お彼岸に思う
秋の彼岸、こどもを連れてご先祖さまのお墓に香を手向け、石塔を磨き、
手を合わせてまいりました。
我が家の先祖ならびに先代住職方が眠るお墓はお寺から100mほどの所にありますので、
お盆や彼岸以外にもたびたび訪れては草をとったり、花を手向けたりしております。
このお寺に住ませてもらっている我々は、これから先もお墓の世話をすることが
できるでしょう。
そして成長するこども達も、将来はきっとそうしてくれるものと信じています。
霊園をみると、お手入れのされていない聖地、石塔が増えております。
まさにこの様子を表すように、お檀家様や葬儀で関わった方などからは、
将来お墓をみる人がいないのだという話を聞くことが増えました。
実際に近年墓じまい、また仏壇じまいをされる方がいらっしゃいます。
現在、核家族化は実に全体の90%に迫り、且つ少子化が進み、
家内仏事の継承に大きな影響を及ぼしています。
お墓に関していうと、墓は家族で入るものという考え方は既に変わってきております。
それに伴い、お墓購入の選択肢も多様化し、家墓ではなく合葬思考が強まり、
永代供養墓、夫婦墓、特に樹木葬は需要があるそうです。
意志として家を継がない、墓を継がない、仏壇を継がない、
あるいは物理的に継げないという現実。
新時代を生きる私たちはこの先どうしたらよいのでしょうか。
幸せな未来の形とは、はたしてどのようなものなのでしょう。
世の中が変わるということは、生活における人の考え方や求め方も変わります。
死生観の変化もそのひとつにあります。
いままで長く大切にされてきた価値さえも変えるべきところは変わり、
変わらないことが尊いと思えるものは変えないで保つ。
その柔軟さが問われ、変化に頑なに逆らっては淘汰されてしまうものもあるでしょう。
私たちはとても難しい問題に直面しているのです。
お墓については最近こんな話がありました。
先々の自分達の墓を事前に備えておこうと、聖地区画を購入しておいたところ、
それを知ったこどもが、将来、お墓の掃除や維持が大変だから返してきてくれと。
私はおそらくこどもは遠く離れて暮らしているのだろうと考えお尋ねすると、
同じ町に住んでいるのだという返事を聞き驚きました。
後に残る人たちに迷惑や負担をかけまいとする考えは「終活」ブームを生みましたが、
残る人たちの考え方は決して一致しておりません。
施しともいえる終活が結果満足に至らないとなると本当に難儀なことです。
葬式仏教という言葉があり、お寺は人が亡くなってから行く処、
僧侶は人が亡くなってからがお仕事、という意味が含まれています。
しかし、この解釈のみとするならば大きな間違いです。
お寺は生きているうちに訪ね、仏教は生きている人が触れるべき教えなのです。
僧侶は多くの人と接して布教教化につとめながら、同時に人から多くの話を聞き、
将来のよい形をみなさんと一緒に考えるようにしなければなりません。
ご縁ある人たちと楽しいことも辛いことも共有するのが寺の在り方です。
後の人に迷惑をかけたくない、この一心で物事を決めてしまうこと。
面倒なことはしたくない、この一心で遠ざけて考えてしまうこと。
そこに「諦め」の感情が含まれているのなら、まだ決断は早いと思うのです。
お寺に是非お話をしに来ていただきたいと思います。
迷いがあれば慌てることなく話し合いと相談の機会をもって下さい。
お墓や仏壇は「心のバトン」です。
バトンを渡すべき人がいるのなら、その人に早くから心を伝える姿勢をもつことです。
子育て世代の方には、お墓参りはこどもと一緒に行くことをお薦めします。
出来る限り仏事をともにすることをお薦めします。
なぜなら、心のバトンとは、ある時突然に渡せるものではないのですから。
日頃の供養は、自分達を養うことでもあり、生きる力そのものです。
合掌