とお話する機会がもてました。
常日頃より先生方には感謝。
さて、この年頃の子は色々覚えていくようでも、まだ知らないことの方が圧倒的に多く、
会話のなかに生まれる「勘違い」や「知らないこと」が、
家庭の日常に『笑い』をもたらすことがあります。
こどもは笑われたと思い悔しがることもありますが、
大人からしたらなんとも微笑ましいわけでありまして・・・。
◇先日、夜の会話 (part1)◇
食後、自身腹痛が生じており
私 『イタタ、痛いなー。 タコがあたったかなー・・・。』
息子 『どこに?』
私 『ん? ド、コ、ニ?。』
息子 『誰かが、タコ丸めて投げてきたの?』
◇先日、夜の会話 (part2)◇
運転中、対向車線にパトカー接近(赤色灯が夜道に光る)
すれ違いの際に
私 『ちゃんと座ってなよ~。』
息子 『あー、救急車に捕まらなくてよかったー。』
私 『え?!救急車は人を捕まえるんじゃなくて、助けてくれる車でしょ。』
息子 『あー、そうだった、霊柩車だった。』
私 『いまのパトカーっ!!』
(とっさに霊柩車が言葉に出てくるあたり、お寺に育つこどもらしい・・・。)
◇先日、夜の会話 (part3)◇
あっという間に年末が迫るねーって話の流れで
私 『今年はサンタさんに何お願いしたいの?』
息子 『ん~・・・、免許証!!』
私 『メ、メンキョショウ!? なんで免許証?』
息子 『だって大人になってから教習所行かなくていいでしょ。』
私 『・・・・。 (なぜ?)』
※なぜ息子がそんな発想になるのか、思いあたるふしを妻に尋ねてみた。
(息子が好きで観てるテレビアニメ 『スポンジ・ボブ』)
妻 『スポンジボブが通っている自動車教習所の先生が厳しくて、
ボブは運転免許がもらえないらしいよ。』
(合点・・・、今年はお寺にサンタさん来ません・・・。)
このとおり親子とも未熟であります。
これからも大人とこどもが互いに成長していけるよう努めます。
合掌
幸福について問われ
ベトナム人留学生(21)によって寄稿された
過去の新聞記事を紹介します。
私は日本に来るまで、日本は立派で偉大な国だと思っていた。
来日当初も、街の発展ぶりや人々の生活の豊かさを見て、
私の国のベトナムとの差は大きいと感じた。
きっと日本人は自分の国に誇りを持ち、幸せだと感じているのだろうと思っていた。
しかし、来日から10ヵ月が過ぎた今、実はそうではないように感じる。
日本は、世界でも自殺率が高い国のひとつだという。
電車の中では、睡眠不足で疲れた顔をよく見る。
日本人はあまり笑っていないし、いつも何か心配事があるような顔をしている。
日本人は勤勉で、一生懸命働いて今の日本を建設した。
でも、会社や組織への貢献ばかり考え、
自分の成果を自分が享受することを忘れていると思う。
ベトナムはまだ貧乏な国だが、困難でも楽観的に暮らし、めったに自殺を考えない。
経済的豊かさは幸福につながるとは限らない。
日本人は何のために頑張っているのか。
幸福とは何なのか。
日本人自身で答えを探した方がいいと思う。
以上 (記事引用)
異なる文化や価値感を有している一学生による捉え方でありますが、
正直で的を得た思いがここに綴られています。
幸せですか?と聞かれれば、
私は迷うことなく幸せですと答えます。
紐解けばこの幸せは、私の知らない遠くの他人と身近な家族によってもたらされました。
勤勉で一生懸命働き、朝は睡眠不足、へとへとに疲れて一日を終える、
そんな多くの人々のお陰によって創造された豊かな暮らしのなかにいます。
しかし、心穏やかですか?と聞かれると、
少々考えてしまいます。
社会はSNSの恩恵を授かり、
日常の生活と職務の遂行両方に欠かせないものとなっています。
ところが私生活に拡がるSNSの内容に関しては時々疑問を感じます。
投稿される写真などには、際立つ華やかさ、豊かさ、話題性、
その特別感ゆえ価値が盛られた内容が膨大に配信されています。
幸せであることを確かめるかのように。
他人と自分を比較するその先に幸せの価値判断があるかのように。
それは、幸せの在りかに気づけないほどに分厚い雲が覆っているような感覚。
このたび留学生の記事を読ませていただき、
2,500年も昔の暮らしのなかでお釈迦さまが説いた、
『足るを知る』という言葉が響くのです。
『知足の者は(心)富めり
少欲を行ずる者は常に足らざること(執着が生む迷い)なし』
(『仏遺教経』)
・人を信じ、人に頼ってもよいのだという価値。
・人が支え合う「結心(ゆいごころ)」の価値。
・自分を生き、他人を真似る必要はないという価値。
そんな価値をいまいちど築きながら、穏やかに暮らせるいま、未来でありたいです。
合掌
。
和に還る
境内にはキンモクセイの甘い香りが広がっています。
このたびお寺で観月会が行われました。
秋の七草、月見団子とお抹茶、秋の恵みがお供えされ、
見上げれば月もはっきりと観ることのできた十五夜の空。
客殿の和室では香が焚かれ、琴が響くなか、
お抹茶と美味しい茶菓子をいただきながらくつろぎました。
満月の明かりを静かに眺めながら心安らぐひとときとなりました。
お寺にこのような素敵な設えをしてくださり、美しい琴の音をもてなし、
そして茶道に親しまれ、お心のこもった茶の接待をしてくださった皆様、
誠にありがとうございました。
日本人にとって「和」に通ずる風習、創作や思考は特別。
多様化した日本の生活は和の環境から遠ざかっている面が大いにありますが、
それでも時折和を求め、和に還り、和の価値に触れ喜ぶことがあるように思います。
日常に「刺激」が必要なように、同じ分だけ「静寂」を求めることがあります。
人は潜在的に「洗心」を求めているのではないでしょうか。
雲に隠れる満月のように。
畳を素足に感じる感触、畳に腰を下ろす感触、色や匂い、
そこからもたらされる緊張と安心感の双方を私は大切に感じています。
一方で、お年寄りが増えていくなか利便性、快適性が必須であることも承知しています。
誰も丈夫で居続けられるわけはなく、いずれは人に頼る身体になるのですから。
現在は多くが椅子席に様変わりし、若者にも当然のように椅子が整い、
畳の良さに触れる機会から遠ざかっていくことは少々寂しくもあります。
お寺では、求める人が還れる、そんな場所を残しておきたいと思います。
合掌
運心
信州人にとって秋の過ごしやすい時期は短い。
もうすぐ彼岸を迎えます。
お墓を参り、夏を越したご先祖さまのお墓をいまいちど綺麗に整える方。
遠隔地から亡き人を偲ぶ方。
仕事や休暇の予定に過ごされる方。
色々と都合あろうかと思います。
秋分の日、春分の日を彼岸の中日とし、その前後三日間を含め彼岸の期間。
そもそも供養とは―。
大切な人を亡くし、悲しみに耐え葬送告別した時の供養と、
その後に向き合う供養はまた違うものです。
後に続く供養とは追善供養。
その字にあるように、善行をもって『養う』という意味が強く加わります。
亡き人を偲び、御霊の一層清く安らかなることを願い、
香花供物を供え、気持ちを差し向けることで、
自らをも養う。
家族、こどもをも養う。
ご縁の方々をも養う。
これらはすべて功徳であり、功徳を積んでまた明日から人と接する。
これは徳が回り向かうという回向のカタチ。
毎朝お仏壇で手を合わせ、今日も一日宜しくと心に念じて
