真福寺新春イベント間近
いよいよ3月1日(土)に迫りました新春恒例お笑いイベント!
今年は新着情報行事告知の通り『お笑いものまねステージ』です。
会場の設営が整ってまいりました。当日は朝よりスタッフさんがみえて
さらに詳細に準備を進めていきます。
みなさんのご来場をお待ちしております! 入場無料全自由席です。
春弥生を笑いで迎えたいと思っております。
宴会用にものまねのひとつは覚えたいですね。
(駐車場:参道下大駐車場/熊野神社下駐車場/鐘楼堂下駐車場(数台)
当日は本堂(本尊阿弥陀如来)にて自由にお参り、献香ができるようになっております。
ゆっくりとご参拝して心健やかなる一日として下さい。
満喫
諏訪仏教青年会の研修旅行に参加しました。メインはこのたび20年に一度の式年遷宮がなされた伊勢神宮です。
式年遷宮の準備期間についてお尋ねしたところ、8年以上とのことです。その予算の大半を占めるのが尊いご寄付であります。20年に一度迎える式年遷宮において新調されるのは65棟。その崇高なる儀にむけては、職人師弟間の尊い技術伝達も繰り返されているのだと思います。宮司を中心として多くの方々の厚い信仰心、多くの職人さんが全神経を注ぎ、想像するだけでも大変多くの人々が伊勢神宮の神に仕え繋がっております。
なんとも神々しい空間で、良いお参りをさせていただきました。立ち寄ったおかげ横丁も活気あふれ、色々目移りしながら楽しいひと時でした。
伊勢神宮参拝後は、青年会員が過去に修行していたという名古屋の禅寺徳源寺を参拝しました。
多くの雲水さんが日々修行を積む屈指の修行道場のようです。
お寺に仕えている僧侶が寺を案内してくださり道場などの様子をお見せしていただくなかで、普段は体感することのできない「禅の気」を味わうことができました。
このお寺には大相撲界九重部屋の稽古部屋がありました。便器も大きい…。
気も張らず楽しく過ごす中で充実した研修旅行になりました!
座禅道場
炊事場
釈迦涅槃像
お釈迦さまの灯り
2月15日はお釈迦さまのご命日であります。
入滅後2,500年という長い時が過ぎた私たちの日常では、お釈迦さまの過去の存在に実感が薄く空想的なものとなっているようにも思えます。しかし、確かに実在した人物の伝えたことが、今も消滅することなく仏教として根付いているのです。
お釈迦さまは何を伝えてくれたのか。
それは、「人はどのように生きるべきか」ではないでしょうか。
ある葬儀で、お孫さんが亡き祖父へお別れの言葉をこのように述べたことがありました。
「おじいちゃんは生きることは簡単ではないことを教えてくれた」と。
遥か昔、お釈迦さまは永久に生きづらい世であることを悟り、誤ることのない生き方、拠り所を示してくれたのだと思います。
ところが私たちが生活を営む現代社会は価値観が多様、情報過多で混鈍としております。人とのつながり、自分の存在価値さえも見誤り、心の傷が癒えにくい時代とも感じます。それはお釈迦さまの灯りが分厚い雲に覆われて広がりにくい環境と思えます。
お釈迦さまは膨大な時の中で人の営みの形が変われども、世の本質はけして変わらないことを確信し、弟子に「正しい心」で生きよと伝えました。
正しい心とは「慈悲」という不変の物差し。
それは癒しとなり、勇気となり、また道標にもなる、変わらずお釈迦さまの灯りが照らし続けていることを実感するための要です。
お釈迦さまが死期迫り最後に説いた教えが『遺教経』として大切に読誦されています。
その中の2つの言葉を紹介します。
『此の五根は心を其の主と為す。是の故に汝等当に好く心を制すべし。心の畏る可きこと、毒蛇・悪獣・怨賊よりも甚し。』
五根とは眼・耳・鼻・舌・身。
これらが働き感受する物事(結果)を良く保つには、心(原因)が健康でなくてはならない。
体が悪しき行い善き行いをするのではなく、人の働きは心がそうさせています。
乱れた心は恐ろしいものです。
自分の心を制することが大切です。
『蜂の花を採るに、但だ其の味を取って色香を損ぜざるが如し。』
ハチが花から蜜を集める時には、無心に蜜だけを採取して、その花の色や香りを損なうことがない。
私たち人間も多くを望みすぎて自他の善を損ない、自他を害してはなりません。
※総本山智積院では、2月14日お逮夜に堂内に釈迦涅槃図を掛け、僧侶総出仕にて遺教経を読み遺徳を偲びます。
誰しも欲望は前進の原動力。
それは生きるに欠かせないものですが、時には自分が足りていることに気付き、
おかげに甘えて心を休めましょう。
それが安心満足につながる薬です。(足るを知る)
合掌
真福寺涅槃図 (全体像-ホームページ内「真福寺の寺宝」)
大雪から一夜明けて
雪を掻いても掻いても降雪の量に追いつかない!
