優劣をうたがう
街を歩いていると、若い女性が新聞のような物を配布していました。
一瞬見えた文字から宗教新聞と気づきました。
何が書かれているのか興味があり、一部いただき、
私に関心をもたれても応じることなく、一礼して立ち去りました。
一宗教。
ひと通り読み終え、それがもとは仏教から波及したものとしても疑問が残る。
法による「力」
大いなる導きの力。先見の力。救いの力。
それらの存在の「主張」が文面からみてとれます。
ものの受け止め方は人によりけりですが、
この「力」に対して傾倒するのは、正直違和感を覚えます。
神仏の力が強力であるがゆえ、普段は見られない特別が生じると聞いても、
その「特別」というものさえ疑ってしまうと言えばよいでしょうか。
私は、普段と特別の間には、はっきりとした線引きなどなく、
森羅万象、生きとし生けるものに神仏の響きがあり、
そこに優劣はないと考えています。
神仏のなかにいて、この世の理を弘法大師はこのように伝えています。
「物の興廃は必ず人による。 人の昇沈は定めて道にあり。」
必ず“人”による。
願いを成就するためには、まず自身が正しく努力する道が大切です。
人生には選択を迫られる時が幾度と訪れます。
この選択も自分の培ってきた経験値や思考力が試されたり、
頼りにする人からの助言や支援を必要としたりするものです。
その後、選んだ道を潔く生きることもまた、その人の強さや信念でしょう。
そして、感謝の心も、その人のなかに育っている人間力だと思います。
仏教は、結果を約束するものではありません。
この世の苦楽、喜び悲しみに寄り添い続けてくれるものと思います。
「結果」に支配されるのではなく、教えに照らし、心身に乱れあればととのえ、
いまを生きるための仏教でありたいものです。
小学生の頃に読んだ人気漫画に、
どんな願いも“ひとつだけ”叶えてくれる、神龍が現れるシーンがありました。
そんな龍が現実に目の前に現れたら、何を伝えますか。
瞬時にして迷う気がします。満足に気づかされるのかもしれない。
結果を「自在に操り創造」する『絶対的存在』とは、
人の迷いや恐怖心を生むものではないでしょうか。
仏の教えに、力の優劣を競うものさしはありません。
身近にある、安らかな身と心の教えです。
満ち足りていながら、不平不満を言っている自分があるとすれば、
そういう姿を見つめなおさせてくれるものと思います。
「ありがとう」「ごめんなさい」「おかげ」の心を生涯失わないための教え。
ある動画で見かけた、つきたてのお餅を提供する店のご主人が、
餅をつくまえに、目の前の蒸されたお米に向かって手をあわせる姿。
実に忘れてはならない、謙虚で温かな人の心でありました。
合掌
寺平 覚鑁上人像