その日の生活が始まるのも同じです。
亡き人の御霊に供養の心を差し向けることは善行です。
同じく、いまを生きる人達を大切にすることも当然善行であります。
どちらも大切、どちらも功徳あることと思います。
いまを健やかに生きるには、仕事に励むことや楽しみ過ごすことも必要であり、
刺激やある程度の緊張もあった方がいい。
一方で、時々は心の垢を落として心を休めるのも良い。
そのひとつに、ご先祖さまのお墓やお仏壇を綺麗にしてみるのはとても良いことです。
それは同時に心も整理して、空気の入れ替えをしてくれます。
目に見えないものからいただく洗心の功徳とも言えます。
そうやって折にふれてつながりを感じさせてもらうことが大切です。
自らの安心とご先祖さまの安心は一緒です。
あっというまに過ぎ去る信州の秋ですが、
お彼岸には歩みを緩め、心を休めてみてはいかがでしょうか。
それは、ほんのひととき自分の居場所で、
ほんの一呼吸だけ手を合わせてみるだけでもいいと思うのです。
このことを『運心(うんじん)』といいます。
合掌
秋彼岸中日の翌日、9月24日(月)には18時よりお寺の客殿にて
「観月会」を行います。
琴の演奏、お抹茶のご接待があります。おくつろぎにお越し下さい。
言葉の力~百聞は一見に如かず~
お釈迦さまがお生まれになり、やがて修行を重ねた後に仏法を広め、
その生涯の最期を迎えたインドの国。
仏教発祥、お釈迦さまの聖地を未だ見ていない僧侶は多くいます。
私もその一人。
お檀家さまには、ご法事や寺の行事などいただいた機会において、
お釈迦さまが伝えたことやその生涯について触れます。
寺子屋にこどもが集えば、お釈迦さまの教えを頼りとした徳育環境を志し、
今後に大切と思えることを伝えます。
『如是我聞~私はこのように聞きました~』と。
しかしながら、自身、お釈迦さまの居られたインドの地を訪れたことがありません。
仏弟子ですから、その聖地を旅して信仰の時をこの目で観て、
実際にその国の風光に触れて感じ得たことのひとつやふたつがあってもいい。
すべては周りの人の実体験を教えていただいたり、
聞いた話を頼りにしているのが現状です。
百聞は一見に及ばないといいます。
一度でもいいので、若いうちに行っておきたい国です。
『百聞は一見に如かず』という先人からの言葉には、
その後に創られた続きがあるようですね。
百聞は一見に如かず
百見は一考に如かず
百考は一行に如かず
百行は一果に如かず
百果は一幸に如かず
百幸は一皇に如かず
聞くだけでなく、実際にみてないとわからない
見るだけでなく、考えないと意味をなさない
考えるだけでなく、行動しないと価値をなさない
行動するだけでなく、成果を生まないと評価できない
成果を上げるだけでなく、それが喜びや幸せに繋がってほしい
自分だけではなく、周囲の幸せを考えることが大切
ふと、これは身近にある仏教の教えに含まれるものだと気づきました。
この言葉たちは、最後に百幸は一皇に如かずと、
人様のために努めなさいと伝え締めくくります。
仏教が説く『抜苦与楽』の姿です。
そのスケールの大小は問わず計らず、
まずはどなたも興味や志に逆らわず、実際に見ることから始めてみたいものです。
合掌
お盆を終え
7月から、暑い暑い、格別に暑い、雨もまったく降らん、
今年はどうしたことだと言い続けた諏訪の夏。
お盆を終える頃にやっと雨が降り、その雨は秋の気配をもたらしました。
朝晩、急に肌寒さを感じるようになりました。
夏の風物詩とされる諏訪湖の花火大会、岡谷の灯篭流し。
雨模様ではありましたが、例年のごとく行われました。
家の前では先祖の送り火を焚く人の姿を見かけました。
お墓に行けば塔婆をもってお参りするご家族を見かけました。
お盆が過ぎ、ひと夏の終わりを迎えます。
この夏がご新盆であった方々と多くお会いしました。
ご新盆といっても、その様子はさまざまであります。
故人の生前のそれぞれ、
迎えた最期のそれぞれ、
葬送の在り方、
周囲の模様、
時間の経過のもたらす変化、
供養の心、気持ちのそれぞれ。
葬儀ひとつ、ご法事ひとつ、新盆の御霊の供養ひとつ、
どれもそれぞれであり、同じものはひとつとしてないと感じます。
命のカタチとは、喜びに始まり悲しみに終わる、そんなシンプルなものではないことは、
多くの人が感じていることでしょう。
縁を知り、日常には楽しみを求め、一方に苦しみや痛みがあり、
憎しみや怒りもあり、また心を動かされて流す涙があり、
そのような感情の数々に触れて命のカタチがはっきりしてくるのだと思います。
ご縁深き方は亡き人の命のカタチを知っているからこそ、供養の姿は様々になるのです。
何処からやってきた命なのか、生老病死の先にどこに行く命なのか。
これからどなたも体験することです。
この世に人として生を受けるは尊いこと。
命が結んだこの世の縁も尊いこと。
ご縁の方によるご供養はとても有り難く大切なことと感じております。
私たちの盂蘭盆の営みには、自分の知る人の御霊の他に、
会ったこともない供養のなされていない無縁の御霊にも
供養を差し向けよという教えがあります。
それが功徳として有縁無縁の御霊、さらにはこれからを生きる者にも広がるということ。
このことは、愛別離苦の悲しみを体験し知る人だからこそ成せると思うのです。
悲しみに時間が重なり、いつか慈悲の心をもたらしてくれる。
供養をするとはそういうものであると信じています。
8月18日(土)19時より、お寺の本堂では恒例の夕涼みコンサートが行われ、
懐かしの曲の数々を聴きながら癒しのひとときを過ごしました。
耳を澄ませば虫たちの鳴き声が聞こえ、辺りはこれから秋に移り変わります。
合掌
ご用心下さい。
今年の諏訪の夏は雨がほとんど降らず、毎日暑い日照り続き。
外での仕事がはかどるのは、まだ幾分か涼しい早朝の短い時間。
朝、墓地に出掛けると、石塔の掃除、周囲の草取りをしている檀家様をお見かけします。
先祖を祀る場を綺麗に整え、いよいよお盆を迎える支度ですね。
お檀家様の供養のお心が表れる姿に、こちらも和まされます。
お寺の境内は、7月の下旬から早くも百日紅が開花。
季節の花の便りと思い、写真に収めております。
さて、境内の季節の便りと思い、美しいものに目を向けておりましたが、
周囲を見渡せば良い知らせばかりではありません。
先日、施餓鬼法要があった日の午後、供養塔婆を受け取りに来られた檀家様が、
この境内で蜂に顔を刺されたと聞きました。
住職、総代様がさっそく辺りを調べても蜂の巣はなかったそうです。
ある朝、鐘を撞いていると山門付近に蜂が飛ぶ姿を見かけました。
蜂の巣があるのかと近寄ってみましたが、蜂とともに見当たりません。
次の日、同じく朝鐘を撞いていると、やはり蜂が山門の屋根あたりで飛んでいます。
もしかして山門の屋根の中に巣があるのではと思い、近くで観察することにしました。
しばらくすると、どこからか飛来した蜂が屋根の中に入っていったのです。
そのまま様子を見ていると、今度は蜂がこの中から飛び去っていく姿を捉え、
ここにスズメバチの巣ができているだろうことを知りました。
この山門を多くの方が通ります。
安全管理の点からして、蜂に刺されてしまったお檀家様には申し訳なく思います。
これから駆除作業が行われます。
周囲を飛ぶ蜂にご用心下さい。
