野に咲く花のように
いま、川岸の高尾霊園は一帯がマーガレットの花畑のようです。
初夏の花が墓地を飾ってくれています。
お寺の境内は蓮の葉が成長し始めました。
これからは追肥を行い、葉がぐんと大きく伸びていく様子に期待を膨らませ、
今年も夏本番を迎える頃、美しい蓮の花に出会えることが楽しみです。
仏教では、教えのなかに例えで花をあげます。
花の因となるものがなければ、花(果)には出会えません。
どなたもがご存じの「因果」の真です。
仏教はこれを戒めとすべく、善因善果、悪因悪果の理を伝えています。
より深く見つめてみると、そこにはいくつもの「縁」が働いています。
縁とは、自覚できるものばかりではなく、その多くは自覚のない、
一分一秒無数の働きが交わっています。
「因×縁=果」
因なるものに縁が働いて、果が生じます。
さて、こどもたちは、教育の一環で花を育てる機会を与えられます。
種を撒いても水をあげないと育たない。命にふれる体験。
花に水をかけるだけでは育たない。
まずはよい土が必要であって、そこにしっかりと根が張ること。
水をあげて湿った土から、根が水分を吸い上げてくれる。
大切な部分は土のなかにあり見えない。これは想像の体験。
日を浴びてすくすくと成長する花があれば、日陰を好む花もある。
命を育てることは、なかなか容易ではないと知る。
花観察を通しての縁とは何か。
人の手でいうと、水やりや肥料、そして温度管理もそのひとつでしょう。
これらは命に対する「愛情」というご縁です。
つまり、こどもたちは命にふれ、愛情を育んでいるわけです。
さらに、花を人に例え、人に対する思いやりの心に結び付けていきます。
では、咲かなかった花とどう向き合うか。
私たちは生きていれば、多くの失敗を重ねます。
しかし、結果だけを見て一喜一憂してはならない。
過去にこう教わったことがあります。
ひとつの失敗を自ら失敗と決めつけ手放してしまえば、それは本当の失敗となる。
なぜ事がうまく運ばなかったのかを考えて整理し、後悔ではなく反省することで、
その体験は「財産」になる、と。
失敗ひとつも、自分次第でその後の成果につなげることができ、
いつか過去の失敗を振り返り、あれは良縁だったと思える時が来るのです。
未来が過去を変える、という価値観が存在するのはそのためです。
花も人も共通しています。大切な縁の部分は見えず、また捉えにくい。
失敗と成功だけで良し悪しを計らず、経験そのものが財産となれば、
それを縁として、きっと先々にかたちとなりつながっていくのでしょう。
花にまなぶ。
いまを生きているということは、常にご縁を授かっているということ。
日本のご先祖は「おかげ」という存在に気づき、日常それに手を合わせてきました。
まさに美徳であると感じます。
時代が移り変わっても、人が三密(行い・言葉・意識)を健やかにして、
よいご縁をつなぐことはとても尊いと思えます。
数限りないご縁が命を支えてくれていて、
生きていれば不思議なめぐり合わせにも出会います。
そこに咲く花のように、生きていればこそ。
合掌