まとまった力を
東日本大震災から3年が過ぎました。
被災の地において今も悲しみ苦しみ癒えることなく過ごす方々が大勢おられます。
一方、平和な暮らしの営みができている私たちがこの事実を顧みて、被災地に向けてできる支えとは何でしょうか。
3月11日、ご供養と祈りに勤めた朝のお勤めより一日を過ごし、テレビをつけるとわずかですが災害当時の様子が映し出され、主には現況を語る被災地の方々の声が複数の局で放送される中、個々レベルで「支援」について考えてみました。
自分に返った答えは、実りあることが何もできない自分を知ることでした。個々の弱さを感じ、情けなく懺悔の想いですが、これもまた現実です。
やはり実質的な復興の前進を図ろうとするならば、人はまとまり、同じベクトルを差し向けなくてはならないと強く感じます。
震災当時、多くのボランティアが被災地に足を運び、僧侶もその活動に加わり、また本来の職である供養と祈りにも勤めました。
まとまった力が多数集結し、その地で一層大きな力となり躍動しました。足を運べない人は、遠くからまとまった力を運ぶ手段を考え実行し、支援活動は重々帝網な姿となり、「絆」という言葉で表現されてきました。
しかし3年経った今、いまだに復興が実らず、1,000年に1度と言われる津波大災害がどれほどのものであったかを痛感させられるとともに、今後行政の力が誤ることなく行使されていくことを願うのです。
個人ができること。毎年この日を迎えた時には忘れず静かに考えたい。
被災地の方々が
何に泣き叫んだのか
何に怯え痛み悲しんだのか
何に苦しみ耐え忍んだのか
静かに考え、深く想像しなくてはならない。それが事実と異なったとしても。
それが「忘れない」ということに繋がり、再びまとまった力を発して被災地へ差し向けることへの原動力になる。
先日、諏訪で社会福祉協議会と諏訪圏青年会議所とが災害協定を締結した。
明日来るかも30年先かもわからない、まったく予測のつかない震災を主とした天災被害に対して円滑で強固な支援体制を実現させるためのもの。
過去に学び未来へ築くまとまった力の第一歩だ。