二度とない時の輝き
手嶌葵さんの歌う『明日への手紙』という曲のなかに
こんな詞があります。
人は迷いながら揺れながら歩いてゆく
二度とない時の輝きを見つめていたい
私はこの曲すべてが好きなのですが、そのなかでも
この部分に仏教的要素を感じ、惹きつけられました。
(作者は意図してないと思います。すみません。)
こんなことを思うのです。
人は生きている限り迷い続けるもの。
迷うことがその人の人生の道となる。
私のもつ仏教的価値観は、
迷いを断ち切ることが「終着駅」なのではなく、
迷いのなかにも仏を探し続ける「信仰心」です。
誰もが二度とない人生、二度と辿ることのないこの時を歩んでいます。
だからこそ、この時とは輝かしく、そして非情な厳しさも伴うのです。
12月12日は祖師興教大師覚鑁上人のご命日です。
覚鑁上人は、人の「臨終の大事」を説いています。
人は幾ばくも無い命の時のなかにあって、自分の限りある「呼吸」のなかに、
仏を観想することができるというのです。
最期が迫るなかで、どうしたらそんな境地に到ることができるでしょうか。
見守る人にとっても同様のことが言えます。
私は、その時、心に観ることのできる仏さまの存在が、
人それぞれにあるものと考えています。
人それぞれの仏さまとは、死が迫って探しにゆくものではなく、
達者なうちの日々から結ばれていくものです。
お寺や先祖の墓などに限らず、たとえば何気ない日常や人との関わり、
身近に見つけた自然の草花、川の流れる音や鳥たちの声にもあるのです。
仏さまは姿形や音を定めず「遍満」しているのですから。
どこにそれを感じとり結ばれていくかは、心のスイッチがみな違うのでしょう。
ある日のお参りの方のお背中
わかりやすいシーン、そして受け継がれる大切な行ないのなかにおいて、
私は回忌供養を終えたご家族に向け、このようにお伝えすることがあります。
「供養には養うという字が含まれています。
これからは亡き人の御霊とともに、ご自身も養うなかに加えて下さい。」
回忌の節目に供養を重ねることは、形変わりゆく者たちが
形のないものを敬い、幾度も向き合うということです。
養うとはそういうことであり、この先を生きる者の心が養われる、
その姿がお供えされるのです。
重ねる供養は「追善」と呼び、徳が積まれることだそうですが、
まさにその通り、仏縁の徳であると思います。
臨終の大事に観る、一呼吸のなかに宿る仏さま。
やがて来るその時には、きっと結ばれているはずです。
冒頭、手嶌葵さんの歌う詞には、このような一節もあります。
「形ないものの輝き」
形あるものを求め振り回されている人の世にありますが、
人の主(あるじ)は形のない心です。
人生の創造主こそ、始めは形のない心。
この心の水が乾くことがないかぎり、
人は迷い尽きぬ日常に形ないものの輝きを映すことができます。
人それぞれに、仏さまを感じ結ばれていくのです。
二度と戻れない道に迷い悲しみ、何度も洗われて輝く人の姿。
合掌