もう一点。
墓地の石塔ですが、この時期、線香を供えるところに蜂が巣を作ります。
この場所は蜂にとって好都合なのでしょう。
石塔の線香入れは目線よりも低い位置に作られています。
手を入れた時にチクッと痛み、そこに巣があることを知るケースは少なくありません。
お墓の掃除、お参りの際には気にしておいて下さい。
お盆がやってまいります。
と、同時に・・・みなさまご用心下さい。
合掌
ご家内でのお盆の支度と夏の寺行事
お盆に向けての支度と心得
ご家庭にてお盆の準備がすすめらていると思います。
盆前にあわてることなく、今から少しずつ家内、お墓などを清め整えていただき、
安心してご先祖さまをお迎え下さい。
盆の準備にお迷いの方は次を参考までにご覧ください。
ご自宅での迎え盆とご供養
◆精霊棚
お盆の飾り付けには精霊棚と盆提灯などがあります。
※丁寧にはお仏壇から位牌を取り出し、お仏壇前に改めて精霊棚を設けて飾りつけ、
そこに位牌をおいて供養する形、地域によりしきたりがあります。
しかし「絶対のカタチ」ではございません。 多少負担ともなりますので、
常日頃の通りにお仏壇にて礼拝し供養差し上げることでも充分なのです。
◆盆供
お盆のお供え物、供物のことを「盆供」と言います。
お盆に行う供養のことも同じく盆供と呼びます。
◆迎え火と送り火
お盆の入り(8月13日 ※異なる地域有り)には、
「ご先祖様が迷わずに帰って来られるように」という気持ちをもって、
玄関前を照らすよう迎え火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでおいでなしておいでなして♪
お盆明け(8月16日 ※異なる地域有り)には、
ご先祖様を丁寧に送り出すために玄関前で送り火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでお帰りなしてお帰りなして♪
(諏訪地方は白樺の皮を焚いているご家庭が多いです。)
◆飾りつけとお供えもの
◎精霊棚
お盆に用いられる祭壇
(前述のとおり、お仏壇を丁寧に整えていただければ充分ですよ。)
◎盆花
●精霊棚の網に逆さに吊るす花 代表的なもの:ほおずき
(花瓶で綺麗な仏花を供えることで充分ですよ)
●禊萩(みそはぎ)の葉を束ねてお供えする 代表的な盆花のひとつです。
盆供、飾りの清めに使われていたことから、ミソギハギとも呼ばれていた。
実際に萩に綺麗な水をつけて祭壇、仏壇、盆供のお清めに使っております。
※丁寧には、蓮の葉に水を注ぎ、ナスやキュウリを細かく刻んだもの
(精霊および餓鬼への施食)を添え、そこに禊萩を供えます。
(綺麗な器にお水を注ぎ、そこに萩を供えていただくことでも充分ですよ)
◎馬と牛
お位牌の前に供えます。
馬はきゅうりで作ります。早くお家に帰ってきて下さいとの気持ちをもって供えます。
牛はナスで作ります。ゆっくり過ごして下さいとの気持ちをもって供えます。
(それぞれの足は割り箸を用いていただけたら充分ですよ)
◎盆提灯
お盆のみに飾られます。※新盆は白提灯が主です。
ご先祖様を迷わす迎えるための灯りです。
毎日暑いなかですので、みなさんがお体を悪くせず元気であることにより、
ご先祖さまに安心していただくことが第一です。
体調、健康に気をつけてお過ごし下さい。
ご心配なことなどお有りでしたら、遠慮なくお寺にご相談下さい。
合掌
夏の寺行事について
8月5日(日)
午前10時より本堂にて施餓鬼法要が厳修され、諏訪支所内13ケ寺の住職様方、
大勢の御参列の皆様とともに諸精霊のご供養をいたします。
当日、ご参列されない皆様におかれましては、ご供養しました施餓鬼塔婆を
客殿にご用意させていただきますので、10日までに受け取りにお越し下さい。
施餓鬼供養の様子
8月6日(月) 8時15分
8月9日(木) 11時
8月15日(水)12時
平和の鐘を鳴らします。
8月9日(土)9時
毎月の朝まいり会がございます。
8月18日(土)19時
本堂にて『夕涼みコンサート』を開催します。(19時開演)
自由席です。お早めにご来場下さい。
8月22日(水) 9時
毎月の寺カフェを行います。
残暑厳しい時期ですので、お寺に涼みにお越し下さい。
暑中お見舞い申し上げます
とても暑い日が続いてます。
これだけ暑い諏訪の夏は、近年記憶にありません。
東京、七月盆のお参りに行ってまいりましたが、
お参りさせていただく家を確かめるため自転車を止めて地図を広げていると、
力が抜け頭がぼーっとして思考が働かない瞬間があり、
今年の夏の暑さが格別であることを実感しました。
西日本豪雨災害に多くの尊い命が失われ、
さらにこれほどの家屋の倒壊、甚大な被害状況に
ご家族、ご縁の皆様の深い悲しみ、ご心痛は計り知れません。
心、体に痛みを抱えたまま連日行われる酷暑のなかの復旧作業、
どれほど耐えがたく、苦痛を強いられていることでしょう。
平成の時代は自然災害が多く、その規模にもまったく驚かされるばかり。
気候変化は気温上昇、断続的雨量増、局地的雨量増、降雪量増、台風が際立ち、
さらに大地震が頻発し、総じて自然変動の影響が生活にダメージを及ぼしています。
自然のみせる強大な力、反面、人の脆さも認識されることとなり、
今後の自助に位置づける、ご家内の物心両面の備え、
その一方で、個人、ご家族で必要以上に負担、無理をしないこと、
地域内における助け合いのカタチ、共助の見直しが大切なのだと感じます。
さて、お寺の境内では桔梗が背を伸ばし、元気に花を咲かせております。
暑さにくじけることなく咲き誇っております。
茅野市の長円寺様からいただいた水連も花を咲かせました。
蓮は泥のなかに育ち、その栄養をたよりに美しい花を咲かせます。
仏教のシンボルであり、仏さまのお姿を表す花です。
それは人が有する本来の姿であると仏教では伝えています。
人は苦難のなかにも花が育ち、時が来て、凛と咲く姿をきっと見せてくれるのだ。
みんなでそう祈りましょう。
合掌
わけるのにふえるもの
こどもと病院に行った際に見つけた絵本。
待ち時間に絵本を手にするのは、いつものこと。
絵本に登場するママはパン作りが得意。
出来上がった美味しいパンを、こどものふうくんに、
「これを持って出かけて、みんなにわけておいで」
と、3つわたす。
ふうくんは、自分が食べたいのにわけたら減ってしまうと言う。
そんなふうくんにママは優しく問いかける。
『わけるのにふえるものなーんだ?』
あとでわかるよと、なぞなぞのように言葉をかけられて、
ふうくんはパンを持ち、ひとり出かけることになる。
絵本を読む自分のこどもにも考えさせる。
そして自分も一緒に考える。
さて、ふうくんはママの言うことをきいて、外で出会う友達にひとつずつわけていく。
やはり減っていくばかりじゃないか、と感じている様子。
残りは一個。
最後に出会ったのは大勢。
足りないと感じたふうくんは、家に招いてママの手作りパンをみんなで食べることに。
この日ふうくんに出会って、美味しいパンをわけてもらえたお友達、
みんな笑顔になって喜んだ。
ありがとう。
それから時が過ぎ、クリスマスがやってきた。
多くの友達がふうくんの家を訪れ、ふうくんにプレゼントを渡した。
さて、考えてみよう。わけるとふえるもの。
プレゼント?
