出るが先
法話会のご縁からお世話になっている宮司様から、餅、米、魚、野菜、菓子など、
様々ないただきものをするようになりました。
昨秋、立派な大根を三十本も、漬物樽、漬物石と合わせて届けていただき、
初めて大根漬けを体験しました。もちろん漬け方を教えて下さったのは宮司様。
師走半ばに入ると宮司様から連絡がありました。
「そろそろ漬かっているか味をみて下さい。浅くても、それはそれでいいですよ。」
初めて自分で漬けた大根ですが、宮司様のおかげで味、食感、とてもよいと思えました。
家だけではとても食べきれない量なので、縁のある方に差し上げることにしました。
12月、納めの写経体験会参加者を始めとして、お口に合うか心配でしたが、
いろんな方に初心の漬物をもらっていただきました。
たくさんあった大根が少しずつ減っていくと、これが面白い偶然で、ご縁の方々が、
野沢菜などたくさんの漬物をうちに届けに来てくださることが続いたのです。
不思議なものだと感じてこれを頂戴しておりました。
おかげで年末年始は毎日毎食漬物を食べて、まさに塩分過多の状態。
こども達も漬物が好きなようで、おやつでも冷蔵庫を開けて漬物を食べるほど。
幼いうちからしょっぱいものを好んで大丈夫かなと心配になるくらいです。
宮司様にこうお話ししました。
不思議なもので、年の暮れに漬物を差し上げていたら、同じようにいろんな方から
たくさんの漬物を頂戴してばかりでした、と。
すると、宮司様はこのように仰いました。
「出さないと入ってこないのが、世の常ではないでしょうか。」
随分さらっと口にされたのですが、この言葉は大変に深い意味を含んでいます。
これほど自然に自分の言葉として口にできるのは、まさに心と行動の両面が
習慣として身に付いておられるからなのでしょう。
出さないと入らないとは、言葉の表面だけを受け取れば見えない、真理を突くもの。
人が身も心も凝固し、柔軟性や余裕を失うのは、目に映らない迷いの壁があるから。
その迷いのもとにあるのは「執着」の心です。
固く握りしめ、決して手放そうとしない価値。そこに余計な力が働いているからです。
人の執着は言い出せばきりがない。
出さないも執着、出さねばならぬと思うことも執着。
自分に向けている価値を手放して、初めて執着は離れていくのでしょう。
私は、何かを実践すること自体も出すということと捉えます。
内にある考えを「行動」に移すことで、「結果」が入ってくる。
ただし、良い結果ばかりではありません。動けば動くほど失敗も体験します。
人は出すことばかりではなく、得てして入ってくる中身にも一喜一憂し、
囚われてしまいがちです。
つまり、よい結果ばかりに拘ってしまうことも、迷いを生む執着なのです。
重ねた失敗体験とアップデートから導かれる成功はきっと訪れます。
執着との向き合い方って、本当に難しいですね。
でも、出入り口と書くように、入るより先に出す。列車はお降りの方が優先です。
出さないと入らないのは、言い得て妙、世の真理だと思います。
考えや身辺を整理整頓し、時に「断捨離」を行なう。
溜まったストレスや体の不調も出すべき時には出す。
離れること、近づくこと、手放すこと、受け止めること、どれも別々のものではない。
どこかですべてはつながっている。
行動に示せば、必ず「変化」が生まれる。その変化も恐れてはいけない。
変わらないことに執着してはいけない。
変わりゆく世に、私はポツンと生かされ、運ばれている。
まだ漬かりは浅いが、それはそれでいい。
合掌