2月8日(土)は記録的な大雪となりました。手つかずのところは40センチ近くにも及び、普通列車の運行は大きく乱れ、特急列車は運休。車道も高速道は通行止め、岡谷、諏訪の一般道も劣悪な状況で不安定な交通となっていました。
お寺の境内、駐車場、お堂の回廊はあっというまに雪が降り積もり、導線の整備が不十分なままとなってしまいました。法事の参列者にとっては家を出発してから法事を終え帰宅するまで苦労の連続であったことと察します。
一夜明け、早朝より総代様方が境内の雪掻き作業に参上してくださり、おかげで導線が十分に整備されました。感謝申し上げます。
この度の大雪はニュースなどで「20年に一度」の記録的なものと取り上げられています。
頭によぎったのは、3.11の震災害が「1000年に一度」の大津波によるものであった事。
本日は好天に恵まれている。暖かな太陽の光が遍満に照らし、雪解けが始まり心の緊張も ほぐれた。そして助けてくださる人の手により寺の日常には安定が保たれた。
愚痴など言っている場合ではない。
境内にできた「かまくら」。最近見かけなくなりました。
2月8日の朝。一日陽が射すことはなく、雪は夜まで絶え間なく降り続いた。
お堂回廊に積もる雪(この除雪が一番難儀…)
2月9日。早朝より雪掻き、境内整備にお越し下さった総代方。ありがとうございます!
鬼について
節分-鬼について-
季節の節目とされる節分。細かくは立春、立夏、立秋、立冬の前日であります。その中で春の始まりである立春が、昔は新たな一年の始まりとして位置付けられていたことから、2月の節分はとりわけ重要視されてきました。
遠い昔から、季節の節目には厄難、邪気、鬼がやってくると伝えられてきており、厄祓い、邪気祓い、鬼祓いをしてきました。
「鬼は外!」
豆まきは、病気や厄難を鬼の仕業とも考えていた人たちが、新しい年を迎える前に鬼退治をして、迷いなく安心の中でスタートを切ろうとしたおまじない、大げさに言えば一作法でもあったわけです。
さて、真福寺の寺宝には「鬼のミイラ」があることをご存知でしょうか。ホームページ内―真福寺の寺宝―でも紹介されていますが、私自身はこのお寺に生まれてから拝見したことが一度しかありません。再び拝見することができる日も不明であります。
だいぶ前のことですが、週刊誌に寺宝鬼のミイラが特集記事として掲載されたことがありました。古い週刊誌ですがお寺に保管されておりましたので、記事内容を紹介します。
寺宝展に現れた「鬼のミイラ」が主張する存在証明
ガラスのケースに納まった奇っ怪なミイラを前に、子供たちは、
「ウワァ、怪獣のミイラだ!」
老人たちは、手を合わせて、
「有難や、有難や」
実はこのミイラ、ホンモノの鬼のなれの果てなのだという。鬼が死んだらミイラになるのかどうか、の詮索はさておき、体長約40センチ、三本の爪の指、大きな口をカッと開いて鋭い歯をのぞかせ、後頭部には二本の角と、なかなかの迫力だ。
長野県岡谷市の真言宗・真福寺の寺宝展で一般公開された秘蔵のミイラである。同寺に、明治時代に檀家から寄贈されたものだというが、それ以前の伝来は全く不明。
戦前から昭和23年ごろまでは、檀家の人たちに貸し出し、ツツジの名所、岡谷市鶴峰公園で見せ物になったこともある。が、その後、先代住職が、「これも仏様の一種、見せ物にするのは忍びない」と、公開することを禁じ、今回の一般公開は30年ぶりだという。
今年が弘法大師入滅1150年に当たることから、その記念行事の一つとして寺宝展が開かれたわけだが、同寺の小林照文住職は、
「やはり仏の一つと考えておりますので、今後も見せ物のように公開するつもりはありません。まあ、私が死ぬまでに、一回ぐらいは公開する機会があるかも知れませんが。」
という。
三日間で寺宝展にやって来た人は約250人。滅多にない目の保養をしたことになるが、さて、信仰心薄き俗人が気になるのは、やはりその正体。猿? 犬? あるいは雪男? 現実的な想像やら空想やらが、こもごもわいてきて、何が何だかわからない。
恐る恐る小林住職におうかがいを立てると、
「参拝して心の中に棲む鬼を捨て去っていただく、と解釈しております。この際、正体など問題ではありません。」
とピシャリ。
それにしても見れば見るほど…。やはりホンモノの鬼かな?それと気になるのはミイラの股間。鬼も哺乳動物なのかしら。
昭和59年6月21日 株式会社サンケイ出版発行『週刊サンケイ』 掲載記事全文
住職の言うことを要約すると、
「誰もが鬼となり仏となる。心変われば人変わる。」ということでしょうか。
人の心に潜む鬼はもっとも怖い。怖いが、しかし鬼も闇を除けば仏となる。
合掌
2014年2月の「言葉の力」
目に見える体の汚れ
目に見えぬ心の汚れ
心の汚れは
自身を振り返る「反省」と
心洗われたと感じる「縁」
そして それらを受け入れる
「素直さ」をもって落ちている