では、ない。
この絵本では明確に答えは示されず、読み手の考えに託されます。
おそらく「喜び」でしょう。
もっと言うなら、『幸せ』であると考えます。
遥か昔、お釈迦さまは言いました。
「人は誰でも自分が一番愛おしい。」
ですから、ママの作った美味しいパンを自分が食べたいのは、あたりまえのこと。
ふうくんの最初の感情は間違ってはいません。
しかし、お釈迦さまはこうも言うのです。
「他の者も、同様に自分が一番愛おしいのだ。
だから、わが身に引き比べて他の人も思いやらねばならない。」
この言葉に照らしてみるならば、パンをわけることも大切になります。
悟りを得たお釈迦さまにとってのあたりまえとは、後の方なのです。
あたりまえの尺度が違う。
ほとけのものさし。
幸せを一人占めしようとすると、どこかで不満や争いが生じる。
喜びをみんなにわけると、幸せが巡り、広がる。
この世には「縁の力」が働いています。
周囲が幸せにならないと、自分の幸せは成就しないのではないでしょうか。
絵本で伝えようとするこの「あたりまえ」の価値は、
こどもに是非とも伝えたいことですが、
なにしろ、大人の自分がわかっていない。
わかっていないというより、きっとそのことは大切だと思ってはいるのだけど、
実践できていない、ということです。
実はこのあたりまえのことは、大人にも難しい、一生難しい。
きっと、多くのこども達が実践するのは難しいことでしょう。
人には「煩悩というあたりまえ」が存在するからです。
それでも、お釈迦さまの教えのとおり、幸せに生きるためのヒントは、
ここの捉え方にあるのです。
自分の利益ばかりを求めること、それは「欲」であり、いつかは心苦しくなります。
自分も努力し、喜びを分かち合える幸せを求めるならば、それは「志」と言えます。
煩悩の裏側には志があるのかな・・・。
ふとそう思い、こども達が親しむ身近な絵本から教わった気がしました。
合掌
やしょうまづくりの体験
今年の寺子屋ではやしょうまづくりに挑戦します。
本来、冬の寒い時期に作られるものですが、夏休みに集ったこどもたちに
古くからの信州郷土料理を知ってもらおうと企画しました。
このたび、妻と二人、長和町でやしょうまづくりの長い経験をもつお寺様まで
その作り方を教わりに行ってまいりました。
私と妻、やしょうまづくりは初めて。
もちろん、実際に見ることもいただくことも初めて。
工程は大変に体力がいる作業、それでいて繊細。
楽しみながら、信州の先人達の心を感じる体験をいたしました。
模様は、スイカとぶどうの二種類に挑戦。
初めてにしては上出来と褒めていただけました。
今後も寺子屋までに何度か実践して上達を目指すつもりです。
寺子屋当日、こどもたちとの共同作業の仕上がりは、はたしてどうなるか・・・。
心を添えて手作りしたものを仏さまにお供えすること、
仏さまと一緒のものを自分たちも食事としていただくこと。
そして、信州の昔を知ること。
この体験より、こどもたちとともに学びが得られればと期待しています。
今年の寺子屋は5回目の開催。
定員30名の募集が始まりました。詳しくはこちらをご覧ください。
密厳浄土
梅雨入り宣言がありました。
いよいよ本格的な夏を迎えます。
夏場でも朝方の涼しさと澄み切った空気は信州の魅力。
早朝。
まだ人の一日の営みが始まっていない、辺りが静かな頃、
境内にいると、鳥たちの声、水の流れ、草木が揺れる音が聞こえてきます。
日常では、意識をしないと耳に届いてこない音。
動きを感じない時間にこそ、自然の生きものたちの営みが繰り返されていることを
知ることができます。
人間が傲慢であってはならないと戒めることのできる時間でもあります。
太陽が昇り、やがて沈むといった毎日の等しく与えられた時間のなかにある
多くの命たちの『共存・共生』。
弘法大師空海は、「五大に響きあり」と仰られました。
自然の命、営みには仏さまの法の息吹があるということ。
そして、「仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し」と、
私たちのなかに仏性が在ることも説かれました。
私たちは仏さまの命のなかに生かされている。
仏法の響きのなかで生活している。
仏さまとは大日如来。
大日如来の浄土を『密厳浄土』と呼びます。
真言宗中興の祖、興教大師覚鑁は、
「惜しい哉、古賢難易を西土に諍うこと。 悦ばしい哉、今愚往生を当処に得ること。」
と、西方浄土への往生ではなく、この世に成仏することを強い意志で説かれております。
「一切如来は悉く是れ大日なり」
阿弥陀如来と大日如来は同体、極楽と密厳は名異にして一処と説き、
娑婆即ち浄土であるのだといいます。
遥か遠くに浄土を求めるのではなく、人の心中にある仏性を自覚し、
慈悲をもって生活することの意味がここに含まれるものと思っております。
人の喜び、痛みを考えること、思いやりの精神、
「共感」が人としての価値であること。
痛ましい事件、事故が絶えません。
この世に仏法の響きがあるからこそ、人が鬼になり、世は地獄にもなりうる。
この世に仏法の響きがあるからこそ、人は手を合わせ、
仏とともに生き、世は浄土にもなりうる。
「人身受け難し いま既に受く、 仏法聞き難し いま既に聞く」
6月15日は弘法大師お誕生の日。
6月17日は興教大師お誕生の日。
南無大師遍照金剛
南無興教大師
合掌
植木寄贈の御礼
このたび、篤信のお檀家様より寄贈いただいた百日紅、カイドウ、サツキを
境内に植樹いたしました。
客殿広間前の庭に百日紅、参道下にはカイドウ、そして枝垂れ桜のもとにはサツキを。
日頃より菩提寺に対する理解とご支援ならびに厚い信仰を賜り、
そして、このたびの寄贈に対し、心より御礼申し上げます。
お檀家さまの有り難いお気持ちによって、境内に新しい息吹が加わり、
やがて花が咲き境内が彩られ、訪れる人の心を和ませてくれることでしょう。
感謝
トウカエデ
日の出が早くなり、朝の勤行を終えて外に出る頃には
太陽の光が境内に満ちています。
山門の向こうにある、朝日を浴びた参道のトウカエデが目に飛び込みます。
爽やかな黄緑色の葉を豊かに茂らせるそれは、まるで山門を額にして入る絵画のよう。
この樹を遠くから見かけた人は、この葉が花を咲かせているように見えるようで、
近くまでお寺を訪ねて来られ、それがすべて葉であったことに驚きます。
秋、紅葉の時期になると、この樹はいくつもの色に葉を染めます。
虹色に染まる姿からでしょうか、メープルレインボーとも呼ばれているようです。
秋の変化にもご期待下さいませ。
ただいま、境内はつつじやクマガイソウなどが咲き、自然の色たちに溢れております。
(鶴嶺公園のつつじは、例年より満開が早く、いまGW見頃のようですね。)
初夏、よい季節風景をお楽しみ下さい。
山の緑
桜散り、陽気は徐々に暑くなっていきます。
いまがもっとも体を動かしやすい季節、周囲では田畑作業が始まっている様子です。
ポジティブに活動。何かを始めるならいまでしょう。
4月終わりの早朝、真福寺発祥、高尾山麓寺平にある興教大師像に
総代様とお参りに行きました。
お勤めをすませ、山中その場にて腰を下ろして朝食のおにぎりをいただきました。
総代様からもすすんでお参りに同行して下さり、この機会は誠に有り難いことです。
これから新緑が美しい季節を迎えます。
緑は人間がもっとも見やすい色。いつまでも見ていられます。
遠くの山の緑を眺めていると気持ちが和みます。
いざ、その山の緑のなかに足を踏み入れると、癒されると同時に力が沸いてきます。
大いなるものに包まれる安心感と幸福感。
大いなるものとは、大自然であり、神仏の息吹だと考えております。
日常ではなかなか気づきにくい、「生かされている命」の実感。
生きる力を感じとれるのが山の魅力。
その山中に興教大師像があります。
登山口より20分ほどでこの場所につきます。
早朝の山の空気はとても新鮮で美味しく、普段は無意識にある空気を
意識することができ、きっと身体には良い影響をいただけているのでしょう。
年二回、春秋にお檀家様をお誘いして、ともにこの山中を歩いてみたいと考えてます。
そして、寺発祥の地におられる興教大師への供養をいたしたいです。
合掌
枝垂れ桜 満開間近
