高幡不動尊参拝
このたび真言宗智山派長野南部教区青年会の研修で、東京の江東区にある成田山東京院深川不動堂と日野市の真言宗智山派別格本山高幡山金剛寺を参拝しました。
私は葬儀が入り、高幡山金剛寺のみの参拝となりました。この寺院は、高幡不動と呼び親しまれており、関東三大不動がご本尊としておられる祈願所の名刹であります。
自身、5度目の参拝であり、真福寺の住職と大黒、役員、檀家様は、毎年一行にて初詣をしております。
さて、この寺の御住職は、私たちの宗派では別格本山寺院の御貫主と呼ばれております。
大僧正 川澄祐勝貫主猊下。
2009年に著作『叱られる幸せ』が出版されております。
高幡不動でこの御本を手にして見ることができ、パラパラっとめくってみました。
目に入ったのは、目次にあった「怒らずに叱る」というタイトル。
時間もないので、読むには至りませんでしたが、帰りの電車でふとそのタイトルがよみがえり少し考えてみたのです。
怒ると叱るは違う。
しかし、それを自らの意思で機に応じて体現することは容易ではない。
怒るとは・・・叱るとは・・・。 私なりに考えてみる。
怒るは短絡的と言える。この行為をするには考えなくてもよい。
その場の感情が、そのまま表現の核となり行為を導いていき、対象に向かう。
言葉の分別を守っていても、冷静な姿勢を失うと、必要以上に対象を傷つける言葉や行為を生み、毒すことにもなる。
さて、叱るはどうか。これは考えて行う行為であると思う。
厳しさのなかにも言葉の分別を守り、対象の気持ちを考え、対象のその先を考え、そして同時に自分にも厳しくなくてはいけない。
思いやりが伴っている。
以前、本山智積院奉職時に修行僧の監督をしていた時に、まさにその経験をした。
現在、子育てをする父として、時々このことについては考えさせられる。
自身、当然反省ばかりである。
都度、こどもは反省を活かすチャンスをくれるが。
怒ると叱る、根本的な違いをひとつだけ、自分なりに理解している。
怒るは、突き放す行為。 一瞬でも相手を信じていない自分がいる。
叱るは、寄り添う行為。 相手を信じる自分がいる。
また、どちらも厳しき行為だが、その先の互いに信頼が有るか否かで、因果は異なる。
子育てや指導は勉強になる。こちらが教わることの方が明らかに多い。
こどもは大人の失敗を許しチャンスをくれる。
大人はそんなこどもに甘えず、大人こそ自分に厳しく、しっかりと叱る実践をしなくてはならない。
将来、叱られたこと、叱ったことが色あせても、互いに良薬として残るような関係構築が必要だと思う。
高幡不動参拝の帰り道、川澄貫主猊下の御本を思い出し、ふと考えたことです。
真福寺では、毎年高幡不動の初詣を計画し、30名ほどご参加していただいております。
高幡不動は新撰組副長、土方歳三の菩提所でもあります。