見えないもの
向こうに人影があるように見えます。
この人影が弘法大師(修行大師像)に見えます。
お分かりのとおり、単に壁にできた染みでして、観音堂に向かう際にその姿が見れます。
近年、徐々に染みが増して、気が付けばこんな姿になりました。
単なる染みとわかっているのですが、それが弘法大師に思えてしまう。
それは、私が日頃弘法大師のお姿を見ているからにすぎません。
人には潜在的なものが作用し、こういう思い込みや感性を働かせることがあります。
初めてこれを見たときに、染みとわかっていても手を合わせました。
実は、いまも朝の観音堂でのおつとめが終わると、離れたところから一礼します。
全国にはこのような信仰はたくさんありますよね。
仏の姿かたちに見える自然石や樹木の一部を仰いでいたりすることなど。
諏訪湖の御神渡りは、寒さで凍った水が生みだす自然現象に神を見ます。
科学的に説明のつく自然現象のなかに神秘性を感じることは、
人に潜在的に宿る神仏への崇拝の心、あるいは畏怖だったりするものと思います。
「見えないものを感じ取る」
科学の面を切り離すことなく、両輪として失わずにいたい信仰心ではないでしょうか。
さて、視点を変えます。「活字」はどうでしょうか。
人の手によるメッセージはどうでしょうか。
そこにある文字「そのままを受け取る」ことが大半だろうと思います。
咀嚼して、その奥にある心意を汲み取るのを習慣にするのは難しいでしょう。
ネット社会には、名をもたない言葉が溢れています。
対象に向かうその言葉は、けして良いものばかりではありません。
名を付けずに世に発せられた言葉たちには、人格を否定するような心無いものも多く、
それは、「見えないものを感じ取る」ことに欠けているのでしょうか。
人によって作られたネット社会は、言葉を遠くの対象にまで伝えるだけでなく、
時に、それをとてつもないスピードで巨大化させていくのが特徴です。
もとは意思や姿をもたなかったものだったとしても、「言葉の力」は強いもので、
やがて、はっきりと姿カタチを見せていく怖さを含んでいます。
それによって人は深く傷つき、人格が壊されていくのです。
本来多くの恩恵を授かることのできるネット社会。
人の気持ちひとつで、空気ががらっと変化する社会。
膨大な情報の取捨選択が求められる現代をよく生きていくためには、
個人個人の生活が、まずこの中身に囚われすぎてはいけない。
見えないものを感じ取るのは、慈悲の心ともいえます。
人は慈悲によって救われます。
人の世の空気は、ある時、がらっと変わります。
立ち止まることで、言葉の巨大化に「加わらない」ことも慈悲。
私がそうですが、人はそんなに強く、そして清くはないですよね。
合掌