境内の枝垂れ桜が見頃を迎えております。
当山の桜(ベニシダレ)は、辺りの桜が散り、見納めとなった頃がやっと開花時期です。
これから楽しめる桜としてご存知の方も多く、遠近よりお越しいただいております。
例年は4月下旬が見頃となりますが、今年は満開時期が十日近く早いようです。
桜の様子は全国的に一緒のようですね。
お気軽にお越しいただき、花見をお楽しみ下さい。
生きる力
4月―。境内の枝垂れ梅の花が綺麗に咲いています。
お釈迦さまのご生誕を祝う仏教行事、花まつりが各地で行われております。
いまは花咲き香る季節。
真福寺境内の枝垂れ桜の開花は今月20日頃と思われます。
楽しみにお待ちください。
こちらは、真言宗智山派が掲げる「教化目標」の啓発ポスターです。
作画されたのは、千葉県に在る本宗寺院の僧侶です。
とても素敵な、仏さまとともに生きる心の温かみが伝わる描写であると感じ、
ここに解説文を抜粋して紹介させていただきます。
今年度のポスターは、菩提寺で行われる年中行事をちりばめた絵で表現しました。
このポスターを見て、先ず目に飛び込んでくるのが法輪です。
これは年中行事をとおして四方八方のあらゆる方々に仏の教えが行き渡るようにという
意味をこめています。とくにお釈迦さまの教えを表す法輪は、「花まつり」「成道会」も
表します。法輪が雲に乗っているのは、合掌された所(合掌された手が描かれて
おります)に雲に乗ってすぐにどこにでも飛んでいくよというイメージです。
そして川の両岸は此岸と彼岸で「彼岸会」を、蓮は「盂蘭盆会」を連想させます。
空には北斗七星をはじめ星々が輝き「星まつり」を表します。
彼岸(向かって左の岸)にいらっしゃるお大師さまは「青葉まつり」。
此岸(向かって右の岸)のお堂では「大般若会」や「施餓鬼会」が行われ、
鐘楼堂では「除夜の鐘」が撞かれます。
太陽にはバン字、月にはア字が描かれ、金胎の大日如来を表します。
さまざまな生き物が太陽や月で表された大日如来に祈っています。
親子のカメが表す「親子愛」。無事「帰る」、幸運が「返る」、さらにカエルは
子孫繁栄も表します(水面におたまじゃくしが見えます)。
鶴と亀で「長寿」。
では芋虫はなにを表しているのでしょうか。
太陽に描かれたバン字金剛界大日如来と対峙し、蓮と共にバン字
(よく見るとバン字に見えます)となり、即身成仏を表しています。
他にも太陽(仏)・法輪(法)・蓮(僧)で三宝を表したり、お釈迦さまの舎利を
祀るストゥーパや五大を表す五重塔など、仏の教えを色々なかたちで
表現しています。
このポスターを見て、年中行事が描かれているとは一見わからないかも
しれませんが、この解説をもとに檀信徒の方々と語り合っていただくよい機会に
していただきたいと思っています。
そして檀信徒の方々がお寺の行事に参加され、手を合わせ、仏さまに祈り、
仏さまと出会い、生きる力を感得していただきたいと思っています。
以上、本宗『教化目標啓発ポスターの解説』より抜粋
さて、真言宗智山派は教化目標(わたしたちの目標)として、
『生きる力ー仏さまに祈り、仏さまと出会う』を掲げております。
生きる力とは何でしょうか。
人によってこの捉え方、解釈は異なるかもしれませんね。
日々を生きるエネルギーとなっているものも、
おそらく人によりけりでしょう。
お釈迦さまは人の本質に仏性が備わることを知り、
その時代を生きた人々に対し、
仏性に気づき、触れ、目覚める生き方を説き広めました。
仏さまとともに生きる命、仏さまに出会える生き方。
自らを拠り所とし(自灯明)、教えを拠り所とする(法灯明)。
そこに「生きる力」があるのだと伝えてくれています。
生きる智恵という解釈もできるのかもしれません。
このポスターの絵にあるように、仏さまとその教えは世に遍満し、
身近なところに感じ、祈り、感謝し、
その出会いは悦びとなり生きる力ともなるのだと思います。
それが仏教であり、日常に寄り添える2500年以上絶えることのない教えです。
私たちの日常、時々訪れるお寺の行事、そのなかで、
ふと仏さまを感じることのできるような瞬間があれば幸せですね。
4月8日は、お釈迦さまご生誕の日です。
合掌
※ポスターは真福寺客殿に掲示しております。
春到来~月行事について~
心地よく暖かな季節を迎えました。
辺りに春の息吹きを感じ、春の命を探し出会うことの出来る、
出かけが楽しくなる、もっとも愛される季節ではないでしょうか。
長い冬を越し、お寺では月行事が始まります。
どなたも安心してご参加いただける行事です。
冬の始め11月まで毎月行われますので、ご都合に合わせて
お気軽にお越し下さい。
月1回
◇朝まいり会 9:00より
◇寺カフェ 10:00より
◇写経の会 9:00より
◇念珠の会 10:00より
月2回
◇御詠歌の会 13:30より (変更月有り)
日程はホームページ上、毎月の予定をご覧ください。
ご不明な点は、遠慮なくお寺まで問い合わせ下さい。
雪に覆われた春彼岸
暑さ寒さも彼岸まで。
その言葉通り、彼岸入りを迎える頃には暖かな陽気が続き、
すっかり気分は春、生活も徐々に切り替わっていました。
ところが春分の日でもあった彼岸のお中日、
一転して冬の寒さが戻り、朝から雪降りとなりました。
雪は一日絶えず降り続け、お墓参り、お寺参りを予定されていた方には、
お出掛けを断念された方もいたことでしょう。
思うようにはいかないものですね。
お寺では午前中に区内の彼岸慰霊法要が営まれ、
午後には寺の彼岸行事「春彼岸のつどい」が行われました。
しんしんと雪が降り、大変足元が不安な中をお寺までお越し下さった皆様には、
誠にご苦労、ご心労なことであり、感謝御礼申し上げます。
お彼岸での先祖供養。
故人を「偲ぶ」ことは、天候具合ひとつや年々身心の衰えを感じる方にとっては、
あるいは諸々事情において、それは耐え「忍ぶ」ものであるのかもしれません。
しかし、どれほど便利さや合理性の価値を求める時代であっても、
時に忍ぶ姿、支え合いの姿を見て、次世代にたすきが渡っていくのだと思います。
祖先(みおや)をまつり身を修め 菩提の種を培いて
浄土の光り現実(うつしよ) に いただく今日の尊さよ
『彼岸会和讃』
先祖供養というテーマのもとにつどい、顔をあわせ言葉を交わしながら、
生きる人にとっても癒し、励み、そして供養となればと考えております。
合掌
広島に学ぶ
諏訪圏の各宗派寺院青年僧がつどい、広島の平和記念公園を訪れました。
この地において戦争の犠牲になった尊い命。
その多くの御霊が眠る場所であります。
国民は過去の戦争を振り返り、戒め、平和を祈り誓います。
しかしながら、多くの青年達はこの時代に起きた戦争を知らずに過ごしております。
現在は観光地となっている広大な公園を時間をかけてゆっくりと歩きながら、
地元の方の丁寧な説明をいただき、資料館では多くの資料に目を通しました。
自身、40歳にして初めて訪れた平和記念公園と平和記念資料舘にて、
70年以上前に起きた耐えがたい悲しみと苦しみの事実を知り、
その重大さに触れて学ぶ機会を得ました。
戦後の復興と平和の実現に力の限りを尽くされた先人達のおかげで、
国の成長といまの豊かな暮らしがあります。
過去からの心の叫びにも近い「渾身の祈り」がここにあることを感じます。
もうすぐ春の彼岸がやってまいります。
懐かしむも供養
足を運ぶも供養
偲ぶは私たちの生きる力ともなります。
合掌
真福寺 彼岸行事 『春彼岸のつどい』
3月21日(水・春分の日) 14時より
http://www.okaya-shinpukuji.jp/blog/20171231post-231.html
どなたもお気軽にお越し下さい。
先達
暖かい日が続き、辺りの雪解けがすすんでおります。
季節は雨水が過ぎたことを実感でき、春の気配を感じ始めます。
2月15日は、三仏忌のひとつ、お釈迦さまのご命日であり、
多くの仏教寺院で涅槃会、報恩謝徳の法要が営まれ、
ご法事でもお釈迦さまについて触れさせていただいております。
先日、お檀家様の年回忌法事の際のこと。
御家の90歳近いおじいさんが色々なお話を聴かせて下さいました。
その歳には見えず、よく話され、とてもお元気な方です。
このくらいお歳を召されている方とお話をすると、結構な頻度でこう仰います。
