水瓶
人を育てる職に就く大人同士、その職場において起きていたいじめが
発覚し、大きくニュースされたのは最近のこと。
こどもに教える立場にある大人の日常行為であったことが衝撃となりました。
衝撃の中身は、漠然と教育者に抱いていた理想を覆されたような
感情であったと思います。
この事案を他人事、教育者視点のみ捉えて議論して済ますのではなく、
広く大人社会のその陰にある問題として考える必要があるように思います。
多くの大人は、自分のこととして、また自分の置かれている環境に照らして考え、
普段、看過されている問題はないか見直す機会にできないでしょうか。
大人はこどもにこう教えます。
『悪いことをしてはいけません。悪いことをすると○○になります。』
『善いことをしましょう。善いことをすると○○になります。』
善悪の行為に因果の報いで例えて説明しているのではないでしょうか。
きっとこども達は、善い行いをすると大人に褒められることを知っています。
善い行いの先には、成長や嬉しいご褒美があるのだと期待しています。
『偽善』という行為を批判的に捉えてしまう大人もいると思います。
しかし、こどもの善の行いは、褒められることを期待してのことが多く、
最初はみんな偽善なんです。
それでも、大人がその行為と気持ちを見逃さずに認めてあげて、
大人自身、反省も含めて「模範たる姿勢」を常に示してあげられたのなら、
こどもは自分の善を信じられるようになるのではないしょうか。
やがて自然とした善の行為が身につくようになり、
いつか、偽善は本当の善に変わっていくのだと思います。
それは大人だって、いくつになったって一緒だと思うのです。
もう大人だから、と考えず、
恥ずかしいとかも考えず、
こどもに教えたことを大人が信じて、
そしてやり直しを信じていいのだと思います。
「自分はまだ未熟なのだ」と。
お釈迦さまはこのようにおっしゃったそうです。
『一滴でも水が滴り落ちるならば、やがて水瓶を満たす。
善をなすのを急ぎなさい。のろのろしていると心は悪を楽しむようになる。』
人は、職場は、社会は、誰でも何処でも善悪をあわせ持っています。
水瓶を満たし、気づかずに溢れ出てしまったのは、
善であったのか、それとも悪であったのか。
外野から一方的に責めることはできません。
合掌