犀の角
角界は上松町出身力士、御嶽海関が優勝を果たし大関昇進を決め、
悲願達成に長野県内のみならず全国相撲ファンは喜びに沸いております。
昨年、横綱照ノ富士関が横綱昇進の知らせを受けた際の口上、
「不動心を心がけ、力量の向上に努める」
と述べられました。
動じることなく横綱として高みを目指す、ということですね。
横綱昇進後は連続優勝を飾っており、まさに劣勢においても動じない姿でした。
さて、28日は不動明王のご縁日です。
お不動さんと呼ばれ、とても信仰厚い、憤怒の形相をした現世利益の仏さま。
お不動さんは何が動じないのか。
心が動じない。
迷いを断ち切ろうとする、抜苦与楽の「救いの心」が、
金剛の如く、固く動じることがないのです。
それは大日如来の化身、衆生救済のお姿とされております。
悟りを得た仏(ブッダ)に対して、私たちのことを「凡夫」といいます。
凡夫は、余計な欲があるがゆえ執着し、常に迷いを生み、
その「心」は天気のように動いてしまいます。
これを「煩悩」といい、人の苦しみの根源とされております。
この根源を断ち切るには、主である心を制御しなくてはならないのですが、
いくつになっても、それがとてもとても出来やしないから、
自己肯定の一言、だって人間だもの・・・というセリフが出るのですね。
お釈迦様のお言葉を紹介します。
害心あることなく 何でも得たもので満足し 諸々の苦難に堪えて 恐れることなく
サイの角のようにただ独り歩め
音に驚かない獅子のように 網に捕らえられない風のように 泥に汚されない蓮のように
サイの角のようにただ独り歩め
「サイの角のように ただ独り歩め」
人は誰か何かに支えられ、罪を許されながら生きることができています。
人が独りでは生きられないという由縁です。
しかし、誰もが皆、「私」という「唯一無二」、独りの存在であることも確かです。
人の苦しみの原因のひとつに、「他人と自分を比べる」ということがあります。
お釈迦様は、これをしてはいけませんよと教えて下さっています。
成長に比較判断は必要ですが、比較が生み出した良し悪し、あるいは価値観に
「心が縛られる」から、それが苦につながります。
サイの角のように。
自分の目指すものに向けて、恐れることなく努めていく。
ただ独り歩め。
群れのなかにあっても、比較して、あるいは流されて自分を見失うことなく。
その心が動かないのなら、道はきっと開けていくのでしょう。
いまコロナ禍は、まさに「不動心」が試されているような気がします。
他と比較しない「自愛」と「潔さ」は絶対に幸せのヒント。
ここで言ってみたいセリフ、
「だって、私、人間だもの。」
合掌
真福寺不動明王像 (大仏師:松久宗琳師)
南無大日大聖不動明王