ご家族みんなの前で、私にこう言うのです。
『わしゃ、もういつ迎えに来てもらってもいい。そしたら頼むでな。』
いやいや失礼ですが、お体も達者、おしゃべりも達者です。
ご家族みなさまも笑っているではないですか。
この様子に、お幸せな方だなあと感じます。
これまでに多くの苦労があったことをお話して下さいました。
10数年前、就寝中に土砂災害に遭い、家が全壊したこと。
災害時、ベットで寝ていたことが功を奏し、命が助かったこと。
災害後は、十年以上奥様を介護し、ともに過ごしたこと。
他にもたくさん語られました。
若い頃より苦労するなかでも、大切にしてきた仕事のこと、仲間のこと。
おじいさんは若い時分の性分、尖っていたところがあったようですが、
多くの人と付き合い揉まれたおかげで、角が取れ丸くなれたと言います。
災害で家は全壊するも、早急に多くの仲間が集い、厚く支援して下さり、
生活の危機を救ってもらい、日常を取り戻したのだそうです。
多くの人とお付き合いしてみること、人生には仲間が大切であることを
経験をもって話して下さいました。
自分がどう生きてきたかは、窮地に立たされた時に試されるのでしょうね。
『わしゃ、もういつ迎えに来てもらってもいい。』
命は天寿です。
その名のとおり、授かりものです。
お釈迦さまは「人生不如意」を説き、命はどう尽きるかはわからないといいます。
おじいさんほどのお気持ちになれる方というのは、
「生きることの難しさ」や「命の尊さ」を感じざるを得ないほどの
苦労を十分に体験され、身心には深い感謝の念が刻まれており、
おそらく今の平穏に満ちているのだと思います。
こういう方を「先達」というのですね。
そして、多くの苦労を体験し、縁や命の尊さに気づき、感謝に溢れ、
すでに捉われはなく、他愛に溢れ、
動揺することもなく心穏やかであることを、
「涅槃」ともいうのでしょう。
次の機会におじいさんにお会いした際も、
また元気なお姿で、そしていろんなお話が聴かせてもらえると幸いです。
合掌
長野灯明まつり
冬の長野灯明まつり、善光寺伽藍のライトアップを観に行きました。
長野冬季五輪開催を記念して始まった灯明まつりは、
平昌五輪の今年、15回目の開催となるそうです。
表参道石畳には、灯り絵展として応募されたたくさんの切り絵が燈篭に灯されて並び、
境内は大伽藍が五色に変じ、音楽コンサートが行われ、幻想的な聖域となっております。
『歴史的威風×未来的創出』
まちの高揚に触れるとともに、善光寺が長野の象徴でもあることを感じます。
合掌
人生の算数
2月を迎える時期、各地寺院で除災招福諸祈願の節分会が行われており、
先日、ある同宗派寺院の節分会に助法出仕させていただきました。
法要後、寺院の住職様が参詣者にされた法話が印象に残りました。
『人生における算数』
「足し算」
人生において加えられていくもの 身につくもの
「引き算」
人生において失っていくもの 減っていくもの
「掛け算」
人生において工夫して増していくもの
「割り算」
人生において分けられるもの
住職様は、それぞれを人生経験などから具体的に示されました。
私も自身の経験に照らしながら法話を拝聴させていただき、
なるほど人生とはそういうものかもしれないと、改めて整理して考えました。
生きていく時間の経過には足し算と引き算が必ずある。
足されるもの、引かれるもの、それは目に見えるもの見えないもの双方を含め、
おそらくどなたにおいても、いくつも思い浮かぶものがあろうかと思います。
さて、人生の掛け算、割り算はどうか。
これは人の気持ちの持ちようで生まれるもの。
例えば、掛け算。
自分の発心によって良い行いを実践し、また周囲にも浸透していく工夫を施し、
その波及がやがて大きな成果につながった経験。
苦手とする相手を理解して受け入れ、知恵や力を合わせた結果、
新しい発見、成長飛躍につながった経験。
逆に、自分ひとりくらいと粗雑な気持ちでしてしまう悪い行い。
いつしか悪業の芽は広く人に伝わり、環境自体を劣悪化させてしまった経験。
弘法大師曰く、「物の興廃は人による。人の昇沈は道にあり。」
人生の掛け算のごとく、人の善意、悪意は広がり増していくものです。
そして割り算。
喜びや利益となることを独り占めすることなく、
与え、分け合って、徳を広げてみよう。
「与えることの価値」がここにあります。
反面、悲しみや苦労は、分かち合うことで個々の負担を軽減する。
割り算は共感。
お釈迦さまの説かれた「抜苦与楽」の精神ではないでしょうか。
人生の足し算、引き算には、カタチ有れば無形もある。
不変も有れば無常もある。
もともと不如意である一生涯。
それを日頃の心得や精進によって掛け算と割り算がなされることで、
より豊かなものにできないでしょうか。
小学校で習った算数。
人生に置き換えて、そこに悦びのヒントがある気がする。
合掌
大寒波
陽気が暖かで穏やかであった諏訪地方の正月が終わり、
有難みを感じております。
1月も下旬を迎え、これほど辺りに残る雪の少ない冬もめずらしい。
しかし、ここ信州で冬を越すことが容易くないことは覚悟している。
強烈な寒波が迫っています。
天気予報では5年に一度の大寒波とも予測され、
とにかく大雪に気をつけよ、という各局の報道に対し、
厳しい冬がいよいよやってきたかという思いです。
大雪、凍結による交通、物流の機能が低下することが考えられるため、
妻は早めの買い物に出ました。
不必要な大量買い、買い溜めはやめてほしいとだけお願いしました。
報道に振り回されず、わが身に必要なものの必要量が把握できていればよい。
丈夫な家に、「機能しない余分」が多く生じていてはいけない。
地域の高齢者や身動きの不十分な方に意識を向けておかなくては。
お寺の境内、伽藍も雪に覆われるでしょう。
コツコツと皆様のお足元、ご本尊様の住まいを整えておきたいと思います。
生活地域の各世帯、各業者様のお心づかいやお知恵があって、
この冬、自然が運び起こす困難を皆が健康に乗り越えられますように。
事故、大事なきよう念じております。
合掌
冬の夜を灯す、参道に飾られたアイスキャンドル
迎春 戊戌年
あけましておめでとうございます。
2018年新春を迎えました。
平成の時代になり30年目、大きな節目の年です。
今年は一時代を顧みる年となりそうですね。
しかし、時は待ってはくれず、私たちは振り返ることで留まることなく、
そこから未来を拓き歩まなくてはなりません。
この先に信頼と希望をもって臨みたいものです。
人の善い志、取り組みの積み重ねがあるならば、
その行いと成果が大きかれ小さかれ、世を照らす「一灯」となります。
灯火の大きさを比較し、奢ることも卑下することもない。
自他ともにそれを信じ認めてこそ、「希望の源」となると思います。
時代の節目に、改めて勇気のもてる一年でありたいです。
お釈迦さまの言葉がこのようにあります。
『善を軽んずるなかれ 水の一滴でもやがて水瓶を満たす
悪を軽んずるなかれ 小さな悪とて 一滴一滴が水瓶を満たす』
今年は戌年。戌年の守り本尊は阿弥陀如来です。
真福寺のご本尊の仏さまでもあります。
お寺にお越しの際は阿弥陀さまにお参りし、心静かに手を合わせてみて下さい。
仏さまとのご縁を授かっていただきたいと思います。
仏さまに見守られながら、自分の志を大切に、人から授かった気持ちを大切に、
多くの人が力強く、また心穏やかに歩むことが出来ればと願います。
平成30年に安寧と希望、安心と成果がありますことをご祈念申し上げます。
合掌
大晦日 二年参りのご案内
大晦日のお参り、除夜の鐘には、ご家族、ご友人お誘いあわせて
お越し下さい。
来たる平成30年、節目ともなる年を迎えるにあたり、
去る年への安心と感謝のお参り、希望の年明けをしていただきたいと思っております。
古札、お塔婆、縁起物等のお焚き上げ供養も致しますので、
当日お持ち寄り下さい。
戌年の守り本尊は阿弥陀如来です。
真福寺のご本尊阿弥陀如来にお参りいただき、
是非とも来たる年の吉縁を結んで下さい。
二年参り
12月31日
■22:50 境内 点火
■23:00 お焚き上げ供養 境内
■23:20 今年最後のおつとめ 本堂
■23:40 除夜の鐘 鐘楼
