ほとけさまのこえ
梅雨時期から境内の草の伸びは一段と増し、毎日の作務でも
草取りが追いつきません。
お寺の裏側、人目につかない所などは後手後手に。
皆さんが立ち寄られる場所は、大きくなる前には取ってしまうことを心がけています。
しかし、一度綺麗にしても、この時期はまたすぐに伸びます。
抜かれても抜かれても、踏まれても踏まれても。
平成時代の野球選手に、その不屈の精神力と体躯の強さから、
その人を表す雑草魂という言葉がありましたね。
お寺での日々には、よい気づきや学びがあります。
広い境内の草取りを日課とする生活を続けていて、とめどなく生えてくる草を、
強い意志を持つ者に重ねて見ることはありません。
私にとって、それは紛れもなく「煩悩」です。
取っても取っても、均しても均しても、けして無くなることはない。
いくらでも生えてくる草、これはまさに煩悩をもつ私の内側の姿ですね。
煩悩が無くならないとわかっていても、これを放っておいてはいけない。
だから、よくよく向き合いながら、摘み取っていく作業が人には必要なのです。
やがて庭が綺麗になれば心は晴れる。
煩悩即菩提、という言葉にもなるほどなと思います。
その繰り返しです。ここに人生の縮図があると気づかされます。
境内の草取りに学んでいると、あちこちから蓮の開花の知らせが届きます。
お寺から「はすの輪」を広げてくれた皆様方からの嬉しいメッセージです。
送って下さる写真を見て、私も嬉しくなります。
皆さんの育てている蓮は葉も色濃く立派に成長し、美しい花を咲かせています。
迷い苦しみ、煩悩のなかに在りながら、それに染まることなく水面から姿を現し、
それらを大切な栄養として浄化させて花開く。
蓮の花は、仏教の花。悟りの象徴ですね。
雑草に学び、
高貴な蓮に学び、
人に学び、山に学び、見上げた空にも学ぶ。
神や仏を様々に感じとることができます。
ほとけさまの声が聞こえない。
それはきっと、その姿かたちを想像しているからです。
例えば、仏像のお姿であるとか。
神仏は、かたちのないものではないでしょうか。
鬼も然り。
かたちないものが、様々なかたちや事象となって私たちの前に現れる。
そしてかたちあるものたちが、かたちないものに還っていく。
それは、計り知れず大きなエネルギーであり、またとても微細な存在でもある。
私たちは人智及ばないことのなかに今日も生活を営んでいます。
ただ、確かなことは、「五大に響き」あり。
仏の説法はありとあらゆるところに遍満しています。
蓮の知らせを届けて下さる皆さま、ありがとうございます。
合掌
真福寺境内の蓮(7/18 艶陽天と白蓮)