不忘念~雨上がりに見た蓮~
長く続いた雨が止み、境内の様子を窺うと水連が咲いていました。
仏教の象徴とされている蓮の花は、いつ何処で見ても綺麗で癒されますね。
真福寺境内の蓮
つい最近のことですが、小学校の頃の同級生のお母様と話す機会に恵まれました。
記憶のなかでは、ゆっくりお話をしたことはなく、初めてのことなのかもしれません。
身のまわりのことなど様々な話題に触れ楽しい時間を過ごしました。
そのなかで、やはり遠い昔を振り返ったお話をされました。
私が小学校の頃、どれほど悪戯ばかりして周囲を困らせていたか。
人を泣かせていたか。
すでに忘れており、それを聞いて恥ずかしいやら、申し訳ないやら。
僧堂修行から帰ったばかりの頃、中学時代の同級生のお祖父さんとお話させて
いただく機会がありましたが、その時もやはり似たような中身でした。
みなさんにある私の記憶は、ほぼ等しく当時の悪行ばかりのようです。
いまさらごめんなさいと言っても何の説得力もなく、
重ねてごめんなさいと言いたくなります。
そして一言、それが立派になったもんだわ・・・と言われた時には、
なんとも言えぬ、どうしようもなく「複雑な」気持ちになります。
昔に比べればまともになった、ということなのでしょう。
さて私自身はどうかというと、
いまは僧侶として全うにお勤めさせていただけていることに感謝しております。
ひとつ確かに思うことは、それはお寺のご本尊さまのおかげなのです。
毎日欠かさず、早朝の清々しい時間にご本尊様のもとでお勤めをすることが、
私の「内省」の時間にもなっていて、そして身を正すことにつながっています。
お寺が素晴らしい処であることが、お勤めを重ねることでわかるようにもなりました。
お釈迦さまが最期に説かれたとされる「八大人覚」のなかに、
(八大人覚ー少欲、知足、寂静、勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論)
『不忘念』という言葉があります。
簡単にいうと、仏の教えを失うことなく、心に留めて過ごすことです。
初心ともいえるものでしょうか。
戒めともいえるものでしょうか。
これがあれば、恐れることはないのだと説かれています。
今日一日を始める時、この言葉に励まされているといっても過言ではありません。
とはいえ、暮らしのなかでは一瞬で欲望に流されそうになることもあります。
気を抜けば、すでに流されてしまっていることだって多々あります。
正直、私は昔とそう変わらず、法衣に守られているだけなのかもしれませんね。
そんな自分が、仏教は大切だ、この勤めが大切だと念じて身を正せるのは、
やはりこの寺のご本尊様のおかげ。
素晴らしい仏さまのもとに、皆さんにも足を運んでいただきたいと
心から思います。
蓮は水中の汚泥に染まらず花を咲かせます。
人も迷いの中から花を咲かせることができるのではないでしょうか。
合掌
辰野町童謡公園の蓮