別れとはなにか
いくつものお別れの儀式に立ち会ってきましたが、いまだに慣れません。
自分が何をしたらよいのか、という点においては経験にともない慣れたと言えますが、
どうしても慣れていかないのは、自分の気持ちの面です。
慣れないというより、「わからない」という表現が正しいかもしれません。
通夜の読経に続き納棺の儀がありますが、その際のご遺族の様子というのは、
終始静寂に満ちていることが大半を占めるなか、激しく泣き悲しむ姿もあれば、
棺に集まり笑顔で明るい声を掛け合う姿もあります。
このような場において、人が「泣く」、あるいは「笑う」という姿に、
どこか「健康的な印象」を私は勝手に抱いてしまうのです。
しかも明るく声掛け合うような姿を目の当たりにした時など、
胸中推し量ることを忘れ、勝手に安心してしまうことさえあります。
勝手に・・・というところに、自分が僧侶としていかに未熟であるかがわかります。
さて、無常の風が止むことはなく、かなわないこととは、
どこで深い悲しみや心の痛みが襲うかわからないという点です。
通夜の際に故人に寄り添い明るく振る舞っていたご家族が、翌朝の出棺時になって
激しく泣き崩れるということがあります。
すべての儀を終え自宅に帰ってから、もっとも深い悲しみが訪れることもあります。
私がわからないのは、
いつ、どの場所が別れの時なのか、それは人によって違うということです。
そして、悲しみの深さや質もまた違い、さらには限られた時間のなかで刻々と変化する
心の姿さえも人によって様々なのです。
これは人の本質であって、わからないこともまた真理と言えます。
僧侶の役目はご葬儀のあとにも残されているのかもしれません。
あなたにとって、どの瞬間がもっとものお別れの時なのですか。
あなたの悲しみはどの瞬間からやってきて、どうしたら解けていくのですか。
正しい答えはみつけようもなく、
これほど悲しい思いから抜けていくにはどうすればよいのか?と尋ねられたら、
それは尽きるまで「悲しむしかない」としか答えられず・・・。
悲しみに効く薬が悲しむことだなんて。
でも、これも本質のように思えるのです。
悲しいの語源は、かなわぬ、と聞いたことがあります。
かなわないことは、到底わからないことなのかもしれません。
悲しみのなかで目の前の死を凝視することは大変辛いことです。
しかし、通夜では眠る故人様のお身体、お顔をよく見てさしあげてとお伝えします。
この手で働いて、この口で語り食事を楽しみ、この足で旅をして。
その目に笑みのしわを寄せ、また涙を流し。
風呂に浸かれば気持ちいいと声をあげ、怪我に体を痛めたこともあるでしょう。
ご縁のなかで心に刻まれた喜びや悲しみは、不思議とそのお顔に表れている。
その手はこどもを抱いた手、つないだ手、孫の頭を撫でた手。
誰かを背負った背中。
『すべては生きた証』
故人の生きた証を見てさしあげて、声をかけてあげられるのは、
その場に立ち会う人たちの誠に尊いお役目です。
火葬からお寺に帰って来た喪主様が、ご遺骨を手にして言いました。
半分泣いて、半分笑って、私にこう言いました。
『こんなに小さくなっちゃった。』
小さくなった父さんの身体を、今度は残された子が抱いている。
この時の表情は、どなたも不思議と穏やかであることが多い。
別れとはなにか、わからないことだらけだ。
合掌