戒名について学ぶ機会
このたび東京にある真言宗智山派の宗務出張所、別院真福寺におきまして、智山青年連合会の主催による勉強会が開かれました。
内容は戒名について。
私は僧侶になり10年以上になりますが、自ら戒名を付け、お授けした経験はありません。
葬儀に向けて戒名を一人静かに考える住職の姿、机に置かれる辞典、幾つもの字があちらこちらに書かれて散らかる紙とペン。たまにはそこに寺庭である母が一緒にいることも。そんな様子は何度も見ております。
導師は葬儀一連の営みが終わると、どっと疲れが出ると聞きます。おそらくご遺族からのお話を伺い戒名を考える頃より、相当な神経を使っているのだと思います。
いざ自分がその役目を担うこととなれば、それは安易に行えるものではなく、正直かなりの不安があるのです。
今回の勉強会、青年僧侶が大勢130名も参加しておりました。
勉強会冒頭で、まだ戒名をお付けしたことのない人を先生が確かめられた際、その数半数以上に及びました。
皆、同じような不安があり、また自身、戒名についての知識がないことを自覚し学ぶ機会を求めていたのだろうと思います。
戒名とは?
こう尋ねられた時に、明確な自分の答えを持っていなくてはならないと感じます。
これから自分がその勉強をすすめていくために、当勉強会では、戒名起源の諸説から実際の戒名の構成、付け方まで丁寧なご講義が聞け、また貴重な資料も頂戴できました。
ありがとうございます。
戒名は、僧侶が考えて字を選び付け、お授けをするものなんですが、それは僧侶と授ける対象となる方との二人の関係だけではなく、その戒名への想いが、ご家族などお近い方々と共有できるものであるべきと考えます。
人の姿あるいは気持ちや思念などといったものが、字に映る、字に蘇る、戒名に現れる、そして、お近い方々にとって愛おしく思えるものでありたいです。
しかしながら、今の自分にはとてもそれはできません。
つくづく僧侶は大変な担いがあるとさえ感じます・・・。
先生は、自信をもって考えお付けしなさいと仰いました。
それは、堂々と戒名をお付けできるように檀家様と大切に接しなさい、とも私には伝わってきました。
私たち青年僧は、課題だらけです。
そう、青年僧とお寺は課題だらけです。
合掌
今年もYOSAKOIにむけて
今年も秋に行われることとなりました「諏訪湖よさこい」。
諏訪に来い 諏訪に恋する SuwaKoi
よさこいの発祥は高知県として知られ、現在は全国各地にも波及し、鳴子を手にして踊り舞うステージを中心に、まちが熱く盛り上がるおまつりとなっております。
今年岡谷で行われるよさこいは第3回目。まだこの地に生まれたばかりのおまつりです。
全国から集まる40チームを超える踊り連は、諏訪湖と八ヶ岳の大自然をバックにした最高のロケーションで演舞を繰り広げ、5000人を見込む来場者は各演舞ステージを楽しむ他、諏訪圏の地元グルメや名産品店が出店するロコモールで食事や買い物を満喫します。
このたび、第3回諏訪湖よさこいに向け、第1回実行委員会が岡谷テクノプラザで行われ、メンバーの顔合わせがあり、開催日、会場などが承認され、今年のよさこいをどのような内容にしていくのか最初の話し合いの場がもたれました。
第3回諏訪湖よさこいの開催日は9月12日(土)!
