2017年10月の「言葉の力」
一言が人を勇気づける
一言が人を傷つける
慈愛の言葉を伝えよう
発心
お寺の山門より一直線の参道が伸び、その前を通る旧道には、
出勤の社会人、学生、散歩やジョギングをする人、様々な人が行き交います。
ある日、この旧道を通るひとりの人が参道前に立ち止まり、山門、その先の
本堂に向けて手を合わせ一礼してから通り過ぎて行く姿を見ました。
以前、京都の本山智積院で過ごした頃、寺の境内を通り抜けて通学する大学生が、
金堂の前に立ち止まり、手を合わせていく姿を多々見かけました。
洗心の想いでした。
本山で生活した私たちは、お堂の前では必ず立ち止まり一礼するよう、
修行僧のころより指導を受けていたため、僧侶にとってはひとつの「カタチ」、
所作になっておりました。
一般の方にとってこの日頃の姿勢は、おそらく誰に指導されたわけでも、
勧められたわけでもなく、自発された行為であると思います。
ここにひとつの「ココロ」をみることができます。
さて、この心はどこに向いているのでしょうか。
神仏、寺のご本尊さま、あるいはご先祖さま。
目には見えない多くの「お陰」が働き生かされている命。
人はけして傲慢に生きるべきではないということ。
謙虚な心が、「大いなる存在」に向けて礼拝をしております。
大いなる存在とは「他力」という表現もできます。
言葉にある他力本願の他力です。
慌ただしい日常では、その他力に向けて一瞬でも身と心をあずけて、
静かに穏やかに己を整えることも必要なのです。
礼拝とは、自分の内側を観て自覚を得る行為ともなります。
秋のお彼岸がやってまいりました。
様々な理由でご先祖さまへのお参りができない方もあろうかと思います。
そちらに向けてほんのひととき、手を合わせて目を閉じてみてはいかがでしょうか。
「ココロ」が戻ってまいります。
安らかな心とともに生きる力を。
合掌
亡き人のもとに感じたこと
「こども達今年は静かにしてたね。」
「○○はどうしてるの。去年は来てたよね。」
「はじめまして。」
妻側親族の三回忌供養に出席した際の、会話のほんの一部。
同じ時期、お寺でもお檀家さまのご法事がありました。
「いくつになった。」
「仕事はどうだ。」
「体は大丈夫なのか。」
よくお見かけする法事の様子です。
亡き人の命日を迎え集い、亡き人を偲ぶひとときの営み。
同時に、縁あって集った人達にとっては、
『生』を想う時間なのだと感じます。
日頃は仕事、学校、地域活動、あるいは子育て等々で
亡き人への意識は薄れているもの。忘れていることさえも、
それが日常に追われるという「普通のこと」だと思います。
ご法事を迎え、親族、縁者が顔を合わせるひとときに、
身なりを整え、あらためて亡き人の『命』を想い、向き合う。
一方で、その営みによって、今有る自分達の『生』を実感していることにも
ふと気づかされる。
そして、「慈しみ」や「感謝」の気持ちが心に蘇る、
人として生きる者にとって大切な時間と成る。
生と死がつながっていること。
生きる者と亡き人の魂がつながること。
そして生きる者をつないでいただけること。
法事の温かみは、確かに存在しています。
『元気そうで。』
『まだまだ、なんとか体動かせてるわ。』
『赤ちゃん何カ月。』
亡き人は、ご先祖さまとともに、
お姿見えぬ『根』となって、私たちの「命の樹」を支えてくださっております。
法事は、亡き人のもとに「つながり」を感じとり、穏やかな気持ちを心に戻し、
我々の生きる力となるものではないでしょうか。
合掌
2017年9月の「言葉の力」
仏は私たちの世界で
常に法を説いている
仏の言葉(経)には
真のことが説かれている