鐘の音
真福寺の鐘楼の大きさは県内屈指と聞かされています。
この鐘を毎朝5時30分少し前から、ゆっくりと6つ突いています。
まだ京都に住んでいる頃、たまにこちらに帰ると朝はわたしが鐘をつきました。
すると、その日に出会う方からこう言われるのです。
「今朝打ったのは若だろ。音でわかる。」
違いはいたってシンプル。
住職は「とにかく強く突け、遠くまで聞こえるように。」と言う。
わたしはそうはしなかった。ただゆっくりと突く。
早朝の鐘の音は、実は近所の人の耳にも届かない。
いや、届かないのではなく、入らない。
かと思えば、遠くの人が聞いていたりもするのです。
ごく日常の空気に溶けてしまう鐘の音は、意識しないと届かないのです。
では、この鐘は何のために突いているのでしょうか。
昔からあるのは、時刻を知らせる「役割」としての鐘。
また鐘の音には供養と祈りの「功徳」があるとされています。
いまの時代、時報としての価値は薄く、もっとも大切なのは役割としてではなく、
仏の「声」としてあるべき鐘の音。
仏の声というのは、諸行無常の声。
鐘の音は、やがて薄まり消えてゆく「無常」を示すものであるとともに、
それを聞いた人も、今日一日の始まりや終わりといった無常観を感じ取るわけです。
20年も前は、住職から口癖のように聞かされていました。
この鐘楼の大きさは県内一だと。
申し訳ないけれど、その言葉はわたしの胸には響かなかったのです。
なぜ、そのサイズが必要であったのか。
将来、維持管理の高いハードルを抱えていくだけではないか。
わたしは遠くまで響かせようと強く大きくは打たない。
まずは毎日もっとも近くで音を聞く自分が心地よいものでありたいから。
そして、この音を毎朝聞いている人が必ずいます。
たまに聞こえてきたと気付く人もいることでしょう。
寺の鐘本来の美しさは、「人の心に訴えかけるもの」であるということです。
毎日鐘の音を聞く人たちも、いつも同じ心をしてこれを聞けるわけではありません。
それは鐘を突くわたし自身もそうであるのだから。
やはり、無常なのです。
この鐘の音を聞いた人の心に響くものがなんであるか。
いつもじゃなくてもいい。すべての人じゃなくてもいい。
いつか誰かが聞いた鐘の音が、その人の心のなかで響き、抜苦与楽の力となれば有難い。
今日も観音経を唱えながら諸行無常の鐘を鳴らします。
合掌
真福寺の鐘は日中どなたも突けます。願いを込めて音を響かせて下さい。