(打鐘に人数の制限はございません)
温かくて美味しい厄除け汁、甘酒、般若湯を用意してお待ちいたしております。
みなさま顔を合わせ、お焚き上げの火にあたりながら体を温めて下さいませ。
新年の縁起物は本堂内にて販売を致します。お参りの際にお求め下さい。
尚、古札等のお焚き上げ受付は今月前もって致しておりますので、
お寺までお持ち寄り下さいますようお願い申し上げます。
(お焚き上げ供養料:無料)
如実知自心
身を犠牲にした長年の苦行にも世の真理に到達することのなかったお釈迦さまは、
その末に苦行を離れ、
『解脱を得るまでは、決してこの座を離れることはない』
と、強い覚悟と穏やかな心をもって禅定に入ります。
インド、ガヤーの菩提樹の下での長い長い瞑想でありました。
長い禅定の末、明星輝く頃、真理を悟ったと伝えられております。
お釈迦さま35歳、日本では12月8日であったとされています。
仏教会ではこの日に「成道会」を営み大切にいたしております。
お釈迦さまは煩悩が生み出す迷いを払い、仏性に目覚めました。
仏性は誰しも有するとされていますが、それが見えぬ感じぬように
私たち人は執着し迷い、多くの煩悩に「支配」されています。
仏性を満月に例え、それを覆い隠す雲を煩悩に例えることもあります。
お釈迦さまは仏性が開花しましたが、それは煩悩を消滅したのでしょうか。
それとも、煩悩の働きをよく理解して受け入れた末に仏となったのでしょうか。
『如実知自心』という言葉があります。
自分の心を正しく知ることです。
心の働きをよく理解することです。
本当の自分に出会うことです。
揺るぎない本質の「自覚」と「覚悟」であります。
私は、お釈迦さまはまずここに達した人なのだと感じています。
そしてそこから限りなく展開していかれ、やがて真理を悟られたのだと。
その後の生涯をブッダ(悟りを開いた人)として精進し、慈悲深く接して過ごされました。
日頃の私たちにとって、常に移り変わる「心」は、もっとも近くに在りながら
遠く離れた「不如意」なものになっています。
故に心体一致して整え、よく保たれた生活は遠く及ばない。
12月を迎えました。
今年一年を省みるひと月であります。
お釈迦さまの教えをもとに一年を振り返るのは、とても良いことだと思います。
「清濁」を受け入れ、反省、感謝すべきことがたくさんあることにも
きっと気づけるはずです。
平成29年、感謝の完走成就を。
合掌
お釈迦さまの教え
「とらわれない心」
諸行無常・・・すべては移り変わる
諸法無我・・・すべての物事に実体はなく、
「心の在り方」と「因縁」によって生じ、そして移り変わる。
お釈迦さまの苦行のお姿
呼吸
大相撲九州場所の最中、角界が力士の暴行を発端とした一事件に騒いでいます。
厳格な世界において、横綱力士が格下力士に対し怒りを露わにしたことの顛末。
この件が報道される少し前に、現在、園児と小学生の子育てをする父親である
友人がこんな話をしてくれました。
「自分に生じた『怒る』という感情について、どう対処しているか」
こどもの行動に対して、どうしても怒りたくなった場合、怒らねばならないと感じた際、
まずは「深呼吸という間をおく」ことを心掛けている。
そこで気持ちが落ち着いた際は、怒らないことを選択し、
別の伝え方で解ってもらえるよう努めると。
結果、大概怒ることはないそうだ。
もちろん、しっかり怒って聞かせることもあるそうだが。
確かにその通りと感じます。
人に対して怒り、相手にひとつのことを伝えねばならないと強く感じたとき、
自分に沸き起こった怒りの感情に乗り、そのことを伝えることがもっとも単純であり、
精神的に「自分としては明確」なのです。
しかし、そのひとつのこととは、ひと間をおいて怒りの感情を離れ、
別の方法で同じことを伝えることが必ずできるのです。
相手の精神に対して明確なのは、実はそちらの選択だったりすることが多い。
多くの後悔や事件とは、自分が怒りの感情に乗ってしまったがゆえに起きている。
怒りを種として悪業を積んでしまっている。
昔、よく学校の先生が、頭を冷やしてきなさい!と叱ってました。
人は間があるから人間なのだ、と教えてくださった方もいました。
つまり、人は「間」が大事だと。
私の友人が話してくれた深呼吸という間。
日常の呼吸は無意識に体がしてくれている。
乱れたときは、意識的に整えることが必要なのでしょう。
深呼吸とは、「心呼吸」いう表現もできると思います。
心呼吸の「心」とは仏心のこと。
呼吸のなかに、誰しも宿る仏性が働くのです。
仏教の教えにある十善戒。
その中の『不瞋恚』という戒め。
「怒りに心と行いを乱さないこと」という教えです。
人間は自分の心をコントロールすることが難しい。
一生、不如意であります。
人は間があるから人間。
「深呼吸=心呼吸」を心掛けたいと思います。
諸々の悪業は、皆、「貪・瞋・痴」による身語意より生ずるなり
合掌
四季を観る
秋深し。
朝晩冷え込むようになりました。
境内の枝垂れ桜、参道と本堂横のもみじは、葉のほとんどを落し寒々しい様子。
毎年、このくらいの時期から冬の到来を間近に感じます。
いよいよ冬支度、年末の心構えです。
早いものです。
今年の秋は、境内の落ち葉を履き片付けることでなんとなく安心してしまい、
上を見上げ、周囲を観ることを怠っていると感じます。
秋を迎え、辺りの木々はどんな具合に色づいていったのか。
この季節の醍醐味、紅葉の移ろいを見落としていました。
『草木国土悉皆成仏』
経典に説かれる、自然の草木にも仏性が宿るという言葉です。
落ちた葉を片付けるばかりで、自然が命を輝かせ美しさを増す季節を
楽しむことを逃してしまい、少し反省です。
辺りの様子に目を向けて、自分の感度を保ち、
四季折々を観察して楽しむことはとても大切。
日常において、見落とし、無関心が増えれば増えるほど、
後になって今年もあっという間だったと「錯覚」してしまうような気がします。
さあ、深まった秋を楽しんでから冬を迎えよう。
合掌
教会
長崎佐世保の御寺院様の結婚披露宴にお招きいただき、
空いた時間に観光をするなか佐世保にある教会に行ってまいりました。
キリスト教における礼拝、布教がなされている聖域です。
礼拝堂は特別な敷居を感じることはなく、神秘的空間の静寂に時を忘れ、
穏やかに佇むことができました。
ご信徒やここを訪れる人々にとっての「心の拠り所」なのでしょう。
教会にイエス様がおられるように、お寺の本堂にはご本尊様がおられます。
ご本尊である仏さまには「誓願」があります。
人々の日常に寄り添い、
・ご本尊の誓願が説かれているか。
・仏さまおよび宗祖の教えが説かれているか。
・心の拠り所となっているか。
教会を訪れて感じたことは、仏と対話し寄り添える空間の大切さです。
仏さまとの対話とは、自身との対話になると思うからです。
お寺が人々の日常に寄り添い門戸を開くことで、
ご本尊のもとへも導線が引かれてなくてはならないと感じます。
合掌
愛語力
10月を迎えました。今年もあと三月。
お寺では四本のキンモクセイの花が咲き、境内は甘い香りが漂っています。
さて、今月のHP言葉の力を『愛語力』としました。
菩薩が説く、仏道に導くための四つの行い、四摂法(布施、愛語、利行、同事)。
「愛語」とは、心のこもった慈愛の言葉です。
愛語について、道元禅師は『愛語よく廻天の力あり』と仰っております。
言葉は力を有し、意味や背景、浅深、表裏があり、
人から発せられた言葉には価値が生じます。
善意ある一言や褒め言葉を直接いただいた人は嬉しいものです。
人を介してその言葉を伝え聞いたときはなおさらです。
逆に、悪意ある言葉を聞いたときは辛いものでしょう。
一言が人を救い、勇気づける。
一言で人は悲しみ、傷つく。
思いやりをもって言葉を交わしたいものです。
愛語には生きる力、生かす力があります。
愛語は仏道、どなたにおいても欠かせぬものです。
訪れる季節に無心に咲く辺りの花達も愛語力に満ちています。
合掌
発心
お寺の山門より一直線の参道が伸び、その前を通る旧道には、
出勤の社会人、学生、散歩やジョギングをする人、様々な人が行き交います。
ある日、この旧道を通るひとりの人が参道前に立ち止まり、山門、その先の
本堂に向けて手を合わせ一礼してから通り過ぎて行く姿を見ました。