場所は岡谷市湖畔公園グランドにて。
岡谷でこのまつりを企画し立ちあげ、県内外からの来場者に諏訪圏域を広くPRしてまちを盛り上げようと奮い立った、第1回目開催の役員をはじめとする諸先輩方。これに引き続き昨年第2回目には規模を拡大して充実を図り、さらに協心戮力し奮闘した諸先輩方、実行委員会のメンバー。
裏方だった私は、労苦を惜しまずまつりを築いていこうとする表舞台を担う先輩メンバーの姿勢に接して、自分も少しでも力になりたい、そして楽しみたいと純粋に感じその輪に加わりました。
私は普段は寺に従事しておりますが、一方でこのメンバーの一員としての活動に団結して楽しむことも大切にしております。
今年も早くもその準備が始まりました。しかしながら、準備に携わるメンバーの人数が、おまつりの規模からして足らないのだと皆が口をそろえます。
このHPをご覧になってくださる諏訪圏域の方で、おまつりやイベントの準備運営、まちのPRに興味がお有りの方、お若い方が居られましたら一緒に活動しませんか。
連絡いただけたら有難いご縁です。
話が移りますが2月15日はお釈迦さまのご命日であります。
2500年近くも昔のこと。
お釈迦さまは、人として大切なことをいくつもの言葉にして人に語ったそうです。
『法句経』にあるお釈迦さまの言葉。
無益の句よりなることば千ありとも
それを聞き 心の安穏をうる意味深きことばこそ
遥かにもまさる
仏教には八万四千の数と表現されるほどの教えがあります。
お釈迦さまが多くの人々と出会うなかで、ある大切なひとつのことをその人に応じて言葉や表現、さらに時、世界観を変えて伝えたそうです。
これを「対機説法」といい、お医者様がその人に合ったお薬を処方するのと似ています。
つまり人の心に留まる言葉とは、誰しもが同じではないのです。
これが多くの言葉が膨大に存在する所以です。
お釈迦さまは、人が豊かに生きるために誰しもが気づいておくべきことを、悟りのなかで確信をもたれたのです。
その大切な核なることを、出会う人に応じて、また悩みや願いに応じて語られ、
それがお釈迦さま80年の生涯で膨大な言葉となっているのです。
人は迷い悩むなかに、気づきや答えに結び付く閃きがなかなか訪れないことがあります。
平凡ななかに、自分に変化をもたらすような出会いに恵まれないこともあります。
多くの人と多くの言葉に溢れていても、その人の的を得るような、心揺さぶる一期一会はそう多くはありません。
歳をとるにつれ、自分を諭してくれる人や叱ってくれる人が減っていくように感じます。
人との出会いのなかから、色々な人の言葉や姿勢に接して学ぶしかありません。
お釈迦さま亡き後2500年に迫る月日が流れ、世は変わり、尚も変化し続けています。
はたして「人」は変わっているのでしょうか。
お釈迦さまの伝えた「人の本質」ってゆうのは、不変であるように思います。
そして、その教えは実に的を得ているのだとも感じます。
現在に生きる「若人達」が、まちに根付くおまつり作りをしています。
その人達の輪に混ざり、多くの人と接して、色んな人の姿勢からまた何かを感じ取り、
気づきや学び、そしてつながりがきっとあるのだと思います。
私にとって諏訪湖よさこいは、諸々のしんどさの中に有る楽しみ探しでもあります。
伊那成田山の節分会にて
2月2日、3日、伊那の成田山恩徳寺で行われる節分会護摩法要に出仕しました。
こちらは信州伊那成田山として信仰を集める名刹寺院であります。
真言宗智山派総本山智積院の末寺であるとともに、成田山新勝寺の末寺でもあります。
本尊不動明王は成田山新勝寺の不動明王のご分身、御身代わりとして祀られております。
大聖不動明王といっぱ、内に慈悲の誓いを秘め、外に忿怒の形を現ず、
大日如来の教令輪身、諸魔降伏の忿怒尊なり。
(祈願文より)
3日の節分会は、早朝から夕方まで続く護摩法要に大変多くのご参詣がありました。
毎座の護摩修行後には、堂内においてご参詣の皆さまと一緒に『福は内!』と大きな声を合わせ、厄年の方、私たち僧侶が豆まきをしました。
法要と豆まき式を終え、明るい表情でお帰りになるご参詣方々のお顔が印象的です。
恩徳寺の節分会護摩法要には、恩徳寺御住職、役員のもとに、特には松本、塩尻より同宗派寺院の住職、副住職、御札浄書役が集い、法要を助けております。
他、総本山智積院の修行僧(智山専修学院生)も京都より3名来山し、実践・研修の場として私たちと同じく法要に出仕し共に過ごしました。
京都本山から来られた修行僧
2月の節分が過ぎ暦のうえでは春とはいえ、信州はまだまだ冬の厳しさが増し、一層多くの積雪も予想されるこの頃です。
年明けよりひと月があっというまに過ぎ去り新たな月を迎え、いま一度年頭の初心を心に留める時であります。
先日テレビをつけると、清掃業に30年勤める職人が、自身が大切にしている流儀についてこのように語りました。
「仕事を怖がれ」
怖がるからいい仕事ができると。
強烈なインパクトを覚えました。
仕事を楽しめ、とは何度か言われたこと、聞いたことがあります。
むしろ楽しむ心がけの方が大切だとも思っております。
では、怖がれとはどういうことなのか。
少し考えさせられました。
自分なりの解釈ではこう考えます。
“初心を失い”仕事をすることを怖がれと。
このたび本山の修行僧とともに過ごしたこと、また、ふとつけたテレビで語られた言葉があったことで、なんとなく初心の大切さを考えてみる時間のあった、伊那で過ごした2月のはじめでありました。
合掌
2015年2月の「言葉の力」
想うことは過去未来あるけれど
生きる「確か」は今この時しかない
現在(今)を精一杯見つめ生きる