心の目~ちょうどよい~
この冬は諏訪地方も雪が多い。
これだけ頻繁に雪が降り、雪掻きばかりを繰り返していると、
春の芽吹きを見落としてしまいそうな気がする。
二月は下旬。
辺りを見渡せば、春はちらほらと見つけることができるのかも。
おそらく降り積もったこの雪の下にも春が芽を出しているのだと思います。
今はまだ、世界も社会も何事も耐え忍びの時期なのでしょう。
耐え忍んだその先には春がやってくる。
人は、自然界が我々にそう教示して下さっていると考えます。
仏さまのものさしは少し違います。
「耐え忍ぶなかに、既に春がある。」
冬の厳しき自然が時折見せてくれる、美しい表情があります。
それは苦しさに心が囚われていると見逃してしまう刹那の姿。
こんなことを言った方がいました。
咲く花は確かに美しい。
しかし、それを見て美しいと感じる、その人の心がもっとも美しいのだと。
私はそれを聞いて思いました。
その心が「縁」に気づいたのなら、咲く花でなくとも、幹や枝葉、土の中に隠れた根、
さらには、それらの栄養となる土さえも、美しく目に映るのではないかと。
そういう目をもって、耐え忍ぶ「いま」、「現在地」を見れないだろうか。
『いまの姿が美しい』
『いまの姿がちょうどよい』
これは、達観したお釈迦様、仏さまの目、仏さまのものさしです。
仏教にはこの世を生きるヒントが詰まっていると感じます。
神仏は、人間が想像するより、遥かに大きな存在。
それは尽未来際、人智が及ばないほどの大きさ。
神仏は、人間が想像するより、遥かに微細な存在。
それは人の目に捉えられない姿で遍満している。
自分の祈りが足らなかったとか、祈りが通じたとか、そういうものでは量れない。
もっとも尊いのは、その信心、祈る心、そして感謝合掌の心。
その心こそ強く、健やかで美しいとするのならば、
人はその心を育み、「心の目」を培い生きていけないものでしょうか。
誰かが苦しくて挫けそうなとき、
誰かが孤独を感じて努力を投げ出しそうになるとき、
人はみな、神仏の命のなかにいることを想像してほしい。
そして、神仏の世界、神仏の響きには、容赦なく苦難も伴い、
また、成功や失敗、栄光や挫折の「区別がない」ということも。
森羅万象、万事はご縁。
生きとし生けるものが神仏の命のなかに「生かされている」とは、
まさにそういうことなのだと思います。
たとえ、叶わない願いがそこにあっても、ありのままの姿として、
それを受け入れる心に、すべてのことは始まる。
辛抱強く時間を費やし、複雑な気持ちを整理したところに光が射し込む。
そして人は立ち直るたびに感謝をし、再び信じ、祈り続ける。
その心がいつまでも神仏とつながり、人の生きる力となり、
必ず功徳を得る。
必ず感動を得る。
いまの姿が美しい。
いまの姿がちょうどよい。
仏教にはきっと生きるヒントがある。
この桜の木をみて、満開と観る人もいるかもしれない。
合掌