花に通う心
花のお寺になるといいね。
そう言って下さる方が、蓮にはじまり、モミジアオイ、ヨルガオ、
夕すげ、彼岸花など、たくさんお寺に届けて下さいます。
とても花がお好きなのだそうです。
春は〇〇が咲いて、夏は〇〇があるよね、秋になると〇〇が咲くでしょ。
あと、〇の季節に〇〇なんかあると、またいいよね~。
優しいお顔で、この寺を彩る花の様子を想像しながら話して下さいます。
自分に関心をもってもらえることって、誰でも嬉しくて励みになるんです。
いまの私の場合、自分にではなく、それはお寺のことを指します。
京都から帰り、一田舎のお寺に入って感じていることは、行事などでお寺に通い、
お寺の今後を気にかけてくれる方が身近にいることが、とても有り難いということ。
人の集う、活気ある総本山に勤めていた頃は、そんな気持ちが薄かった。
さて、花のことですが、
いただいたお花を植えようとしても、なかなか好条件が整った場所が
境内に見つかりません。
実は昔から、様々なものがあちこちに植えられていて、混在状態なのです。
それでも、良さげな所にスペースを見つけてひと通り植えました。
花の知識がなく申し訳ないのですが、これは楽しい作業ですね。
気づいたことは、自ずと「他人の目線になって」植えていたことです。
花に対する人の導線、目線、距離。
また、時間帯やシチュエーションから目に入るであろう花を想像しながら。
些細なことですが、この気づきは私にとって、とても良かったことなんです。
花に学ばせてもらったと言うと大げさでしょうか。
仏教が花にも例えられることに合点がいきました。
花に触れることが心を豊かにするということもわかってきた気がします。
花が贈り物の代表としてあるように、花には人が心を通わせます。
まったく人気のない山のなかにあるこの寺の発祥地に彼岸花を植えて下さった
檀家様の気持ちも、慈悲深き温かなお心であったに違いありません。
いつも通う道に控えめに咲く小さな花にも、誰かが思いを寄せているかもしれない。
喜びの花かな。それならよい。
悲しみの花かな。それはそれでよい。
人の心を受けとめてくれる寛容な花たちよ。
合掌