興教大師
12月12日は興教大師覚鑁上人のご命日です。
私たちの宗派では弘法大師とともに両祖大師として拝しております。
覚鑁上人は若くして高野山に登り、弘法大師の開かれた真言教学の再興に邁進されます。
高野山座主職もお務めになられ、その後に高野山を下り、真言教学の再興を
紀州根来の地(和歌山県根来市)に求めます。
総本山根来寺(新義真言宗)を開創され、根来山には多くの塔頭寺院、
450もの坊舎(一説には2000)があったとされております。
私たち宗派の総本山智積院ですが、もともとは根来山の塔頭寺院としてありました。
根来山は真言教学を学び実践する道場として大いに隆盛し、やがて政治力、
経済力、さらには僧兵としての力も蓄えていったそうです。
しかし後の天正13年に豊臣秀吉による紀州征伐があり、根来攻めの難を京都に逃れた
智積院住職の玄宥僧正が、徳川家康公から京都の寺領を授かり智積院が再興されます。
総本山智積院は、明治の時代には新義真言宗智山派を名乗っていましたが、
昭和26年に公称を真言宗智山派と改め現在に至ります。
正式名称は五百仏山根来寺智積院(いおぶさん ねごろじ ちしゃくいん)といいます。
私たちの宗派は、興教大師覚鑁上人を真言宗中興の祖として祀り、
『南無大師遍照金剛』 『南無興教大師』と両祖大師を拝します。
覚鑁上人は49歳の若さでお亡くなりになっていますが、
その一生のほとんどを、内観をはじめとする「行法」に勤めたと伝えられています。
次は覚鑁上人が仰った言葉として伝えられるものですが、
自らの行に対する信念と、揺るぎない大日如来への帰依の心が感じられます。
『もし鑁が虚言ならば、これを修して自ら知れ。
ただ願わくは一生を空しく過ごさしむるなかれ。』
真福寺発祥の地、高尾山麓寺平には覚鑁上人がおられます。
雪が降る前に、また山を登りお会いしに行きたいと思います。
合掌