以前、京都の本山智積院で過ごした頃、寺の境内を通り抜けて通学する大学生が、
金堂の前に立ち止まり、手を合わせていく姿を多々見かけました。
洗心の想いでした。
本山で生活した私たちは、お堂の前では必ず立ち止まり一礼するよう、
修行僧のころより指導を受けていたため、僧侶にとってはひとつの「カタチ」、
所作になっておりました。
一般の方にとってこの日頃の姿勢は、おそらく誰に指導されたわけでも、
勧められたわけでもなく、自発された行為であると思います。
ここにひとつの「ココロ」をみることができます。
さて、この心はどこに向いているのでしょうか。
神仏、寺のご本尊さま、あるいはご先祖さま。
目には見えない多くの「お陰」が働き生かされている命。
人はけして傲慢に生きるべきではないということ。
謙虚な心が、「大いなる存在」に向けて礼拝をしております。
大いなる存在とは「他力」という表現もできます。
言葉にある他力本願の他力です。
慌ただしい日常では、その他力に向けて一瞬でも身と心をあずけて、
静かに穏やかに己を整えることも必要なのです。
礼拝とは、自分の内側を観て自覚を得る行為ともなります。
秋のお彼岸がやってまいりました。
様々な理由でご先祖さまへのお参りができない方もあろうかと思います。
そちらに向けてほんのひととき、手を合わせて目を閉じてみてはいかがでしょうか。
「ココロ」が戻ってまいります。
安らかな心とともに生きる力を。
合掌
亡き人のもとに感じたこと
「こども達今年は静かにしてたね。」
「○○はどうしてるの。去年は来てたよね。」
「はじめまして。」
妻側親族の三回忌供養に出席した際の、会話のほんの一部。
同じ時期、お寺でもお檀家さまのご法事がありました。
「いくつになった。」
「仕事はどうだ。」
「体は大丈夫なのか。」
よくお見かけする法事の様子です。
亡き人の命日を迎え集い、亡き人を偲ぶひとときの営み。
同時に、縁あって集った人達にとっては、
『生』を想う時間なのだと感じます。
日頃は仕事、学校、地域活動、あるいは子育て等々で
亡き人への意識は薄れているもの。忘れていることさえも、
それが日常に追われるという「普通のこと」だと思います。
ご法事を迎え、親族、縁者が顔を合わせるひとときに、
身なりを整え、あらためて亡き人の『命』を想い、向き合う。
一方で、その営みによって、今有る自分達の『生』を実感していることにも
ふと気づかされる。
そして、「慈しみ」や「感謝」の気持ちが心に蘇る、
人として生きる者にとって大切な時間と成る。
生と死がつながっていること。
生きる者と亡き人の魂がつながること。
そして生きる者をつないでいただけること。
法事の温かみは、確かに存在しています。
『元気そうで。』
『まだまだ、なんとか体動かせてるわ。』
『赤ちゃん何カ月。』
亡き人は、ご先祖さまとともに、
お姿見えぬ『根』となって、私たちの「命の樹」を支えてくださっております。
法事は、亡き人のもとに「つながり」を感じとり、穏やかな気持ちを心に戻し、
我々の生きる力となるものではないでしょうか。
合掌
夕涼みコンサート
この夏のお盆が過ぎ、早くも秋の気配を感じるようになりました。
お寺では19日の晩、安曇野出身、県内で活躍中のフォークソングシンガー
『B・Free』をお招きして、ご本堂にて夕涼みコンサートが開催されました。
いちご白書をもう一度。 神田川。 なごり雪。 精霊流し。 愛燦燦。
懐かしの名曲たちに、オリジナルの曲を交えて、あっという間の90分。
お堂の外では虫の鳴き声が心地よく・・・と想像していましたが、
これが開演前より強烈な雨となり、雨音が堂内まで響くなかの演奏となりました。
しかし、素晴らしい曲目と美しい歌声に心打たれながら、気持ちを揺さぶられながら、
この雨さえも演出かと思えるほどにマッチングしてしまう素敵な演奏でありました。
不思議とアンコールを迎える頃に強かった雨が静まり、
演奏終了とともに雨がピタリとやみました。
まるで、お客様の帰り道のご無事を、コンサートを見守られたご本尊さまが
導いてくださっているかのようでした。
B・Freeの皆さんは、今月27日から県内ツアーが始まるようです。
直近では諏訪市内のライブハウス「1977」でのコンサートが予定されております。
夏の終わり、素敵な一夜をありがとうございました。
合掌
百日紅
お檀家様よりご寄贈されました百日紅を春に本堂前に植樹しました。
8月に入り、初めての花がつき、ただいま綺麗に咲いております。
お盆のお寺参りにお越しいただいた際にご覧ください。
(境内の桔梗も元気に咲いておりますよ。)
8月 寺行事とご家庭でのお盆の準備
8月5日(土)
午前10時より、本堂にて施餓鬼法要が厳修され、13ケ寺の住職様方、
大勢の御参列の皆様とともに諸精霊のご供養をいたします。
当日、ご参列されない皆様におかれましては、ご供養しました施餓鬼塔婆を
客殿にご用意させていただきますので、10日までに受け取りにお越し下さい。
施餓鬼供養の様子
8月6日(日) 8時15分
8月9日(水) 11時
8月15日(火)12時
平和の鐘を鳴らします。
8月19日(土)
19時より本堂にて『夕涼みコンサート』を開催します。
出演者は、フォークソングシンガー 『B・Free』です。
8月21日(月)
9時30分から毎月の寺カフェを行います。
残暑厳しい時期ですので、お寺に涼みにお越し下さい。
【盆にむけての準備】
ご家庭にてお盆の準備がすすめらていると思います。
盆前にあわてることなく、今から少しずつ家内、お墓などを清め整えていただき、
安心してご先祖さまをお迎え下さい。
盆の準備にお迷いの方は次を参考までにご覧ください。
ご自宅に準備をしましょう。
◆精霊棚
お盆の飾り付けには精霊棚と盆提灯などがあります。
※丁寧にはお仏壇から位牌を取り出し、お仏壇前に改めて精霊棚を設けて飾りつけ、そこに位牌をおいて供養する形、地域によりしきたりがあります。
しかし「絶対」ではございません。これは負担ともなりますので、常日頃の通りにお仏壇を礼して供養差し上げることで充分なのです。
◆盆供
お盆のお供え物、供物のことを「盆供」と言います。お盆に行う供養のことも同じく盆供と呼びます。
◆迎え火と送り火
お盆の入り(8月13日 ※異なる地域有り)には、「ご先祖様が迷わずに帰って来られるように」という気持ちをもって、玄関前を照らすよう迎え火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでおいでなしておいでなして♪
お盆明け(8月16日 ※異なる地域有り)には、ご先祖様を丁寧に送り出すために玄関前で送り火を焚きます。
お盆さまお盆さま この明かりでお帰りなしてお帰りなして♪
(諏訪地方は白樺の皮を焚いているご家庭が多いです。)
◆飾りつけとお供えもの
◎精霊棚
お盆に用いられる祭壇
(前述のとおり、お仏壇を丁寧に整えていただければ充分ですよ。)
◎盆花
●精霊棚の網に逆さに吊るす花 代表的なもの:ほおずき
(花瓶で綺麗な仏花を供えることで充分ですよ)
●禊萩(みそはぎ)の葉を束ねてお供えする 代表的な盆花のひとつです。
盆供、飾りの清めに使われていたことから、ミソギハギとも呼ばれていた。
実際に萩に綺麗な水をつけて祭壇、仏壇、盆供のお清めに使っております。
※丁寧には、蓮の葉に水を注ぎ、ナスやキュウリを細かく刻んだもの(精霊への施食)を添え、そこに禊萩を供えます。
(綺麗な器にお水を注ぎ、そこに萩を供えていただくことでも充分ですよ)
◎馬と牛
お位牌の前に供えます。
馬はきゅうりで作ります。早くお家に帰ってきて下さいとの気持ちをもって供えます。
牛はナスで作ります。ゆっくり過ごして下さいとの気持ちをもって供えます。
(それぞれの足は割り箸を用いていただけたら充分ですよ)
◎盆提灯
お盆のみに飾られます。※新盆は白提灯が主です。
ご先祖様を迷わす迎えるための灯りです。
毎日暑いなかですので、みなさんがお体を悪くせず元気であることにより、
ご先祖さまに安心していただくことが第一です。
体調、健康に気をつけてお過ごし下さい。
ご心配なことなどお有りでしたら、遠慮なくお寺にご相談下さい。
合掌